◆ 火鳥の情操教育・夜の道場 ◆
夕稽古が終わって、風呂も済ませて。
安生道場の廊下には、畳と木の匂い、それから柔らかい灯りだけが残っていた。
勇吾は自分の布団を敷きかけたところで、背後から声をかけられた。
「火鳥」
振り向くと、道着姿のままの青見が、薄い冊子を一冊、指でつまんでいた。
武術書でも技術資料でもない。表紙には、丸っこいドラゴンの絵。
「李さんに言われた。
“殴り合いだけが情操教育じゃない。たまには座って話せ”って」
「……了解しました。新しい訓練メニューでしょうか」
「まあ、訓練っちゃ訓練かな」
青見は苦笑して、道場の隅、座布団が積んであるところを顎で示す。
「ちょっと付き合ってくれよ。長くはしないから」
勇吾は「了解」と答えて、きちんと正座した。
青見は彼の正面に腰を下ろし、膝の上にその絵本を広げる。
「……絵本、ですか」
「そう。子供の頃、何回も読んだやつ」
ページをめくる音が、ぽつり、と静かな道場に落ちた。
/*/絵本と子供/*/
それはおおきなドラゴンでした。
なんねんもとしをかさねたトカゲだけがたどりつく、おおきなおおきなドラゴンでした――
勇吾は黙って聞いていた。
青見の声は、授業中の教科書朗読みたいに抑揚がないのに、不思議と耳に残る。
弱いトカゲが、
「よるをまもる」というただ一つの夢のために、
飛べないのに空を目指し、
火を吐けないのに火を吐こうとし、
いちおくねん、におくねん、と途方もない時間を積み重ねて――
いつしか“トカゲ”と呼ぶ者がいなくなり、
ドラゴンと呼ばれる存在になった。
ゆめは、こわれませんでした。
最後の一文を読み上げると、青見は絵本をぱたりと閉じた。
「……終わり」
「……」
勇吾は少し考えてから、素直な疑問を口にする。
「ドラゴンは、夜を守るためにトカゲをやめたんですね」
「そうだな」
「でも、“トカゲ”だった頃のことは、忘れたのでしょうか」
青見は、そこで初めて小さく笑った。
「さあな。
――でもさ、夢が壊れなかったってことは、多分、忘れてないんだと思う」
それから、少しだけ視線を落とす。
ページの紙を、指で一度、なぞって。
「この絵本、オレけっこう本気で信じてたんだよ。
“夜を守るドラゴン”ってのが、どっかにいるって」
「……実在すると仮定していた、という意味ですか」
「うん。子どもの頃のオレにとっては、ほぼ事実だった」
◆ 一人の子供の誓い ◆
「……オレさ」
青見は絵本を脇に置いて、膝に組んだ両手を見つめた。
「始めは、ただのガキだったんだよ。
小さくて、弱くて、何にも出来ない、ただの“子ども”」
勇吾は瞬きをする。
自分の知っている東・青見は、“弱い”という単語からもっとも遠い人間のひとりだ。
「子どものままじゃ、何も守れないからさ。
オレは“僕”でいるのをやめて、“オレ”になった」
ふっと笑いながら、青見は続ける。
「戦う力がないから、剣を振って、拳を握って。
走って、倒れて、立ち上がって。
泣きたい夜は、涙を呑み込んで。
迷いたい朝は、迷う時間ごと走りに出て。
……そうやって、“剣士”になろうとした」
勇吾の胸の中で、何かがひっかかる。
それは、自分の歩んできた道と、妙に似ていた。
ミネルヴァの実験棟。
数字で呼ばれていた日々。
「兵器」であることが前提の訓練。
(ボクは、“子ども”でいた記憶が、あまりない)
青見は、勇吾の表情の変化に気づいたのか、少しだけ言葉をやわらげた。
「どんだけ拳を握りしめても、
どんだけ速く引き金を引けるようになってもさ。
――“こわいもの”は、全部は消えないんだ」
「……はい」
勇吾は思わず相槌を打つ。
胸の奥で、小さな子どもの自分が、縮こまっている感覚。
夜、ひとりきりのときにだけ顔を出す、あの震え。
「夜って、怖いよな」
青見が、ぽつりと言った。
「世界が静かになって、自分の鼓動だけがうるさくなって。
天井のシミが、やけにでかい怪物に見えたりさ」
勇吾は、沈黙の中でゆっくりと頷いた。
「それでも――“夜を守りたい”って思った」
青見は、自分の胸を軽く拳で叩く。
「トカゲがドラゴンになりたいと思ったみたいに、
いつかオレも、誰かの眠りとか、夢とかを、でっかい翼で包める存在になりたいって」
言葉の中に、どこか“痛み”のようなものが混じる。
「そのために、“子ども”をあきらめた。
泣く代わりに素振りをして、迷う代わりに怪異を殴りに行って。
そうやって、自分の夜を削ってきた」
勇吾は、その姿を想像してみる。
まだ背も低く、腕も細い頃の青見が、眠れない夜にひとりで素振りをしている姿。
暗いグラウンドで、白い息を吐きながら。
◆ 選ばなかった「もし」たち ◆
「……たまに考えることがあるんだ」
青見は、ふっと視線を横にそらした。
「もし、あの改札の前で立ち止まらず、そのまま歩き続けてたら、って」
勇吾は首をかしげる。
「改札?」
「うん。昔さ、駅の改札のとこで、一回だけ振り返ったんだよ」
そのときの情景を思い出すように、青見はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「人混みで、ごちゃごちゃしててさ。
もし振り返らなきゃ、そのまま電車乗って、
何も知らないまま、もっと“楽な”人生を歩いてたかもしれない。
怪異も、血も、あの夜も。
何一つ、知らずに済んでたかもしれない」
勇吾は黙って聞いている。
「でも、振り返った。
そこで、手を振ってる奴の顔を見た。
そいつを追いかけて、改札から出て、裏門を抜けて、
金網を乗り越えて、泥だらけになってさ」
青見の口元が、少しだけ楽しそうに歪む。
「リノリウムの床に寝っ転がって、逆立ちして、
手のひら血だらけにして、天井を見上げたときに思ったんだ。
“あ、ここも銀河の果てなんだな”って」
体育館の冷たい床。
まだ夜明け前の、青白い明かり。
青見の視界に広がった天井の模様が、宇宙の星雲みたいに見えた瞬間。
「フェンスの向こうに、暗い空があってさ。
誰かが投げたボールが額に当たって、ぶっ倒れた、その一瞬に。
――紺色の空を飛行機雲が横切った」
ゆっくり、指で空をなぞる仕草。
「その線が、頭をぶち抜くプラズマみたいでさ。
痛みも忘れて、ただ見とれてた。
“ああ、こういうのを愛って言うんだろうな”って、
意味も分かんないくせに思った」
勇吾は、胸のあたりがきゅう、と締めつけられるのを感じた。
“もし”あのとき振り返らなかったら。
“もし”裏門を抜けて走り出さなかったら。
“もし”フェンスを越えなかったら。
――今ここで、こうして青見の話を聞いている自分もいなかった。
「選ばなかった未来は、何光年も向こうの宇宙みたいに遠い。
でも、一歩踏み出した足だけは、勝手に止まらないんだよな」
青見は、そこで勇吾をまっすぐ見る。
「オレにとっては、その一歩が、
“夜を守る”って決めた瞬間だった」
◆ 火鳥の胸に灯るもの ◆
「火鳥」
「……はい」
「お前はさ、ミネルヴァだの実験体だの、いろいろ背負ってるけど」
青見はゆっくりと言葉を選ぶ。
「いつか、自分の言葉で“こうなりたい”って言える日が来るといい。
誰かに作られた夢じゃなくて、お前自身の夢でさ」
勇吾の喉が、ごくりと鳴った。
「それは……“ドラゴン”みたいなものですか」
「そうだな。
トカゲだった頃の記憶を、ちゃんと抱えたままのドラゴンだ」
勇吾は、自分の胸に手を当てる。
さっきから、ずっとそこが熱い。
稽古で上がった心拍とも違う、妙な熱さ。
「東」
「ん」
「ボクはいま、胸が痛いです。
でも、不快ではありません。
これは――なんですか?」
青見は、少しだけ考えてから、笑った。
「……憧れ、じゃないかな」
「アコガレ」
勇吾は、口の中でその音を転がす。
データベースにはある単語。
でも、意味の重さまでは、今ようやく体感したような気がした。
「ボクは、ボクなりのドラゴンになりたいです」
勇吾は、言葉を絞り出す。
「ミネルヴァの兵器としてではなく、
火鳥勇吾として。
ボクが選んで守りたいものを、
この手で守れるような存在に」
その言葉を聞いて、青見は、安心したように息をついた。
「それでいい。
――その“痛いのにあったかい感じ”を、
簡単に捨てんなよ」
「はい」
道場の外では、虫の声がしていた。
暗い庭の向こう、街の灯りは小さな星みたいに瞬いている。
勇吾の中で、何かがゆっくりと、光り始めていた。
まだ弱くて、頼りなくて、すぐに消えてしまいそうな灯り。
それでも――
(いつかボクも、誰かの夜を包めるドラゴンに)
そう誓ったとき、胸の痛みは、少しだけ甘くなった。
火鳥勇吾の情操教育は、
まだ始まったばかりだ。