/*/メガネの子と実験体、放課後に契約する/*/
昼休みのチャイムが鳴り終わる頃、2年C組の教室は、いつものざわめきに包まれていた。
机を寄せて弁当を広げる者、購買パンを片手にスマホをいじる者、廊下側でふざけ合う男子。
その喧騒から、ひときわ目立つ島が一つ。
教室中央付近。
安生四姉妹と、東・青見と、惣一郎と火鳥勇吾が集まって、なにやら真剣な顔をして話し込んでいる。
「――火鳥の情緒が幼いので、情操教育を兼ねて絡んでやってくれないか」
梨花の低い声が、半分冗談、半分本気のトーンで響く。
(あ、始まった)
窓際の一番後ろの席で弁当箱を開けながら、氷室英は眼鏡の奥で視線だけをそちらに向けた。
腰まである三つ編みを背中に垂らし、白い指でおにぎりをつまむ。
見た目だけなら、どう見ても「お弁当を食べるお嬢さん」なのに――
その瞳は、窓の外へと抜けていた。
ガラスを通して見える、曇り気味の冬空。
校舎の向こう、郡山盆地を囲む山々の線。
そのさらに向こう、かすかに霞んだ安達太良山のシルエット。
英には、その上を流れる「風の模様」が見えていた。
白と灰の層。
いくつもの線が縒り合わさって、ひとつの渦になり――
その渦の中心から、じわり、と重さが増していく。
(……うん。やっぱり、夢圧が上がってる)
安達太良の方角から吹き降ろす風に、微かなざらつき。
四十九囲区全体を覆う結界の表面が、薄く波打っている感覚。
ここ最近、ずっと気になっていた変化だ。
(四十九囲区そのものの「眠り」が、浅くなってる。
山冠の呼吸が、ちょっと荒い……)
英は、弁当箱の端を指先でとんとんと叩きながら、教室のざわめきに耳を傾けた。
「――勉強は出来てるから、遊びかな?」
「じゃあ、幼い時の遊びから辿ってやれば良いんじゃね?」
惣一郎の能天気な声に、教室が笑いに包まれる。
火鳥勇吾は、いつものように少し首を傾げていた。
表情は薄いが、その瞳の奥で、なにかを必死に理解しようとしている気配だけは伝わってくる。
(情操教育、ねぇ)
英は小さく笑って、視線を窓の外に戻した。
(あの子の情緒を育てるのは大賛成だけど――
ボクたち“こっち側”の問題は、ちょっと別腹なんだよね)
風紋の乱れは、子どもの遊びでは直らない。
これは、もっとはっきりとした「侵入」の兆しだ。
(……放課後、安生道場に寄って、李さんと龍さんに報告しよ)
英は、おにぎりを一つ食べ終えてから、膝の上のカバンをそっと開いた。
中には、分厚い魔術書と、きちんと包まれたタッパーがひとつ。
タッパーの中身は、焼きたてのガトーショコラ。
今日の「ついで」の仕事用。
(勇吾の“情操教育”は、ケーキでも出来るしね)
黒ぶち眼鏡の奥で、赤みを帯びた黒の瞳が、静かに細められた。
◆ ◆ ◆
放課後。
夕暮れの光が、逢瀬学園のグラウンドを赤く染めている頃。
安生道場の中には、まだ汗の匂いと気合いの余韻が残っていた。
「いち、に、さん、し――」
号令に合わせて突きを繰り出す門下生たちの声が、道場の板の間を震わせる。
その隅で、火鳥勇吾がひとり、補強メニューを終えたばかりの身体をタオルで拭っていた。
額から滴る汗。
しなやかに鍛え上げられた筋肉。
道着の下に隠れてはいるが、「ひと夏でゴリラ化した」噂も納得の体躯だ。
「勇吾、終わったか」
「はい、胆さん。メニュー分のセットは完了しました」
胆に簡単に報告を済ませると、勇吾は視線を入口の方へ向ける。
そこには――黒ぶち眼鏡に三つ編みロングの、どう見ても女の子なシルエットが、ちょこんと立っていた。
「やぁ、今日もお疲れさま、勇吾ちゃん」
「英。こんばんは」
氷室英。
逢瀬学園のクラスメイトであり、勇吾にとっては――元々からの「雇い主」のような存在でもある。
その英が、今日は道場の奥、応接用の小部屋へと通されていた。
低いちゃぶ台を挟んで座っているのは、安生道場の主・安生李と、その息子の龍。
李は小柄で白髪交じりの老人だが、目だけは油断ならない鋭さを湛えている。
龍はその倍以上の身長を持つ大男で、腕組みをして座っているだけで部屋が狭く感じられた。
「来たか、勇吾」
「失礼します」
勇吾が正座すると、英は少しだけ体を向けて、にこりと微笑んだ。
「じゃあ、改めて――今日の“お仕事のお話”を、ね」
李が煙草代わりの湯呑みを口に運び、静かに切り出した。
「最近な、四十九囲区の外から、その力を利用しようとする連中が増えておる」
英が頷く。
「ボクの方の風読みでも、夢圧の波形が変わってます。
安達太良の呼吸に、外から“余計なリズム”が混ざってる感じ」
「この街そのものを“装置”として使おうとしている、ってことだな」
龍の声は低く重い。
李が続ける。
「今までは、その手の魔術師に対処するのは主にお前の役目だったが――」
「うん。ボクひとりで、こそこそやってました」
「そろそろ、ひとりで背負わせるには荷が重くなってきた」
李はそう言って、湯呑みを置いた。
「……勇吾。お前は元々、氷室の従者じゃ。
だが、これから先は“もっと深いところ”まで一緒に潜ることになる」
「深いところ、ですか」
「四十九囲区そのものを守る仕事じゃ。
怪異を殴るだけじゃなく、“世界の方の都合”ともやり合うことになる」
勇吾は、ゆっくりと瞬きをした。
ミネルヴァ時代――
実験体として、外からの命令一つで動かされていた頃とは違う。
今ここで提示されているのは、「自分で選ぶ」仕事だ。
英が、そこで口を開いた。
「だから今日ね、正式に“契約”を結びに来たんだ。
今までは、なんとなく“ボクのお願いを聞いてくれる人”って関係だったけど……」
眼鏡の奥の瞳が、勇吾をまっすぐ見つめる。
「ここから先は、ちゃんと従者になってもらう。
ボクの魔術回路の一部に、勇吾を組み込む形で」
「ボクを……組み込む」
「うん。もちろん、嫌だったら断っていいよ?」
英はにこにこと笑いながら、さらっと物騒なことを言った。
「危ない仕事だよ?」
小さな声だったが、その一言には、冗談の余地はなかった。
勇吾は、少しだけ考えてから問い返す。
「危険の程度は、ミネルヴァ時代と比較してどの程度ですか」
李と龍が、同時に顔をしかめる。
英は一瞬だけ「うわ」と眉を寄せてから、くすっと笑った。
「それを基準にするの、どうかと思うけど……そうだなぁ」
少しだけ言葉を選ぶように、視線を宙に泳がせる。
「ミネルヴァほど“使い捨てる気満々”ではないし、
ボクは勇吾を兵器としてじゃなくて、人として扱うつもり。
――人として死ぬ分には、ボクが何とかするよ」
サラリと言われたその一言に、勇吾は目を瞬いた。
「ただ、“人でなくなる”危険は、正直ある」
英は真顔に戻って続ける。
「四十九囲区の中で動くってことは、
ア=ダタ・ラフの夢とか、深月の森とか、イタクァの風とか……
“人間の形してないロジック”と、どうしても近くなるからね」
人でなくなる危険。
その言葉は、勇吾にとって決して他人事ではなかった。
自分自身が、すでに「人と兵器の境界」に立たされてきた存在だからこそ。
それでも――彼は、ゆっくりと頷いた。
「ボクは、人として死ぬほうを選びます」
静かな声だった。
だが、その芯には揺るぎがない。
「ミネルヴァにいたとき、ボクは“使い捨ての部品”でした。
ここでは、安生家と英が、ボクを“人として扱おうとしてくれている”。
もしボクに選択権があるのなら――
ボクは“兵器として壊れる”のではなく、“人として役目を終える”方を選びたいです」
李と龍が、何かを噛みしめるように黙り込んだ。
英は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……了解。じゃあ、その選択に責任を持つね」
英は、三つ編みを軽く指で払いながら、懐から小さな銀のペンダントを取り出した。
円形の枠の中に、細かい紋様が刻まれている。
よく見ると、その紋様は四十九囲区の地図と星図、そして安達太良山の稜線を重ねたようなパターンになっていた。
「李さん、この部屋、少しだけ貸してもらえますか?」
「構わん。いつもの“アレ”じゃな?」
「はい、“簡易版”ですけどね」
英は立ち上がり、ちゃぶ台を端に寄せる。
床の畳の上に、白いチョークで素早く円を描いていく。
『円を描く』。
それは、世界のレイヤーを一つ切り出し、その中だけで作用させるための、基本にして強力な呪文。
勇吾は、英に促されるまま、描かれた円の中央に正座した。
「ちょっとだけ、変な感じがするかもしれないけど、すぐ終わるからね」
「了解しました」
英は円の外側に座り、ペンダントを胸に当てる。
その瞳が、ゆっくりと赤みを帯びていく。
空気が、ひやりと冷たく変わった。
視界の端で、李と龍の姿が薄れていく。
代わりに――黒々とした森の影が、畳の隙間から滲み出すように立ち上がった。
深月の森。
現世と異界の境界に広がる、静かな闇の森。
英が死んだあと、七日七晩かけて再構築される場所。
英が呟く。
「深月さま。ボクの従者候補を、一人連れてきました」
森の奥から、柔らかい気配が返ってきたような気がした。
声にはならない。
だが、英にはそれが「了承」として伝わる。
ペンダントの紋様が淡く光る。
同じ光が、勇吾の胸の奥にも灯った。
心臓が、一瞬だけ止まり、また打ち始めるような感覚。
勇吾は息を呑んだ。
何かが、自分の内側に「回線」を通そうとしている。
それはミネルヴァの制御チップとは違う。
もっとやわらかく、しかし確実な線。
英の声が、はっきりと届いた。
「ボクは、氷室英。
深月返歌の使徒にして、四十九囲区の一部を預かる者。
火鳥勇吾を、ここに従者として迎え入れる。
ボクの魔術回路の一部を貸し与え、代わりに彼の命と意思を、ボクの守るべき“生活圏”のために借り受ける」
勇吾は、自然と口が動いていた。
「ボクは、火鳥勇吾。
ミネルヴァの実験体であり、今は安生道場の門下生。
氷室英に従者として仕え、自分の肉体と技術を、その魔術の前衛として差し出す。
ボクの死は、兵器としてではなく、この街と人々を守るための代価として支払われるべきだと、ここに誓います」
森が、ざわ、と揺れた。
深月の気配が、少しだけ笑ったように感じられた。
イタクァの風が、どこか遠くでひゅうと鳴った。
英は深く息を吸い込み、最後の言葉を紡いだ。
「――契約、完了っと」
光がすっと引き、森の幻影が消える。
畳の匂いと、湯呑みの湯気が戻ってきた。
勇吾は、自分の胸に手を当てた。
そこには、先ほど灯った光の余韻が、かすかな熱となって残っている。
「……変な感じです」
「痛い?」
「いいえ。
なんというか……胸の奥に、“別の心臓”が一個増えたような」
「うん、それで合ってるよ」
英は満足そうに笑い、立ち上がると、隣に置いてあったカバンをごそごそと漁った。
「はい、勇吾。契約祝い」
取り出されたのは、小さなタッパー。
蓋を開けると、甘い香りがふわりと広がる。
「ガトーショコラ……ですか?」
「うん。今日の出来は、なかなか自信作。
危ない契約の後には、糖分が必要でしょ?」
英は、フォークを一本差し出しながら微笑んだ。
「これからいっぱい酷い目に遭わせると思うけど、よろしくね、勇吾」
勇吾は、一瞬だけフォークとケーキと英の顔を見比べて――
やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「了解しました。
ボクの“情操教育”にもなると聞きましたので」
フォークが、しっとりとしたケーキをすくう。
一口食べると、濃いカカオの苦味と甘さが、舌の上に広がった。
それは、ミネルヴァの実験室では決して味わえなかった種類の甘さだった。
英は、それを確認するように、静かに目を細める。
(――うん。
これくらいの甘さから、教えていけばいいんだ)
窓の外では、冬の風がまた、四十九囲区の上を吹き抜けていた。
さっきよりも、ほんの少しだけ、整ったリズムで。