「何を驚いてるの?」
タオルで首を押さえたまま、彩女の母が首をかしげた。
「え、いやいやいやいやいやいやいやいや」
最初に壊れたのは彩女だった。
さっきまで声も出なかったくせに、一度スイッチが入ると、止まらない。
「普通びっくりするでしょ!? なんかよくわかんないゼリーみたいなのに押さえつけられて、包丁ぶん投げて、そっから素手でつかんで切り刻んで――っていうか今の何!? 忍者? 暗殺者? 秘密結社?」
「そんな物騒なものに入った覚えはないわよ」
母は苦笑して、タオルを軽く押さえ直す。
「せいぜい、ちょっと昔に自己防衛くらいは習ってただけ」
「“ちょっと”であれやんの!?」
「包丁は毎日握ってるし、慣れよ慣れ。それより――」
母は、まじまじと二人を見た。
「本当に大丈夫? 足とか手とか、変なところ触られてない?」
その問いだけは、さっきまでの軽さとは違う色をしていた。
青見は、そこでようやく自分の手足に視線を落とす。
服は汚れていない。
傷もない。
ただ、膝が笑っているのが、自分でも分かった。
「……たぶん、平気です」
「わたしも。メンタルは全然平気じゃないけど!」
「それは後でゆっくりケアしましょうね」
ケア、という単語をさらっと使いながら、母は台所をぐるりと見回す。
「とりあえず、床拭かないと滑って危ないわ。青見くん、そこに雑巾あるから、ちょっと手伝ってくれる?」
「え、あ、はい」
あまりに日常的なトーンで頼まれて、条件反射のように返事が出た。
ついさっきまで怪異と殺し合いをしていたはずの場所で、「お手伝い」が始まろうとしている現実が、青見の頭の処理能力を軽くオーバーヒートさせる。
「ちょっと待ってお母さん。まずその首なんとかしよ? ね?」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないから! 血出てんじゃん!」
「台所でちょっと指切った程度よ。場所が悪いだけ」
そう言いつつも、母は素直に救急箱を取り出して、鏡の前に立つ。
ガーゼを当てながら、首を少し傾ける仕草ひとつとっても、どこか手慣れている。
その手元を見ていた彩女が、ふと眉をひそめた。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「“自己防衛”って、具体的にいつ、どこで、誰に?」
「さあ、いつだったかしらねぇ」
母は、わざとらしいくらい曖昧な笑みを浮かべた。
「若いころに、ちょっと物騒な仕事場があってねえ」
「物騒?」
「ほら、夜遅くまで働いてたでしょ、お母さん」
「コンビニ?」
「それにしては、やけに投げナイフ上手かったけどなあ……」
青見が、つい本音を漏らす。
母は「ナイフじゃなくて包丁」と、どうでもいいところだけ訂正した。
「それに、さっきのアレ。完全に消えなかったでしょう?」
母は、さっきまでゼリー状の怪異がいたあたりを、スリッパの先で軽くつつく。
そこにはもう何もない。だが、鼻をつく悪臭と、床に残ったわずかな粘つきだけが、生々しく存在を主張していた。
「こういうの、昔からちょくちょくいるのよ」
「えっ」
声が重なった。
「“ちょくちょく”って、頻度おかしくない!?」
「年に一回あるかないか、くらいかな?」
「多いわ!!」
彩女が全力でツッコむ。
青見は、思わず一歩下がった。
――“昔から”?
「安達さんのお母さん」
「なに?」
「……そういうの、見慣れてるんですか」
「慣れたくて慣れたわけじゃないけどね」
母は肩をすくめる。
「でも、いるものはいるし。叫んでる暇があったら、ちゃちゃっと対処して、今日の晩ごはん作ったほうが建設的でしょ?」
「価値観がたくましすぎる……」
彩女が頭を抱える。
「それにほら」
母は、振り返って二人を見た。
「そういうのに出くわしたとき、“言うことをきいたら助けてあげる”って言ってくるのは、大抵ろくなもんじゃないのよ」
「……」
さっき、鉄の棒を手放した瞬間の、自分の胸のざわめき。
それと、母のこの言葉が、ぴたりと重なった気がして、青見は息を飲んだ。
「ちゃんと戦うつもりで、準備して」
「準備、ですか」
「そう。怖がるのは、ちゃんと後で。今は、目の前のこと片づける」
そう言って、母はさらっと笑う。
――その態度は、一周回って恐ろしいほど頼もしかった。
「……とりあえず、今目の前のことって、床の掃除?」
「そうそう。血とか、よくわかんないゼリーとか。乾くと落ちにくいから」
「“よくわかんないゼリー”……」
もう笑うしかない表現に、青見は苦笑した。
「じゃあ、モップと雑巾持ってくるから、二人は新聞紙敷いて。あと窓開けて。臭いが残ると、晩ごはんまずくなるわよ」
「やだそんな実害……」
文句を言いながらも、彩女はきびきびと動き出す。
こういうときの段取りの早さだけは、完全に母親譲りだと青見は思った。
窓を開けると、外の夕方の空気が一気に流れ込んでくる。
冷たい風が、少しだけ鼻につく悪臭を薄めてくれた。
「……安達さん」
「なに」
「やっぱり、お母さん、強すぎません?」
「でしょ」
彩女は、新聞紙をばさばさ広げながら、ため息をついた。
「強いし、なんか色々隠してるし。うちの家庭、思ってたよりファンタジー寄りだったかもしれない」
「“かもしれない”どころじゃないと思うけど」
そんなやり取りをしていると、台所の奥から母の声が飛んできた。
「晩ごはん、どうしようかしらねー。さすがに今日は生ものやめようか」
「そこは衛生的判断!?」
「ほら、匂いが移ったらイヤでしょ?」
言われてみれば、もっともだ。
ゼリー状の怪異の残り香と、お刺身の香り。
その組み合わせを想像してしまい、三人とも同時に顔をしかめた。
「……カレーでよくない?」
「賛成」
「異議なしです」
その夜。
安達家のキッチンでは、“キッチンの惨劇(?)”の後始末と、どこか妙に日常的なカレー作りが、同じ流れの中で粛々と進んでいくことになるのだった。