届かない。
振り下ろすたび、人間の骨ぐらい簡単に粉砕できるはずの一撃なのに、オレの警棒は小西の身体にまったく触れない。
硬い手応えはあるのに、そこには見えない壁があるみたいだった。
黄色い光が、炎のように揺らめいた。
届かない。
その炎が、ふいに質を変える。
さっきまで熱の気配すらなかったくせに、いきなり本物の灼熱になった。
あまりに熱くて、逆に「熱い」と感じていられない。
全身の肉を、一枚一枚はぎ取られているみたいな痛みだけが、思考を塗り潰していく。
髪の焦げる臭いも、肉の焼ける匂いも、自分ではもう分からない。
ただ、痛い。ひたすら痛い。
あまりの痛みに気絶しかけても、その痛みのせいで引き戻される。
痛い。
痛い、痛い、痛い。
何度、心の中で叫んでも、状況は変わらない。
――オレには無理だったのか。
あの人みたいに。
心実を証明した、あの背中みたいにはなれないのか。
ああ、本当に……痛い。
意識の端が白く擦り切れていく。
もう、玲子の叫びさえ、耳に届かな――
……いや、聞こえる。
身体を焼かれ、耳を焼かれ、この意識すら焼かれても、それだけは、確かに届く。
あと少しじゃないのか。
こいつを倒せば、もう、あの子は泣かなくて済むんじゃないのか。
『……馬鹿ね、そんなの当たり前じゃない』
脳裏に、彩女の呆れた声が蘇る。
オレが消えたら、彩女も、きっと悲しむだろう。
――なくしたくない。
彩女の日常も、玲子の日常も。
オレには、あの人や竜樹さんみたいな、孤独と裏切りと哀しみと寂しさ、憎しみと怒りと絶望の中で鍛え上げた「鋼の心」はない。
だから、届かない。守れない。
それでも――
諦めない。
今のオレに無いのなら、今ここから、作ればいい。
生命がある限り、諦めない。
崩れ落ちかけた脚に、もう一度力を込める。
震える膝を叱咤して、ゆっくりと立ち上がる。
「諦めるのをやめる」と決めた途端、やることは単純だった。
立つ。ただそれだけだ。
不意に、唇の端が上がった。
全身を焼く痛みさえ、誇りみたいに思えた。
こみ上げるのは、目を背けて逃げていた弱さを越えたいという、熱い想い。
この喉にせり上がってくるのは――雄叫びだ。
「YAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
気負いなんかない。
ただ、裂帛の声を腹の底から叩きつけるように吠え上げた。
その瞬間、目の前で光が弾けた。
黄色い炎が、ぱん、と破裂するように四散し――
オレの握る警棒から、黒く、そして赤い炎が伸びあがる。
黒曜石のように深く黒く、それでいて、内側から紅が差すように赤く。
その炎は、やがて日本刀のような刀身を形作った。
なんとなく分かった。
これは、貴也さんがオレに「託した」ものだ。
オレの力不足を補うために、こちら側へ伸ばしてくれた手。
あの人の信頼に応えようと足掻いたオレに、おくられた「答え」。
驚愕に見開かれた小西の眼。
その顔に向かって、オレは躊躇なく刃を振るう。
組んでいた印ごと、両腕を――二の腕から、すっぱりと断ち切った。
切断面から噴き出したのは血じゃない。
細い炎の舌が、血の代わりみたいにチロチロと吹き上がる。
それを見下ろしながら、小西は初めて、本当の意味で顔色を変えた。
「わ、わたしの……天才の証しが……」
言い終える前に、小西の口から火が噴き出した。
タバコの煙なんかじゃない。
燃え盛る焼却炉の扉を、勢いよく開けたみたいな炎。
バックドラフトみたいに、身体の内側から爆発するみたいに、口腔いっぱいから炎が吹き上がる。
オレは慌てて後ろへ跳ぶ。
その目の前で、小西の目や耳、体中の血管からも火が噴き出した。
瞬く間に、小西は火達磨になる。
それでも、彼女は信じられないというように叫び続けていた。
「呪文が……制御できない……?
なんで……こんなに火の精の力が……クトゥグアの影響……?
じゃあ……まさか……この洞窟は……ふぉーまるはぁぁぁぁ……!」
絶叫は、途中で途切れた。
火達磨になった小西が、出口へ向かってよろめいた、そのときだ。
洞窟全体が、いきなり大きく揺れた。
地震――という言葉では足りない。
足元どころか、空間そのものがうねるような揺れ。
壁が崩れ、大きな岩がごろりと落ちてくる。
火の塊と化した小西の身体を、そのまま押し潰した。
洞窟のあちこちから、「ビャービャー」という絶叫が反響してくる。
それは小西の声じゃない。
もっと――無数の、なにかの声だ。
さらに大きな亀裂が、洞窟の壁に走る。
熱で膨張した岩が耐えきれなくなったのか、長く伸びた亀裂は、ついに洞窟の外と繋がったらしい。
暗闇の向こうから、オレンジ色の光が差し込む。
太陽の光とは違う、粘つくような色の明かりだ。
亀裂の向こうに広がる光景に、オレは息を呑んだ。
夜空――のはずだ。
けれど、それはオレの知っているどんな空とも違う。
真っ黒な天幕に、小さな穴を無数に穿ったような、冷たく鋭い星の光。
こんな鮮明で、容赦のない星空は、地球ではきっと見ることが出来ない。
その星々ですら、霞んで見える。
空の半分近くを占める、“何か”のせいで。
オレンジ色の巨大な惑星が、空を覆っていた。
木星に似ている――そう思った瞬間、自分で否定する。
こんな空に浮かぶ木星なんて、あっていいはずがない。
ここは、どこだ?
本来なら、そう思うところだろう。
けれど、そんな当たり前の疑問さえ、浮かんでこない。
人間の認知の外側――そんな言葉しか当てはまらない世界。
それでも、ただ一つ分かるのは、この光景が恐ろしく、同時に圧倒的に美しいということだけだった。
そこからさらに、別の光が昇ってくる。
強烈な日光のような――いや、それよりも遥かに濃く、重い何か。
亀裂の隙間から差し込んでくる光の筋は、もはや「明かり」ではない。
触れたものをそのまま焼き切る、純粋な熱線。
レーザーのような光。
その光の向こうに、いる。
なにか、強大な“存在”が。
感じ取らない方が、きっと幸せだった。
それでも、生き物としての本能が、それを嗅ぎ取ってしまう。
地震も、絶叫も、さっきまでの炎さえも――
いま洞窟の外から迫りつつあるものに比べれば、取るに足らない。
得体の知れない恐怖。
オレの心臓を、ぎゅっと握り潰そうとする圧迫感。
一呼吸するたびに、その気配は濃くなる。
息を吸うことすら、恐怖として意識させられるほどに。
圧倒的な“何か”が、この迷宮に近づいてきていた。