ホームルームが終わって、ちょっと一息ついた午前の休み時間。
廊下の端から、すっと黒ぶち眼鏡のシルエットが現れた。
「勇吾くん、ちょっといいかな」
氷室 英だ。
2年C組のドアから顔を出して、手招きする。
「英」
勇吾は席を立ち、廊下に出た。
扉が閉まる前に、クラスの視線がまたぞろこちらに流れてくるのが分かる。
「うん、やっぱり」
英は、勇吾の前に立つと、つま先から頭のてっぺんまでざっと眺めた。
「勇吾くん、背も伸びましたね。
制服を作り直しましょうか。サイズは……」
学ランの肩の縫い目を指でつまんで、軽く引っ張る。
「この感じだと、その都度なおせば良いか。
どうせ、まだ伸びるでしょ、君」
「すまない」
勇吾が素直に頭を下げると、英はくすっと笑った。
「謝るところじゃないよ。
成長期にちゃんと伸びるのは、いいことだからね。
――ミネルヴァ仕様の“変な伸び方”じゃなくて、“人間として”の成長だし」
「了解した。“人間としての成長”として記録する」
「その言い方がもうちょっと柔らかければ完璧なんだけどなぁ」
そんな会話をしているうちに、教室の中から数人の女子がわらわらと出てきた。
「火鳥くん、ちょっといい?」
「ちょっとじゃなくて、かなりなんだけどさ……肩、どうなってんの、それ」
「胸板やばくない? ちょっと触っていい?」
許可を待つ前に、遠慮のない手がむぎゅっと勇吾の肩や胸に乗る。
ワイシャツ越しに、指先へと伝わる硬さに、女子たちが一斉に「うわ」「すご」と声を上げた。
「……これは、良いのか?」
勇吾は、肩を触られたまま、少し困った顔で問いかける。
その問いは、いつの間にか廊下に出てきていた安生4姉妹に向けられていた。
梨花が腕を組んで、ふっと笑う。
「何が?」
「ボクの肩や胸を、女子が自由に触っている。
これは、“セクハラ”というカテゴリーに入らないのか?」
「気になってるのそこなんだ……」
友香が吹き出した。
「東と違って彩女に睨まれないし、大丈夫でしょ」
ルテアがあっさり言う。
「東の肩とか胸とか勝手に触ったら、
まず彩女ちゃんの殺気が飛んでくるからねー。
“なに人のモノに手ぇ出してんのよ”って顔で」
「……東は、そういうカテゴリーなのか」
「そういうカテゴリーよ」
梨花がきっぱり言う。
「うちのクラス、暗黙の了解だから」
「まだフリーだから良いっしょ、火鳥くんは」
ルテアが、ぺしぺしと勇吾の上腕を軽く叩く。
「“まだ”って言い方やめなさい、ルテ」
ユイリィが苦笑する。
「でもまあ、今のところ誰かの“所有物”扱いにはなってないから、
女子的には“触ってもセーフな筋肉”なんじゃない?」
「所有物、という表現はどうなんだ……」
「比喩だから比喩」
友香がひらひら手を振る。
「でも、イヤだったらちゃんと言いなよ?
“やめてください”って言えば、僕ら止めるから」
勇吾は、肩に乗った手を一度見下ろしてから、英に視線を向けた。
「これは、“嫌がってよい”状況か?
それとも、“コミュニケーションとして受容すべき”か?」
「ボクに聞かないでくれる?」
英が笑いながら額を押さえる。
「勇吾くん自身が“嫌かどうか”で決めなさい。
人間社会の触れかたって、そういうもんだよ」
「……嫌ではない」
少し考えたあと、勇吾は答えた。
「安生家の好みに近づいた結果としての反応だ。
学術的にも興味深い」
「学術的って言った瞬間に若干キモさ増すからね?」
友香が容赦なくツッコむ。
「でも」
勇吾は続けた。
「もし、東が同じことをされたら、ボクは止める」
「お、なんで?」
ルテアがニヤリとする。
「東は、彩女の“隣”だ。
ボクの感覚でも、あれはすでに“セット”として認識されている。
そこに不用意に触るのは、“危険地帯への侵入”だと思う」
「ほらー、ちゃんと分かってるじゃん」
ルテアが勝ち誇ったように笑う。
「“まだフリーだから良いっしょ”って、そういう意味だよ」
「火鳥くん」
梨花が、少しだけ真面目な声になって言う。
「さっきも言ったけど、イヤならちゃんと断りなさい。
“鍛えた結果いじられキャラになる”のは、悪いことじゃないけど――
それで本気でしんどくなったら、ちゃんと“NO”って言えるのも大事だから」
「了解した」
勇吾は、こくりと頷いた。
肩に乗っていた手が、少しだけ遠慮がちに離れる。
代わりに、「すごいね」「まじで東ラインだわ」といった感想だけが飛び交った。
「……英」
勇吾は、改めて英を見る。
「制服のサイズ直しと、筋肉の触られ率上昇。
これは、“成長イベント”として正しく処理されているのか?」
「だいたい合ってるよ」
英は、苦笑しながらも肯定した。
「背が伸びて、身体が変わって、
それに周りが何か言って、触って、笑って――
そうやって、“ひと夏で変わった火鳥勇吾”っていうのが、クラスの中に馴染んでいくんだ」
「馴染む……」
「うん」
英は、勇吾の胸ぐらいの位置を指でつつく。
「ミネルヴァの実験室じゃなくて、
この“うるさい教室”の中の、ひとりの男子としてね」
教室の中から、「火鳥ー、席戻れー」「次ノート提出だぞー」という声が飛ぶ。
「じゃ、続きはまたあとで」
英は軽く手を振った。
「制服の件は、放課後にでもサイズ測ろう。
――そのときは女子の“観察会”付きじゃない場所でね」
「了解」
勇吾は小さく息を吐き、教室へ戻っていく。
背中越しに、まだ何人かの女子が「肩やば」「腕太」とひそひそ言っているのが聞こえた。
(成長イベント)
心の中で、勇吾はその単語をもう一度なぞる。
安生道場の畳の上だけじゃなく。
四十九囲区の教室の中でも――
火鳥勇吾という存在は、少しずつ“人間の枠”の中に形を持ち始めていた。