/*/ 逢瀬学園・報告 /*/
夏休みも半ば。
インターハイから戻ってきた東青見は、まっすぐ逢瀬学園の本館奥――理事長室の前に立っていた。
深い木目のドア。
上品すぎて、学生が気軽に出入りしていいのか迷うような扉だ。
「入って」
ノックに応じて中から返ってきた声は、いつもどおり、穏やかでよく響く。
ドアを開くと、書棚に囲まれた部屋の奥に、伊集院貴也理事長が座っていた。
薄いグレーのスーツ。落ち着いたネクタイ。
窓から差し込む午後の光が、彼の眼鏡のフレームを淡く照らしている。
正面には、剣道部顧問の先生と、高山直哉主将。
それから、事務方らしい教員が一人、控えめに立っていた。
「失礼します」
青見は一礼して、用意された席に腰を下ろす。
「インターハイ、お疲れさま」
貴也は手元の資料から顔を上げ、ふっと微笑んだ。
「東くん。全国優勝、おめでとう。東北勢初だね」
「ありがとうございます」
「二年でここまでやってくれるとは、理事長としては嬉しい誤算だよ。君たちの代が入ってきたとき、それなりに期待はしていたけれど……いい意味で裏切られた」
顧問が照れくさそうに笑う。
「指導者冥利に尽きます」
「顧問の先生のご尽力もあるでしょうが……」
貴也は、そこで一度言葉を切ると、椅子から立ち上がった。
机の前まで歩み寄ると、青見の真正面に立ち、じっとその目を見つめる。
「何より、本人の“芯”の太さだ」
その視線は、ただ成績を褒める目ではなかった。
奥底に、別の意味を含んだ観察がある。
数秒の沈黙。
室内の空調の音が、妙に大きく聞こえた。
「……少し、見ないうちに」
ぽつり、と貴也が言う。
「君、何か質の悪いものに見初められたようだね」
顧問が「は?」という顔をして瞬きをする。
高山も一瞬、意味が分からないように眉を寄せた。
だが、青見には――それが何の話か、すぐに分かった。
(気づいてるのか)
宿の夜。
胸の上の重さと、悪臭と、耳の奥に残る、あの声ならざる声。
思わず背筋に力が入る。
それを悟ったように、貴也は軽く口元をゆるめた。
「まあ、君なら大丈夫だろうけどね」
さらりと言ってから、さらに一歩だけ距離を詰める。
「ただ――心配なら言いなさい。対処できる」
「……ありがとうございます。その時はお願いします」
青見は、ほんのわずかに頭を下げた。
その一往復だけで、二人の間には「何を指しているか」が共有される。
他の三人には意味不明なやり取りでも、当事者にとっては十分だった。
「おや、何の話ですか?」
顧問が、半分冗談めかして口を挟む。
「いえ、ちょっとした“健康面”のお話ですよ。東くんは、身体だけじゃなく、心も丈夫にしておかないとね」
貴也は、いつもの柔らかい社交用の笑みで言ってのけた。
本気で誤魔化しているわけではない。ただ、聞かれたくない中身を、自然に手の内から外へ滑らせている。
「本人が頼ってきたら、それからです」
「……はあ。まあ、頼もしい限りですな」
顧問はまだ首をかしげていたが、それ以上深く追及はしなかった。
高山だけが、一瞬だけ青見の横顔を見た。
そこに、昨夜のことを話すべきかどうか迷いがよぎるが――いまここで全部を晒すのは、直感的に“違う”と感じて、胸の内に留める。
「では、改めて。おめでとう、東くん。君の優勝は、逢瀬学園にとっても誇りだ。後輩たちに、いい背中を見せてあげてほしい」
「はい」
青見は深く一礼した。
その背中を、貴也はじっと目で追っていた。
(“質の悪いもの”か……)
心の中で反芻する。
理事長室の窓から見える校庭には、夏休み中も部活に励む生徒たちの姿がある。
その平和な眺めのどこにも、あの粘つくような悪意の気配は見えない。
――だからと言って、存在していないとは限らない。
「さて。あとは若い者同士で盛り上がりなさい。体育館で何かやるんだろう?」
促されて、四人は理事長室を辞した。
/*/ 格技場の祝宴 /*/
体育館の端にある格技場は、いつもよりも少しだけ賑やかだった。
畳の上には、菓子やジュースを並べた長机。
剣道部の面々がジャージ姿で集まり、わいわいと話しながら紙コップを手にしている。
「それじゃあ、改めて」
高山主将が前に出る。
後ろには、優勝旗とトロフィー。
「東。全国優勝、おめでとう!」
どっと拍手と歓声が上がった。
「二年でこの快挙だ。正直、主将としては鼻が高い。来年はお前がこの場で締めの挨拶だな」
「……プレッシャーかけないでくださいよ」
苦笑しながら頭をかくと、後輩たちから「先輩すげーっす」「写真撮ってください!」と一斉に声が飛ぶ。
「順番。順番な。トロフィー倒すなよ、お前ら」
顧問が半分本気で怒りながらも、どこか嬉しそうだ。
そこへ。
「ちょっと、剣道部ばっかり目立ってるの、ずるくない?」
格技場の入口から、明るい声が飛び込んできた。
振り向くと、体操着から私服に着替えた彩女が、紙袋を抱えて立っていた。
背が高く、スラリとした手足。
全国大会を戦い抜いたばかりの身体は、疲れがあるはずなのに、その気配をまるで見せない。
「安達、お疲れ」
「そっちこそ」
彩女はひょいと片手を上げる。
「ベスト16どころか優勝って――やるじゃないの、あんた」
「……お互い様だろ」
青見も自然と口元が緩む。
体操部の方でも、彼女は個人総合優勝を成し遂げていた。
長身ゆえに本来は不利とされることも多い種目で、その身体の線を最大限に生かした演技は「迫力のあるダイナミックな演技」と評判になった。
「ニュース見たぞ。“後方かかえ込み2回宙返り3回ひねり”とかいう、“なんか字面からして頭おかしい技”を決めたって」
「失礼ね。頭おかしくないわよ。ちゃんとルールに載ってる難度よ」
むっとしたように言いながらも、どこか誇らしげだ。
「でもまあ――」
彩女はにやりと笑った。
「あんたが“全国取りに行く”って言うから、わたしも張り切っちゃったわけ。責任取りなさいよね」
「知らんうちに責任背負わされてるな、オレ」
こそっと漏らしたぼやきに、周りの部員たちが「青春だ~」「夫婦かよ」と茶々を入れる。
「誰が夫婦よ!」
即座に噛みつく彩女に、笑いが起きた。
やがて、剣道部と体操部の有志が一緒になって、ささやかな祝賀の場ができあがる。
スポドリで乾杯をして、全国の戦いを語り合い、くだらないネタで盛り上がる。
だが、その輪から少しだけ離れた場所。
格技場の隅、観覧席へ続く階段の途中で、二人の姿があった。
/*/ 祝宴の影で /*/
「……で?」
階段に並んで腰を下ろし、紙コップを片手に持ちながら、彩女が切り出した。
「さっき理事長室で、なんか妙な空気出してたわよね、あんたと理事長」
「見てたのか」
「ドア閉まってても声くらい聞こえるわよ。“質の悪いものに見初められた”とか」
青見は、少しだけ目を細めた。
「……そう、あんたのところにも出たの」
彩女の言葉に、一瞬だけ心臓が跳ねる。
「“オレのところにも”、って言い方だな」
「わたしのところにも、今朝出たわ」
あっさりと言って、ストローをいじる。
「今朝?」
「うん。家で目ぇ覚ましたら、天井の角のあたりから、なんか黒いのがじわじわ落ちてきてさ」
さらっと言う内容じゃない。
「最初、寝ぼけてるのかと思ったけど、あの臭いで一発目が覚めたわよ。獣っぽいっていうか、腐ったっていうか」
「……同じ臭いだな」
昨夜の宿の部屋を思い出して、胃のあたりがきしむ。
布団越しの重さと、一晩中抜けなかった悪臭。
「で?」
青見は、嫌な予感と興味が半々になった声で訊ねる。
「どうしたんだ」
「どうもしないわよ」
彩女は、事もなげに言った。
「思いっきりビンタしてやったら消えたけど」
紙コップのストローをくわえながら、まるでゴキブリを叩き潰したとか、その程度の口調だ。
一瞬、間が空いた。
「……パワフル」
心底からの感想が、それしか出てこない。
「だって、のしかかってくるとかじゃなくて、わたしの顔覗き込んできたからさ。条件反射で手が出たのよ。ほら、あの夜の避難小屋の時もそうだったけど、怖いもの見ると先に手と足が出るタイプなの、わたし」
自分で言うな、と思いながらも、妙に納得してしまう。
「でもさ」
彩女は、ストローをくるくる回しながら、少しだけ真剣な顔になる。
「避難小屋の時の“あれ”とは、ちょっと違った。もっとこう……ねっとりしてた。直接、命を取りに来るって感じじゃないけど、“狙ったものを腐らせに来る”みたいな」
「腐らせる、か」
心当たりは、ありすぎるほどあった。
腐ったドリンク。
変質した水。
破裂した竹刀。
「で、あんたのは?」
「オレのところにも、宿で出た」
ざっくりと昨夜のことを話す。
金縛り。
胸の上の重さ。
あの悪臭。
鉄の棒を振り抜いたこと。
そして、耳の奥を削るような叫び。
「……あー」
聞き終えた彩女は、面白くなさそうに唇を尖らせた。
「やっぱり“本命”はそっちなんだ」
「本命?」
「そ。わたしのところのは、多分あんたの“おこぼれ”よ。噛みつき損ねた獣が、帰る前に一回だけ様子見に来た、みたいな」
妙にしっくりくる比喩だった。
「でもまあ、わたしのところに来た時点で運が悪かったわよね、そいつも」
「ビンタ一発で追い返されるしな」
「当たり前じゃない。あんたの邪魔する怪異なんて、ぶっ飛ばして当然でしょ」
さらっと言ってから、ふと視線を横にずらす。
格技場の真ん中では、後輩たちがトロフィーを囲んで写真を撮っている。
高山や顧問が、それを見ながら笑っている。
どこからどう見ても、平和な光景だ。
その端っこで、二人だけが、別のものの気配を共有している。
「……理事長、なんか言ってた?」
「“対処できる”ってさ。心配なら言えって」
「へえ。さすが逢瀬学園の理事長ね。そのへん、ちゃんと見えてるんだ」
彩女は肩をすくめた。
「まあ、頼るのは最後でいいんじゃない? まずは自分たちでどうにかするって前提でさ」
「お前、ほんとにパワフルだな」
「褒め言葉として受け取っとくわ」
冗談めいたやり取りをしながらも、二人の目は笑っていなかった。
あの夜、避難小屋で見た“何か”。
今回のインターハイの周囲で蠢いた“何か”。
そして、今もなお、どこかからじっとこちらを見つめている、ねっとりとした視線。
(まだ終わってない)
その直感だけは、揃っていた。
格技場の天井の高い空間に、部員たちの笑い声が響く。
その音を、どこか遠くから、別の何かが舐めるように聞いている気がした。
「ま、でもさ」
彩女が立ち上がって、伸びをする。
「全国優勝の祝勝会で、ずっと暗い話してるのも性に合わないわ」
「確かに」
「だからさ。今は勝ったこと喜んで、食べて、笑っときましょ。どうせ来るなら、どんな顔して来ようと、ぶっ飛ばしてやるだけだし」
そう言って、彼女はいつものように、不敵に笑った。
「……頼もしいな」
本心からの言葉に、彩女はわざとらしく顎を上げる。
「もっと褒めていいのよ? 全国個人総合優勝の安達様なんだから」
「はいはい、安達様」
「その調子」
二人は階段を降り、再び仲間たちの輪の中へ戻っていった。
夏の午後。
逢瀬学園の体育館に満ちる熱気と笑い声の陰で――
あの夜と同じ、ねっとりとした悪意の視線だけが、少しずつ、確実に濃さを増していくのだった。