/*/ 残響と、誰にも知られない食事 /*/
週が明けて、月曜日。
昼休み。
職員室の前の廊下で、青見は一度深呼吸した。
(聞くって決めたの、オレだしな)
ドアの前で軽くノックをして、「失礼します」と声をかける。
中では、先生たちがそれぞれの机で忙しそうに動いていた。
「お、東」
剣道部の顧問が、書類から顔を上げる。
「どうした、何かあったか?」
「あの……ちょっと、お聞きしたいことがあって」
近くまで行くと、思ったより声が震えているのが自分でも分かった。
「この前の大会で、アップのときにぶつかって……怪我させちゃった、あの選手のことなんですけど」
顧問の表情が、僅かに曇る。
「ああ……あの子か」
その言い方だけで、胸の奥がきゅっと縮む。
「怪我、その後どうなったのかなって。オレ、ちゃんと謝ることもできてなかったので……」
言いながら、指先に力が入る。
顧問は少しだけ考え込んでから、声を潜めた。
「……東。これはな、本当はあまり軽々しく生徒に話すことじゃないんだが」
その前置きに、嫌な予感が膨らんでいく。
「大会のあと、いったん手の怪我は落ち着いたらしい。けど、無理して練習に戻って、別のところも痛めたそうだ」
「別のところ……」
「剣道を続けるのは難しいかもしれない、って話になって……かなり落ち込んでたらしい。顧問の先生も、周りもフォローはしてたそうだが」
そこまで言って、顧問は一度言葉を区切った。
青見は、喉が乾いて唾を飲み込む音が、自分でもはっきり聞こえた。
「数週間前だ。自分で命を絶ったと聞いている」
頭の中で、何かが白くはじけた。
先生の声が、遠くなる。
しばらくして、絞り出すように言葉が出た。
「……そう、ですか」
「東。これは、あいつ自身の問題も大きい。お前一人のせいにできる話じゃない」
「でも、きっかけになったのは、オレで」
「“きっかけ”なんて、いくらでもあるさ」
顧問は、ため息まじりに首を振った。
「それを全部背負ってたら、お前のほうが潰れるぞ。……どうしても気になるなら、手を合わせてやれ。それで十分だ」
「……はい」
頭を下げて、職員室を出る。
扉が閉まった瞬間、足元から力が抜けそうになった。
(……死んでた、のか)
心のどこかで、「もしかしたら」という予感はあった。
けれど、はっきり言葉にされると、その重さはまるで違う。
廊下の窓から見える校庭は、いつも通りにぎやかで。
遠くで聞こえるボールの音も、笑い声も、やけに遠かった。
* * *
「……そう、なんだ」
放課後。
人気の少ない中庭のベンチで、青見から話を聞き終えた彩女は、それだけ言って、しばらく黙り込んだ。
風が、制服の裾を揺らす。
「きっかけがさぁ」
彩女がぽつりとこぼす。
「本当に、何一つ“ドラマチック”じゃないのが、余計にやるせないよね」
「……だな」
大会の日の、ほんの数分のいざこざ。
どこの会場でもありそうな、ささいな衝突。
その延長線上の、どこかで。
誰かの人生が音を立てて折れていった。
「やっぱ、オレも多少は責任あるんだろうけどさ」
「“多少”はあるかもしれない。でも、全部じゃない」
彩女は、きっぱりと言う。
「それに、あんたが殴ってなくても――別のきっかけで、どっかで折れてたかもしれないし」
「……そうかもな」
慰めじゃなく、事実として。
それでも、胸の中に渦巻くものは、簡単には消えてくれない。
その夜からだ。
また、あの匂いが戻ってきたのは。
* * *
数日後の帰り道。
部活終わりで、少し遅くなった住宅街の坂道を、一人で歩いていると――
(……あ)
空気が、重くなる。
夕暮れの風とは別の、じっとりとした湿度。
鼻の奥を刺す、腐臭と獣臭の混ざったような匂い。
背中のあたりに、じわりと冷たい汗が滲む。
見なくても分かる。
(……来た、な)
振り返ろうとすると、肩に重みが乗る感覚がした。
誰かに、後ろから腕を回されたような。
耳元で、低い呻き声がする。
言葉にはなっていない。
けれど――
(お前のせいだ)
(夢を壊した)
(あの日、お前が)
そんな意味だけが、濁った感情として流れ込んでくる。
足が重くなる。
呼吸が浅くなっていく。
視界の端で、街灯の光が滲む。
(……やっぱり、オレの――)
すべてを「自分のせい」にしてしまいたくなる、最悪のタイミングで。
「――あれ?」
すぐ近くで、聞き慣れた声がした。
「青見くん?」
顔を上げると、通学路の角から、惣一郎と愛香が並んで歩いてくるところだった。
「お、やっぱり。だと思ったー」
惣一郎が、ひらひらと手を振る。
「部活帰り? なんか顔色悪くない?」
「……そうか?」
自分ではあまり自覚がない。
ただ、背中にのしかかる重さだけは、まだしっかり残っていた。
(まずい)
ここで巻き込むわけにはいかない、と思った。
「先行っていいぞ。オレ、ちょっと寄り道して――」
「なに言ってんの。どう見てもフラフラなのに」
惣一郎が苦笑して、歩幅を合わせてくる。
「ほら、転んだら危ないだろ。今日は一緒に帰ろーや」
「……」
言い返そうとして、言葉が詰まる。
その時、愛香がふいに首を傾げた。
「……変な匂い」
小さくつぶやいて、青見の背後にじっと視線を向ける。
惣一郎には聞こえないくらいの、小さな声で。
「――ああ、そういうこと」
次の瞬間、愛香は何事もなかったように微笑んだ。
「惣くん、ちょっとこっち寄って?」
そう言いながら、惣一郎の肩にそっと手を置く。
まるでバランスを支えるみたいな、ごく自然な仕草で。
けれど、その指先からは――
誰にも見えない“何か”が、するりと伸びていった。
青見の背中にまとわりついていた、冷たく重たい“影”。
その一部が、惣一郎のほうへと触手のように伸びかけた瞬間。
愛香の手が、その“根元”ごと、ふっと掴み取る。
(――――ッ!!)
耳の奥で、短く、かすれた悲鳴が爆ぜた。
それは、人の声というよりは、濁った感情の塊がちぎれる音に近かった。
愛香の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、赤い光がちらりと揺らぐ。
「……駄目だよ」
誰にも聞こえないくらいの、小さな声で呟く。
「惣くんは、わたしのなんだから」
指先を、ほんの少しだけ口元へ持っていく。
何かをつまむような仕草で、空気をひと舐めすると――
冷たい重さは、あっけないほど簡単に、ぽろりと崩れ落ちた。
腐臭も、獣臭も。
耳元で囁いていた「お前のせいだ」という声も。
全部まとめて、ひとくちで呑み込んでしまったかのように。
「……あれ」
青見は、思わず辺りを見回した。
さっきまで、全身を押さえつけていた圧がない。
肩も、足も、急に軽くなった気がした。
「どうした?」と惣一郎。
「いや……なんか、楽になった気がする」
自分でも、うまく言葉にできない感覚だった。
愛香は、何も知らないふりをして笑う。
「それは良かった。きっと、ただの疲れだよ」
「……そう、かもな」
惣一郎が、からかうように肘でつついてくる。
「無理しすぎなんだって、青見は。なあ、愛香」
「そうだね。惣くんほどじゃないけど」
そうやって、いつも通りの冗談を交わしながら、三人は坂道を下っていく。
その背中を、誰かが睨みつけるような視線も。
どこからともなく漂っていたはずの悪意の残り香も。
もう、どこにも残ってはいなかった。
ただ――
夕焼けの色の中で、愛香の舌の上に、かすかに苦みの残る“後味”だけが、ひっそりと溶けていく。
(……ごちそうさま)
心の中で、誰にも聞こえない挨拶をする。
その夜。
剣道大会で怪我をし、やがて自ら命を絶った少年の怨霊は、誰に知られることもなく、この世界から完全に姿を消した。
彼が最後に見たのが、恨みの対象である青見の背中だったのか。
それとも、呑み込まれる瞬間に見た、無表情な少女の横顔だったのか。
それを知る者は、もう、どこにもいない。
ただ、通学路の電柱の影だけが、ほんの少しだけ軽くなっていたことに、誰も気づかなかった。