どれくらい、呆然としていたんだろう。
そう長い時間じゃないはずだ。生きているってことは。
けれど、そのわずかな時間さえ、今のオレたちには惜しい。
我に返ったオレは、同じように放心している玲子に手を差し出した。
「……さ、行こう」
その声に、伸ばした手に、すうっと彼女の瞳に生気が戻っていく。
「はい」
小さく頷いて、彼女はオレの手をしっかり握り返した。
「離れないで。この手、絶対離さないでね」
そう言い聞かせてから、オレたちは部屋を飛び出し、洞窟の中を駆け出した。
――あ、ひとつ忘れてた。
火鉢の上に吊るされていたワンコも連れて行かなきゃならない。
まだ自分の足で歩けないこいつを、オレは肩に担ぎ上げる。
片腕で犬を支え、もう片方の手で玲子の手をぎゅっと握る。
そのまま、暗い通路を全力で走った。
すぐに、また大きな揺れが襲ってきた。
大地震。さっきよりも、ずっと強い。
亀裂だらけになった洞窟の壁と天井が、ガラガラと崩れ始める。
頭上を仰いだオレの目に飛び込んできたのは、オレたちに降りかかってくる無数の岩。
オレひとりなら、きっと躱せる。
でも、それじゃ意味がない。
一瞬で判断し、オレは肩の犬を前方へ放り投げた。
その勢いのまま、玲子の身体を抱き寄せる。
横も、後ろも、選択肢に入れない。
進むんだ。
前に。
進むんだ。
それだけが、オレたちが帰るべき方向だから。
だから、迷う必要なんか、どこにも無い。
オレは玲子を抱きしめたまま、全力で前へ飛び込んだ。
転がるように地面に倒れ込み、腕で玲子の頭を庇う。
身体ごと覆いかぶさり、ぎゅっと抱きしめる。
震える大地が、オレたちを揺さぶる。
崩れ落ちる岩が、オレの背中を何度も叩きつける。
それでも、オレは手を離さない。
やがて、崩落は嘘みたいにぴたりと収まった。
肩のあたりで、ぺろり、と生ぬるい感触がする。
さっき投げ飛ばした犬が、申し訳なさそうにオレの背中を舐めていた。
……気にするなよ。
ぶん投げて悪かったな。
「……大丈夫?」
玲子の不安そうな声が、耳元で震える。
「ああ。でも……」
彼女は心配そうに、オレの背中を見ようと身を捻る。
それをぐいっと正面に向き直らせた。
「行こう」
振り返っている暇なんかない。
ずきずきと、背中が焼けるように痛む。
それでも、オレは彼女の手を握り直し、前だけを見て歩き出した。
/*/
順調に脱出を続けていたオレたちの足元に、突然、大きな亀裂が走った。
反射的にポーチから残りのパラコードを取り出し、玲子の身体にたすき掛けで結わえる。
それから助走をつけ、一気に飛んだ。
亀裂の幅は、およそ四メートル。
オレなら幅跳びで六メートルは跳べる。
犬を背負っていても、背中に怪我を負っていても――このくらいなら、軽いはずだった。
踏み切る。
足が地面を離れ、身体がふわりと宙に浮く。
跳躍の頂点で、少しでも前へ、少しでも遠くへと、手足を精一杯伸ばした。
──がッ。
つま先が、対岸の壁面をかすめた。
本当に、つま先だけ。
その瞬間、重力がぐいと身体を引き戻す。
落ちる。抗いようもなく、真下へ。
忘れていた。
意識を失った生き物ってのは、それだけで“重く”なることを。
背中の大型犬と、自分の怪我を差し引けば、今のオレにはギリギリの距離だったことを――気づくのが、遅すぎた。
まだだ。
まだ終わりじゃない。まだ諦めない!
背負っていた犬と、握っていたパラコードを対岸へ向けて投げ放つ。
自分の腕も目一杯伸ばすが、それでも指先は虚空を掴むばかりだった。
玲子の悲鳴が、耳を裂く。
あと数センチ。
ここまで、なのか──?
壁面に何か突起でもあれば、と考えたところで、身体がふっと軽くなる。
落下の浮遊感が、全身をさらっていく。
ぐいっ。
腕に、確かな抵抗が走った。
落下の感覚がぴたりと止まる。
驚いて見上げると、動けるはずのない犬が、オレの袖を噛んで必死に引き止めていた。
出血多量で、自分で立つのもやっとのくせに……なんて、無茶しやがる。
左手を伸ばし、壁の岩を掴む。
背中で傷がぶちぶちと裂ける音がして、熱い痛みが走った。
それでも構うものか。こいつの無茶に、応えずにいられるかよ。
歯を食いしばって腕に力を込め、一気に身体を引き上げる。
這い上がったところで、鼻先をすり寄せてくる犬の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でてやった。
対岸に残っている玲子へ、オレは声を張り上げる。
「──飛べ!」
四メートル強。
中学生の女の子には、確かにキツい距離だ。
けれど、オレたちを結ぶロープがある。
右手にきつく巻き付け、肩を通し、脇の下をくぐらせ、左手でもさらに掴む。
これなら、落下の勢いと彼女の体重がかかっても、手を離すことはない。
なのに――。
「……逃げて、ください……」
玲子は、震える声でそんなことを言い出した。
「……わたしのせいで、東さんは、そんな怪我までして……。
その怪我では、わたしを支えられなくて、二人とも落ちてしまいます。
今なら、東さん一人なら帰れる。だから、逃げてください」
そして、あの状況で――笑った。
「わたしは、助けに来て貰えただけで、嬉しかったから」
ああ、もう。
今日は本当に、頭に来ることばかりだ。
「ああ、そうだよ!!」
堰を切ったみたいに、声が出た。
「オレが怪我したのも、死にかけたのも、ぜんぶお前のせいだよ!!」
言葉が止まらない。
「だから――助かれ!!」
喉が焼けるほど叫ぶ。
「悪いって思うなら、オレと帰れ!!
ここで諦めてオレだけ帰ったら、さっきの笑顔をオレは一生忘れない。
忘れないで、なんでお前を抱えて亀裂を飛び越えなかったって、一生悔やみ続ける!」
息を吸い、もう一度叩きつける。
「だから、見捨てない。
お前が飛ばないなら、オレもここに残る!
オレを死なせたくないなら──飛べ!!
飛んで、一緒に帰るんだよ!!」
頭に来すぎて、視界が滲む。
涙なんか、出ている場合じゃないのに。
玲子は、こくんと小さく頷いた。
それから、一歩、二歩と後ろに下がっていく。
タッタッタッタッ――。
軽い足音が、地面に刻まれる。
続く地震の揺れと、「びゃーびゃー」と不快な泣き声、崩落の轟音が響く中で、不思議なほど彼女の足音だけがはっきりと聞こえた。
玲子の身体が、綺麗な放物線を描いて宙へ飛び出す。
……あと五十センチ、足りない。
けど、そのくらいなら――。
オレは身を乗り出し、その手を掴むと、一気に引き寄せた。
勢いのまま、玲子の身体がオレの胸に飛び込む。
そのままバランスを崩し、二人で地面に転がり込んだ。
傷口に砂が入り込み、背中が焼けるように痛む。
それでも、全員でこの亀裂を越えられたことが、心底嬉しかった。
「……もう、言うことはないな。これ以上、変なこと言ったら、怒るからな」
玲子は、涙を拭いながら小さく頷いた。
オレたちは再び立ち上がり、闇の中を駆け出す。
もうすぐだ。
あの紋様のあった場所――帰り道へと続く、門のところまで。
/*/
長かった。
歩けば五分の道のりが、こんなにも遠く感じるとは思わなかった。
門は目の前だというのに、その瞬間、これまでで最大の地震が洞窟を襲う。ビシビシと岩盤全体に亀裂が走り、足場はぐらぐらと揺れ続ける。まるで巨大なボートの上に乗っているみたいだ。この洞窟のある地盤そのものがバラバラに砕けて、巨大なプレートごとスライドしている――そんな突拍子もない想像が、逆にリアルに思えた。
やがて背後の天井の亀裂が大きく裂け、そこから強烈な光が差し込んでくる。
グオングォン……。
低く、底の見えない唸り声のような音が響き、光を浴びた背中が、じりじりと焦げるように熱くなった。
光が強すぎて、ブラックライトの明かりではもう紋様が浮かび上がらない。
すべきことは決まっている。
オレは犬を玲子に託し、自分の身体で岩場を影のように覆って、紋様の部分だけを闇に沈めた。そこへブラックライトを向ける。
すぐに、見慣れた不思議な紋様が、じわりと浮かび上がる。
「一度にみんなでは潜れない。先に行って。すぐにオレも行くから」
不安げに揺れる玲子の瞳に、オレはしっかり頷いて見せた。少し迷うように視線を揺らしたあと、玲子は決意を固めるように紋様へと手を伸ばす。
次の瞬間、黄色い炎が立ち上がり、玲子と犬の身体をやわらかく包み込んだ。炎の中で二人の輪郭が伸び、細く引き延ばされていくように見えて――そのまま、ふっと消えた。
どうやら、上手くいったらしい。
思っていたほどの気負いは無かった。自然に言葉が出て、自然に身体が動いた。……父さんも、こんな気持ちだったのかな。もしそうなら、少しだけ嬉しい。
背後から、これまで感じたことのない圧倒的な熱気が押し寄せてくる。
熱すぎて、逆に寒気がする。皮膚の感覚が狂っていく。
振り返ったオレは――瞬間、心の底から「恐ろしい」と思った。
その輝き。
炎をこれほどまでに恐ろしいと感じたことは、今まで一度もなかった。
あれは、ただの炎じゃない。
見た者の脆弱な精神を焼き尽くし、灰に変える炎。
そして、その忌まわしい炎そのものを纏っている“何か”。
あれは、オレの中の「常識」という枠をすべて粉砕してしまう、超越した存在――。
あれに焼かれたら、オレの生命どころか、魂さえ燃やし尽くされて消えてしまうだろう。
それが何なのか、名前も正体も知らない。
それでも、それだけははっきりとわかった。
これは、人間の本能に刻まれた“原初の恐怖”そのものだ。
……構うものか。
自分の意志で完全燃焼した心は、もう灰みたいなものだ。
真っ白に燃え尽きた心。これ以上燃えたって、どうってことない。
――あぁ、疲れた。
揺れ続ける大地の上で、オレはその場に崩れ込むように腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じた。
本当に、心の底から疲れた。
――少しだけ、眠ろう。