/*/ カレーと家族の秘密 /*/
そんなこんなで“ゼリー騒動”の後始末も一段落し、カレーの鍋からは、スパイスと炒めた玉ねぎの匂いが、ようやく台所に満ち始めていた。
悪臭も、窓を全開にして換気したおかげで、だいぶ薄れている。
それでも、ときどき風向きが変わると、さっきまで床に広がっていた“何か”の名残が、鼻の奥をつんと刺した。
「よし、とりあえず完成」
鍋の火を止めながら、彩女の母が振り返る。
首には、応急処置で巻かれたガーゼとテープ。見た目は少し痛々しいが、本人はケロッとしている。
「青見くんも、今日はうちで食べていきなさい」
「え、でも」
「なに遠慮してんの。あんた、さっきまで一緒に怪異退治してた共犯者でしょ」
「それ言い方」
彩女に押し切られる形で、青見も食卓に並ぶことになった。
皿にご飯をよそい、できたてのカレーをたっぷりかけていると――玄関の戸が開く音。
「あ、帰ってきた」
彩女が顔を上げるより早く、リビングのドアが開いた。
「ただいまー」
スーツ姿の父が、いつもの調子で顔を出す。
が、その動きが、部屋に足を踏み入れた瞬間、ぴたりと止まった。
すん、と鼻を鳴らす。
「おや、カレーのわりに……刺激的な匂いだね」
微妙な間を挟んでの一言に、彩女が即座にツッコむ。
「お父さんもか」
「え? “も”って何が?」
父は首をかしげるが、その目だけは、ふとキッチンの床のあたりへと滑っていく。
さっきまでゼリー状の“何か”がいた場所。
今はきれいに拭き取られてはいるが、本人にしか分からない何かを、嗅ぎ取っているようだった。
「まあいいや。とりあえず座って。カレーできてる」
「おう、おう。……ああ、青見くんも一緒か」
「お邪魔してます」
ほどなくして、四人分の皿がテーブルに並び、
「いただきます」の声が重なった。
スプーンで一口すくい、口に運ぶ。
スパイスの香りが鼻に抜け、肉と野菜の甘みが舌に広がる。
――ちゃんとおいしい。
さっきまでの出来事からすると、信じられないくらい“普通の晩ごはん”だった。
「で?」
数口食べたところで、父がスプーンを置き、何気ない調子で言った。
「今日の“刺激的な匂い”の元は、なんだったんだい?」
その問いかけに、彩女と青見が同時に固まる。
母だけが、どこか諦め半分の表情で肩をすくめた。
「きてたみたいよ。匂いで」
「やっぱりか」
父は軽くため息をつき、それから、今度は彩女に視線を向けた。
「彩女も、おばあちゃんの話は聞いてるでしょ?」
「おばあちゃんの……?」
唐突に出てきた単語に、彩女は眉をひそめる。
「安達ケ原の鬼がどうのって奴?」
「そう、それ」
父は、にやりと片口を上げた。
「娘が覚醒してるんだから、母親が覚醒してないわけないでしょ」
スプーンを持った手が、ぴたりと止まる。
「……お父さん、知ってたの!?」
「知ってたも何も」
父は、カレーをひと口すくってから、さらっと言った。
「ああ。母さんとは昔、戦ってな。そのまま恋に落ちて、仕事を放り投げて駆け落ちしたんだ」
「……え?」
あまりにも情報量の多い一文に、彩女は瞬きを繰り返した。
対面の青見も、飲み込んだルーが気管に入りかけて、あわてて咳き込む。
「戦って、駆け落ちって、何その昭和の劇画みたいな出会い方……!」
「いや、平成だけど」
「そこどうでもいい!」
ツッコミながらも、彩女の頭の中では、謎のイメージ映像が再生され始めていた。
月夜の荒れ地で向かい合う、若かりしころの両親。
片や、得体の知れない“鬼”となった女。
片や、それを止めに入る男。
――いや、さすがに盛りすぎか。
現実に引き戻すように、母が苦笑した。
「お父さん、ちょっと話盛ってるからね」
「え、そうなの?」
「“戦った”ってほど派手なもんじゃないのよ。ただ、仕事の関係でちょっとね」
「“仕事”の関係で“鬼”と戦うって、充分派手なんだけど……」
彩女が額を押さえていると、父は「まあまあ」と手を振った。
「細かい経緯は置いといてだな。要するに――お前のおばあちゃんの『安達ケ原の鬼』って話、あれは完全な作り話じゃない」
「ちょっと脚色は入ってるけどね」
と、母。
「……マジか」
彩女はスプーンを持ったまま、テーブルに突っ伏しそうになる。
「ちょっと待って。“安達ケ原の鬼の末裔だから、変なのにモテやすいのよ?”って、あのおばあちゃんの冗談、冗談じゃなかったの?」
「半分冗談で、半分本気ね」
「どっちにしてもタチ悪い!」
横で黙って聞いていた青見は、ひそかにカレーの皿を見つめた。
――彩女の“覚醒”。
――安達ケ原の鬼。
今日のゼリー状の怪異。
あの宿で遭遇した“何か”。
バラバラだったピースが、少しずつ並び始める感覚があった。
「え、じゃあ何」
彩女が顔を上げる。
「わたしがいろいろ巻き込まれてるのって、家系のせい?」
「全部が全部じゃないけど、無関係とは言えないわね」
母は、さらりと言った。
「見えちゃう人、寄せちゃう人って、確かにいるから」
「やめてよその“怪異ホイホイ”みたいな言い方」
そのやり取りを、父はどこか楽しそうに眺めていたが、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば――春に、おばあちゃん来てたろ?」
「ああ……うん。来てたけど」
あの、やたら元気な祖母の姿が、彩女の脳裏に蘇る。
口うるさくもありながら、妙に含みのある言い方で、何度か「気をつけなさいよ」と念を押されたことも、今になって妙に引っかかる。
母が、そこで口を挟んだ。
「春におばあちゃん来たでしょ。青見くんが、それを知ってるかも見にきたのよ」
「え、オレ?」
不意に名指しされて、青見は思わず背筋を伸ばした。
「どうしてオレが」
「“あの夜”から、なんとなくね」
母は、さらっと言う。
「彩女の隣にいる子が、ただの“隣の男の子”で済むわけないなーって」
「ハードル上げないでください」
青見は、心底勘弁してほしいという顔で頭を抱えた。
けれど同時に――
胸の奥のどこかで、あの夜の自分の“選択”が、誰かにきちんと見られていたのだと知ったことが、奇妙な安堵にもつながっていた。
怪異の世界。
家系の秘密。
覚醒とか、鬼とか。
一気に知らされるには情報量が多すぎる。
けれど、今こうして、カレーの湯気の向こう側にいる安達家の二人は、いつも通り、おしゃべりで、うるさくて、頼もしい“彩女の両親”のままだった。
(……なんだよ、それ)
青見は、ふと笑いそうになって、慌ててカレーを口に運んだ。
口の中に広がる、いつもの夕飯の味。
さっきまでの悪夢のような光景とのギャップが、やっと少しだけ、現実味を帯びていく。
その夜。
“安達ケ原の鬼”の血筋と、隣の少年の抱えるトラウマとが、同じテーブルの上でカレーの皿を挟んで向かい合ったことを、のちに三人は、妙に鮮明に思い出すことになるのだった。
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父と母の“馴れ初め暴露大会”もひと段落し、テーブルのカレーはそれぞれの皿の上から、だいぶ減ってきていた。
ルーの表面には、まだほかほかと湯気が立っている。
外はすっかり夜で、窓ガラスにはリビングの明かりがぼんやり映り込んでいた。
「――まあ、とにかく」
父が、スプーンを一度置いて、軽く息をついた。
「今日のは、“よくあること”ではないにしても、うちの家系からしたら“ありえない話”ってほどでもない」
「さらっとまとめたわね、それ」
彩女が、やや引きつった笑いとともに突っ込む。
「“よくある”と“ありえない”の中間が一番タチ悪いんだけど」
「でも、その辺の感覚が共有できる人って、そうそういないのよ」
そこで、母がひょい、と話を拾った。
ガーゼで巻いた首を気にする様子もなく、穏やかな笑みを浮かべたまま――しかし、その目だけが、妙に真っ直ぐだった。
「怪異のことも含めて受け入れてくれる男なんて、めったにいないんだから、彩女」
スプーンを動かしていた手が止まる。
「青見くんを逃がしちゃ駄目よ」
「ぶっ……!?」
真っ先に盛大に噴いたのは、青見だった。
飲み込もうとしていたカレーが変なところに入って、慌てて咳き込む。
「だ、大丈夫!?」
「っ……だ、だいじょ……っ、ごほっ」
彩女が慌てて水のグラスを差し出し、青見はそれを半分ほど一気に飲み干した。
ひとしきり咳き込んだあと、顔を真っ赤にしながら、かろうじて声を絞り出す。
「い、今の流れで、その話に飛ぶのやめてもらえます……?」
「どの流れでもイヤだけど!? お母さん何言ってんの!?」
彩女も、耳まで真っ赤になっていた。
「いやまあ、母さんの言うことも一理あるぞ?」
父が、のんきに頷く。
「“普通”の男だったら、今日の光景見た時点で、おそらく二度とここ来ないからな」
「お父さん、フォローの仕方がおかしい」
「だって――」
父は、改めて青見を見た。
「今日のアレを見て、それでもこうして、うちのカレーを普通に食べてくれてるわけだろ?」
「いや、“普通に”はちょっと怪しいですけど……」
とはいえ、席を立って逃げ出そうとまではしていない。
それはたしかに、父の言うとおりだった。
母が、少しだけ表情を和らげる。
「怪異とか、変なものとか、そういうのってね。見たくない人は、本当に見たくないのよ」
「……」
その言葉に、青見の胸の奥が、ちくりとした。
あの宿で。
今日のキッチンで。
“見たくない”と思わなかったわけじゃない。
むしろ、できるなら見たくなかった。
それでも、目を逸らせなかったのは――
「でも、彩女の隣にいて、それでも逃げなかった」
母が、淡々と続ける。
「それって、口で言うほど簡単なことじゃないわ」
「お母さん……!?」
彩女が、思わず母を見る。
さっきまでヘラヘラとからかい半分にしゃべっていた母の声色が、今だけはほんの少しだけ真面目で。
そのギャップが、かえって胸に刺さる。
「だから、ありがたく思いなさいよ、彩女」
「……う」
彩女は、視線をカレーに落とした。
ルーの海面に映る自分の顔は、頬が赤くて、なんだか情けない。
「そんな簡単に、“逃がさない”とか言えないし……」
ぼそっと、本音が漏れる。
「わたしだって、どうしていいか分かんないのに。青見だって、今日のことで怖くなったかもしれないし――」
そこまで言って、彩女はハッとして青見の顔を見る。
青見は、少しだけ目を瞬いたあと、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……怖くない、とは言わないです」
正直だった。
「あの宿のときも、今日も。正直、できるなら二度と御免だなって思うし」
「うん」
「でも」
そこで一拍置いて、続ける。
「彩女のお母さんが、さっき言ってたじゃないですか。“叫んでる暇があったら、ちゃちゃっと対処して、晩ごはん作ったほうが建設的”って」
母は「そんなこと言ったかしら」と笑う。
「……あれ、ちょっと、かっこいいなって思ったんで」
そう言って、青見は小さく笑った。
「たぶん、オレはまだ、怪異とか、そういうのを“受け入れてる”って言えるほどじゃないですけど」
スプーンの先で、ルーの中のジャガイモをつつきながら言う。
「彩女の隣で、その“晩ごはんの時間”を守るくらいなら、やってもいいかなって思ってます」
それは、口に出してみるまで、自分でも気づいていなかった本音だった。
誰かを守れなかったこと。
もう二度と同じ思いをしたくないこと。
その延長線上に、今ここにいる“隣の誰か”が、自然と含まれていた。
「……あ、えっと」
言い終えてから、自分で言っておいて急に照れが押し寄せてきて、慌てて付け足す。
「その、別に、特別な意味とかじゃ――」
「特別な意味しかないわよ、それ」
彩女が、テーブルに額を打ちつけんばかりの勢いで突っ伏した。
「もうやだこの家! お母さんもお父さんも、なんでそう、さらっと爆弾投げてくんの!?」
「青春だねえ」
「親としては、見守るしかないな」
「見守る顔がニヤニヤしてるのが問題なんだってば!!」
わあわあと騒ぐ彩女と、それを楽しそうに眺める両親。
その様子は、怪異も血筋もトラウマも、いったんどこか棚の上に置いたみたいな、ただの“うるさいけどあったかい家族”の光景だった。
青見は、そこでようやく、肩の力を少し抜く。
――怪異のことを含めて、受け入れる。
今の自分にとって、その言葉はまだ、少しだけ重い。
両親を失ったあの夏から、完全に立ち直れたわけじゃない。
それでも。
今日、安達家のキッチンで見た“強さ”と、
こうしてカレーを囲んで笑っている“日常”を、両方ひっくるめて守りたいと思ったのは、たしかだった。
だから、とりあえず。
(……逃げるのは、やめとくか)
心の中で、そっとそう決めて。
青見は、カレーをもう一口、口に運んだ。
スパイスの効いた、いつもの味がした。