安生道場に着いたころには、Tシャツもジャージも、もう体に貼りつくただの冷たい雑巾だった。
玄関の引き戸をガラガラ開けた瞬間――
「……なんじゃ、その姿は」
ちょうどお茶を飲んでいた李さんが、湯呑みを止めた。
続いて、廊下の奥から龍さんと胆さんが顔を出す。
「おいおい、クマと殴り合いして川に落ちてきたとか、そういうノリか?」
「駅前にクマは出ないでしょ、父さん」
梨花たち4人も、ボクと同じくらいびしょぬれだ。
髪からは水が滴り、スニーカーからはじゅくじゅく音がする。
「ただいま……」
梨花が、さすがに少し声を弱くして言った。
「ちょっと、えらい目にあってね」
「説明、求む」
胆さんの顔が、冗談から一瞬で「道場の看板弟子」の表情になる。
玄関先で長々やる話でもないので、タオルだけざっとかぶってから、ボクたちは居間に移動した。
*
廃デパート。
路地裏。
地下の“胃袋”みたいな広間。
卵。エラ人間。
そして、ボクがやったこと。
4人が順番に、ところどころ言葉を詰まらせながら話す。
ボクは、質問された部分だけを補足した。
「つまり――」
龍さんが腕を組む。
「4人でクレープ食いに行ったら、変な“魚ども”に攫われて、
腹かっさばいて卵入れられる前に、火鳥がぶっ飛んでってまとめて焼き払った、と」
「要約すると、そうなります」
ボクはうなずいた。
「パイロキネシスと、サイコキネシスの複合使用です。
あと、サイコメトリーで足跡を辿ったのも含めると、三種混合ですね」
「三種混合って予防接種みたいに言うな」
胆さんが即ツッコミを入れたあと、ふっと息を吐く。
「……でもまあ、助かったのは事実だからな」
「はい」
梨花が、きゅっと膝の上で手を握る。
「怖かったのも本当だけど……
あんたがいなかったら、多分、今ここに座ってない」
「マジで、ありがとね、勇吾」
4人のその言葉に、龍さんと胆さん、そして李さんが、そろってこちらを見た。
李さんの目が、すっと細くなる。
「ふむ……実験体うんぬん、という話は聞いておったが」
湯呑みを置き、畳の上にちょこんと座り直す。
「わしはてっきり、肉体強化系かと思っておったわ。
兵隊を丈夫にするとか、そういう方向のな」
「……ボクも、そういう扱いでスタートしたはずです」
ミネルヴァの白い天井が、頭の隅でちらつく。
「でも、“能力”の方が伸びてしまったみたいで。
肉体の方は、そのオマケです」
「超能力系、か」
龍さんが、ぽりぽりと顎をかく。
「いつの時代も、人間のやることは変わらねぇな」
「うむ」
李さんが、遠くを見るような目で言った。
「昔は軍医が“新兵器”を作ろうとしておった。
今は企業の研究者が、“より人間以上”を作りたがる。
やることは同じじゃ。人間以上を作り出そうとして、たいてい悲劇しか生まん」
その言葉に、ボクの胸の奥が、ひゅ、と冷える。
(――やっぱり)
ボクは、息を一回だけ整えてから、口を開いた。
「李さん」
「なんじゃ、火鳥」
「ボクに、恐怖しないのですか?」
駅前の地下で、梨花たちが向けた視線。
母が、培養槽の中のボクを見た視線。
まったく同じものではなかったけれど――
それでも、少しだけ似ていた。
「さっきも、安生4ユニットは“怖い”と言いました。
李さんたちも、ボクを“危険なもの”として処分する選択肢は、合理的だと思います」
沈黙。
すっと、李さんが立ち上がり、よちよちとボクの正面まで歩いてきた。
「頭ぇ上げい」
顎をくいっと持ち上げられる。
ボクと李さんの視線が、真正面でぶつかった。
「……力がちょっとあるだけじゃろ」
李さんは、それだけ言った。
「なにも恐れる理由にならんわい」
「“ちょっと”、で済む出力ではないと思うのですが」
「わしから見りゃ“ちょっと”じゃ」
ふん、と鼻を鳴らす。
「火鳥。お主は、自分の力を勝手に誇るか? 振り回すか?」
「いいえ」
「自分の都合だけで人を焼くか? 攫うか?」
「いいえ。そんなプロトコルは、ボクの中にありません」
「なら、それでよい」
李さんは、こともなげに言い切った。
「力そのものは、善悪どっちでもない。
振るう心と、選ぶ行いが、“人”か“怪物”かを分けるだけじゃ。
その線引きは、お主自身が死ぬまで続けてやればええ」
「……判定、保留のままで、いいんですか」
「そうじゃ。わしは、“今のところ人間側”とだけ見とる」
口元だけで笑いながら、ぽん、とボクの胸を指先で突く。
「怖いかどうかなんぞ、こっちが決めることじゃ。
お主が勝手に“どうせ怖がられる”と決めることではない」
胸の中で、何かがほどけたような、余計に締まったような、よく分からない感覚がする。
龍さんが、大きく息を吐いた。
「……まあ、なんだ」
頭をぼりぼりかきながら、こっちを見てくる。
「クソみてぇな実験場から逃げてきて、
うちで汗流して、娘たち助けて、びしょぬれで帰ってきた内弟子に向かってよ」
口の端が、ちょっとだけ上がる。
「今さら“怖いから出てけ”なんて言えるかよ、バカ」
「父さんなりの、最大限の感謝と信頼表明ね、それ」
梨花が苦笑する。
「火鳥。ありがとな」
胆さんが、短く、でもはっきりと言った。
「4人まとめて助けてくれて。
それから――自分が何者か、ちゃんと自分の口で言ったことにも、感謝しとく」
「評価:感謝の表明を複数受信。内部ログに……」
言いかけて、やめる。
「……ううん。ボクからも、ありがとうございます」
「よろしい」
李さんが、ぱん、と手を打った。
「話は終わりじゃ。寒かろう。まずは風呂入れ」
「ですよね」
「4人は先に風呂。火鳥はその後じゃ。女湯に突っ込むでないぞ」
「プロトコル的にもアウトです」
「その言い方を何とかしろと言っとるじゃろ、普段から」
わいわい言いながら立ち上がる4姉妹を見送ってから、李さんがもう一度こちらを振り返る。
「火鳥」
「はい」
「さっき言った通りじゃ。
わしは、お主が“怪物になるか達人になるかは自分で選べる”と思っとる」
そこで、にやりと口の端を吊り上げる。
「だから――」
「だから?」
「それより修行するぞ」
「話の締めが急にいつも通りになりましたね」
「当たり前じゃ。内弟子じゃからの」
李さんのその一言に、龍さんと胆さんも笑った。
「風呂入って、飯食って、今日は寝ろ。
明日からまた、いつも通り“崖の下メニュー”だ」
「了解。ボクは、明日も鍛えられに起床します」
「言い方ァ!」
どっと笑いが起きる。
地下の“胃袋”の匂いも、エラ人間の悲鳴も、もうここにはない。
あるのは、畳の匂いと、湯気の立つ風呂と、
そして「明日も修行だ」と笑う人たちの声だけだ。
(……なら、いい)
今日くらいは、そう結論づけてもいいと、ボクは思った。