/*/ キッチンの惨劇 /*/
夕暮れ。
部活終わりの帰り道、逢瀬学園からの坂道を、二人並んで下っていく。
「今日、高山先輩の顔、めっちゃ緩んでたよね」
「そりゃ全国優勝だしな。あとは後輩に任せて引退できるって、ほっとしてるんだろ」
「……来年は、あんたがそれ言う番か」
そんな他愛ない会話を続けながら、青見と彩女は、いつものように隣り合った自宅へとたどり着いた。
「じゃ、また明日」
「おう」
各自、自分の玄関に鍵を差し込もうとした――その時。
中から、女の悲鳴が響いた。
「……今の」
「うちだ!」
彩女がほとんど反射で扉を開け放つ。
青見も、自分の家の鍵を抜く暇も惜しんで、すぐさま安達家側へ回り込んだ。
「お母さん!?」
玄関から廊下へ駆け抜け、リビングを素通りしてキッチンへ飛び込む。
そして、目に飛び込んできた光景に、二人の足が同時に止まった。
流し台の前。
エプロン姿の彩女の母が、床に組み敷かれていた。
その上に、のしかかっている――「何か」。
半透明。
クラゲのような、ゼリーのような塊が、
人型のような、そうでないような、曖昧な輪郭を作っている。
内側には、黒ずんだ血の塊のようなものが、ゆらゆらと浮かんでいる。
全体から立ちのぼるのは、あの宿の夜と同じ――いや、それ以上に濃い、獣臭と腐臭。
「っ――」
喉がひゅっと詰まる。
あの夜の悪夢が、瞬時にフラッシュバックした。
彩女の母は、首をがっちり押さえつけられている。
だが、その目ははっきりと開いていた。恐怖はある。だが、それだけじゃない。
その視線が、一瞬だけ二人をとらえる。
そして、その上に覆いかぶさる「化物」の、どこが顔なのかも分からないのに――そちらからも、視線のようなものを感じた。
目と、目と、目が、交差する。
(……わかった)
言葉はない。
けれど、青見には理解できた。
視線が訴えてくる。
「それを捨てろ」と。
右手に握っていたのは、安生道場からそのまま持ち帰ってきた鉄の棒。
刀と同じ重量バランスの、あの夜、自分を救った武器。
玄関先で、なんとなく離したくなくて、そのまま持って上がってきていた。
それを、化物は明確に“敵”として認識している。
動けない。
少しでも踏み込めば、その瞬間に首を折られる――そんな直感があった。
「っ……」
ほんの刹那の逡巡。
その間に、化物の内部で、何かがするりと伸びる。
半透明の肉の中から、細い刃のようなものが、にゅるりと首元へ滑り出た。
彩女の母の喉元に、赤く細い線が走る。
つうっと、血が流れ出した。
「やめろ!!」
思わず叫び、肺の奥が焼けるように熱くなる。
脳裏に浮かんだのは、棺の中の両親の顔だった。
昨年の夏。
理不尽な形で命を奪われた父と母。
――守れなかった、自分。
今度は、隣の家の、いつも優しく笑ってくれる母親が、自分の目の前で殺されようとしている。
(もう嫌だ)
胃の底がねじ切れるような感覚と一緒に、言葉がこぼれた。
「わかった……捨てる」
鉄の棒が、手からするりと滑り落ちる。
床に落ちて、鈍い音を立てた。
その瞬間、胸の奥から、何かが崩れ落ちるような感覚がした。
絶望。
後悔。
去年、何もできなかった自分を、もう一度なぞっているような恐怖。
肩が震えるのを、必死に堪える。
その時――
「ダメよ」
押さえつけられているはずの彩女の母が、落ち着いた声で言った。
「え……」
青見も、彩女も、一瞬、耳を疑う。
「青見くん。こういうのはね――言うこときいても碌なことにならないんだから」
その口調は、駄目なセールス電話を一蹴するときと、まったく変わらない日常の声音だった。
次の瞬間。
彼女の右手首が、しなやかに――それでいて鋭く、しゅっと弧を描いた。
パァン、と指先から何かが弾け飛ぶ。
銀色のものが、空気を切る。
回転しながら一直線に飛び――
トスッ。
やけに軽い音を立てて、化物の「額らしき場所」に突き刺さった。
それは、ついさっきまで彼女が下ごしらえに使っていた包丁だった。
柄の根本まで、ぶすりと沈んでいる。
「…………は?」
キッチンに、間抜けな沈黙が落ちた。
彩女も、青見も、化物も。
三者三様、同じように固まる。
ついさっきまで、化物は圧倒的な“上”にいた。
人質を取り、こちらの武器を無力化し、少しずつ痛めつけて楽しむつもりだったのだろう。
だが今、額に包丁を生やした半透明の塊は――
なんとも言えない「ポカンとした」雰囲気を醸し出していた。
ぐにゃり、と形が揺らぐ。
そのまま、後ずさるように床を滑っていく。
輪郭が薄くなり、透明になりかけて――
「逃がさないわよ」
彩女の母が、その“肩に相当するあたり”を、がしっと掴んだ。
ぬるり、とした手触り。
普通なら条件反射で手を離しそうな感触なのに、彼女は一切躊躇しない。
掴まれた瞬間、化物の透明化が止まった。
消えようとしても、その境界が手の中でブチブチと引きちぎられ、現実に引きずり戻されているような――そんな印象。
化物の内部で、何かが慌てたように蠢いた。
青見には、言葉としては聞こえない。
けれど、はっきりと伝わってくる。
(……マズイ、マズイ、マズイ)
そんなニュアンスの、混濁した悲鳴。
「ほら、こういうのはね――」
彩女の母は、もう片方の手で包丁の柄を掴み、くい、と軽く引き抜く。
そのまま、まな板の上の野菜でも刻むみたいな要領で――
ためらいなく、切り刻んでいく。
べちゃっ、べちゃっ、と、柔らかいものを断ち切る音。
中身が飛び散るほどではない。
ただ、半透明のゼリーが、次々と小さな塊になっていくだけ。
それなのに、その度ごとに、耳の奥に「ぎぃっ」という掠れた悲鳴が響いた。
腕。
頭。
胴体。
最初から曖昧だったそれらが、包丁の軌跡を境に、ばらばらに分かれていく。
やがて、何かの“核”のような、黒ずんだコアだけが残った。
それも、最後にひと太刀。
トン、と軽く叩くような手つきで切り落とすと――
声ならざる声が、ぴたりと止んだ。
台所の床の上には、ぐずぐずに崩れかけた半透明の残滓だけが残り、
やがてそれも、熱された油のようにじゅうっと煙を上げて、消えていった。
鼻をつく悪臭だけが、強烈に残る。
「…………」
静寂。
さっきまで暴れていた“何か”が消えたというのに、歓声も悲鳴も出ない。
彩女と青見は、ただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。
水道をひねり、包丁を流し台の水でさっとすすぎながら、彩女の母が、ようやくこちらを振り返る。
「二人とも、大丈夫?」
「だ……大丈夫じゃないわよ!!」
ようやく声が出た彩女が、裏返った声で叫んだ。
「なに今の!? ていうかお母さん、首!!」
「ああ、これ? ちょっと切られただけよ。ほら」
タオルで押さえた首元を見ると、確かに細い傷と血の筋はあるが、動脈をいかれたような致命傷ではない。
本人もケロッとしている。
「救急車呼ぶ?」
「このくらいなら平気平気。あとで縫う必要がありそうなら病院行くわよ」
その肝の据わり方に、青見はようやく喉を鳴らした。
「……彩女のお母さん」
「なあに?」
「……強すぎませんか」
素直な感想だった。
「うちの母、なに者……?」
隣で、彩女も真顔で呟く。
「あら、普通の主婦よ?」
とぼけた顔でそう言う母の足元には、さっきまで“普通じゃないもの”がいた痕跡だけが、まだうっすらと漂っているのだった。