/*/ 内弟子という名の、崖の下 /*/
内弟子の話がまとまって、その日の夜。
安生家の夕食と風呂も終わり、
道場の照明だけが、まだ白く畳を照らしていた。
火鳥勇吾は、道着のまま正座している。
その正面に、ちょこんと座っているのは李じいさんだ。
「さて、火鳥よ」
「はい」
「内弟子とは何か、教えておいてやろうかの」
李は湯呑みを軽く揺らし、湯気越しに勇吾を見上げた。
「普通の弟子はの、“人生を豊かに生きるために鍛錬する”」
「ふむ」
「じゃが、内弟子とはそこから一歩、いや十歩ほど踏み込んだ存在じゃ」
李の目が、細く笑う。
「“人生を豊かに生きる為の鍛錬”から――
“鍛錬の為の人生”に変わるのが、内弟子じゃ」
「鍛錬の為の人生」
「うむ」
湯呑みを置き、指を折る。
「鍛錬の疲れを、鍛錬で癒し。
武術の、武術による、武術の為の武術の人生」
「……なんか、言葉の重力がおかしい」
道場の柱にもたれて見ていた胆が、ぼそっと言う。
「達人への崖があるじゃろう?」
李は気にせず続けた。
「普通の弟子たちは、その崖のふちでうろうろしながら、
落ちんように慎重に歩いとる」
「まあ、転げ落ちて怪我したくないですしね」
胆が相槌を打つ。
「内弟子とはの、その崖から自分の足で飛び降りた者のことを言う」
李は、畳を指でトン、と叩いた。
「落ちるんじゃない、“飛ぶ”んじゃ。
鍛錬に、人生を明け渡す覚悟を、もう決めた者じゃな」
勇吾は、その言葉を静かに反芻した。
(崖から、飛ぶ)
ミネルヴァの実験室から逃げ出したときも、
たしかに崖から飛び降りたようなものだった。
だが、あれは「死にたくない」から飛んだだけだ。
今、ここで言われているのは――
「生きるために飛べ」という話だ。
「……ボクは、飛びます」
勇吾は、まっすぐに李を見る。
「鍛錬の為の人生で、構わない。
ボクは、強くなりたいから」
「よし、言ったな」
李の目が、獲物を見つけた獣のようにきらりと光る。
「言ったからには、容赦はせんぞ。
鍛錬で削り、鍛錬で満たし、鍛錬で壊し、鍛錬で直す」
「物騒な工程出てきたんですけど」
胆がすかさず突っ込む。
「そこまで壊す前に止めますからね、こっちが」
「ふん」
李は、袖の中から小さな紙片を一枚取り出した。
「それにな――“内臓”を壊さんように、準備はしておる」
「……それ、もしかして」
英の気配がして、障子がすっと開く。
両手いっぱいに、大きな段ボール箱。
「届きましたー。氷室印のサプリメントとプロテイン一式」
箱のラベルには、栄養補助食品メーカーのロゴやら、英の自筆メモがびっしり貼られている。
プロテイン数種、アミノ酸、クレアチン、各種ビタミン・ミネラル。
おまけに、胃腸の保護用サプリまで。
「サプリメントやらプロテインやらも、氷室から届けられたからの」
李が、えらそうに頷く。
「つまり――内弟子とは、“内蔵の限界まで鍛えて良い”と言う事だ」
「いや、じいちゃん、字ぃ間違えてるからね?」
胆が即座にツッコむ。
「“内蔵”じゃなくて“内臓”ね?
限界まで鍛えちゃダメなやつだからね? 英さん苦笑いしてるからね?」
「ボク的にも、“内臓の限界まで”はちょっとやめてほしいかなぁ」
英が、箱を下ろしながら肩をすくめる。
「だからそのためのサプリなんだけどさ。
壊してから直す前提じゃなくて、壊れる前にケアする前提で使ってね?」
「分かっておるわい。冗談じゃ冗談」
李は、ふぉっふぉっと笑いながらも、視線は真剣だ。
「じゃが、火鳥」
「はい」
「その身体は、並の人間の限界を、軽く飛び越えてしまう。
その自覚を持って鍛えねばならん。
“壊れるまでやる”のではなく、“壊れんギリギリを見極める”訓練もいる」
「……了解した」
勇吾は頷く。
「ボクは、自分の肉体マトリクスを操作できる。
だが、“どこまでなら人間でいられるか”の基準は、まだ知らない」
「それを教えるのが、内弟子の修行じゃ」
李は言い切った。
「鍛錬で人生を埋めるのは簡単じゃ。
じゃが、“生きるための鍛錬”から“鍛錬のための人生”に変わったとき――
そこで初めて、“人として生きる武術家”になれるか、“ただの怪物”になるか、分かれ道に立つ」
英が、少しだけ目を伏せる。
「だからこそ、ここに預けるって決めたんだよ」
小さく息を吐き、勇吾を見る。
「君が怪物の方に転がらないように、
安生家の“当たり前”の中で、ちゃんと“人間側”に重心を置いてほしいからね」
「……英」
勇吾は、ほんのわずかに表情をゆるめた。
「ボクは、“人間として強くなる”って決めた。
怪物になるなら、とっくにミネルヴァを燃やして終わってる」
「その台詞がもうちょっと穏やかなら完璧なんだけどね」
英が苦笑する横で、胆がサプリの箱を覗き込んだ。
「しかしまあ、本当に色々あるな、コレ」
「勇吾くん、筋肉の成長スピードがおかしいからね」
英が真面目な声に戻る。
「普通の子にこれ全部飲ませたら、腎臓と肝臓が過労死するレベルだけど、
君の場合は“ギリ許容量の範囲内でブースト”できる」
「内臓の限界を見ながら使うってことだな」
胆が頷く。
「オーバーしたら、じいちゃんより先にオレが止めるからな?」
「うむ。わしも止められたら止まる」
「そこはちゃんと止まってください」
道場の空気に、少し笑いが混ざる。
その中で、勇吾は自分の両手を見つめた。
ミネルヴァの時は、「壊すため」にしか使われなかった手。
今ここでは、「鍛えるため」「守るため」に使うことができる。
(鍛錬の為の人生)
崖から飛び降りるのは、もう決めた。
あとは落ち方と、着地の仕方を覚えるだけだ。
「火鳥」
李が、もう一度だけ名前を呼ぶ。
「内弟子として、お主に約束してやる」
「……?」
「うちで鍛える限り、“凡人で終わる”ことは絶対にない」
李の声は静かだが、どこまでも確信に満ちていた。
「達人になるか、怪物になるかは、お主次第じゃ。
わしらは、その両方の崖っぷちまで連れて行ってやる」
「なら――ボクは、達人になる」
勇吾は、迷いなく言った。
「人として、武術家として。
安生家と、英と、ボク自身のために」
「よし」
李が満足そうに笑う。
「明日から、本格的に“鍛錬の為の人生”を始めるとしようかの」
「ボク、明日の朝から筋肉痛なんですけど、さらに上乗せされる未来しか見えない」
入口で覗いていた友香がぼやき、
ルテアが「ボクらも道連れだよねー」と笑い、
ユイリィが「ストレッチ時間増やしてもらおう」と提案し、
梨花が「サプリの仕分けは任せて」と現実的な段取りを決め始める。
四十九囲区の夜は、静かに更けていく。
鍛錬の疲れを鍛錬で癒し、
武術の武術による武術の為の人生を選んだ内弟子と――
それを見守る、人外まじりの“普通の人たち”の夜が、
ここから、長く長く続いていくのだった。