なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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/*/ガチャガチャと夢圧結晶・沈み口モール/*/

 

 

 土曜の午後の沈み口モールは、いつも通り雑多で、そしてどこか沈んだ賑わいを見せていた。

 

 フードコートの油の匂いと、ゲームコーナーから漏れてくる電子音。

 通路には、家族連れとカップルと、中高生の群れ。

 

 その中を、氷室英と火鳥勇吾は、買い物袋も持たずに歩いていた。

 

「……で、なんでボクたちはデートコースど真ん中を、仕事モードで歩いてるんだろうね」

 

 英が半分ぼやきながら、黒ぶち眼鏡の位置を指で押し上げる。

 

「沈み口モールは、四十九囲区の夢圧が集束しやすい“窪地”だから、でしたね」

 

「そうそう。さすが、勇吾。復唱イイね」

 

 土曜日の昼下がり、彼らは「夢圧の小さな綻び」を探るために、モールの見回りに来ていた。

 

 勇吾は、ただの高校生らしく制服の上からパーカーを羽織っただけの格好だが、

 肩幅と胸板がどう見ても“ただ者ではない”存在感を放っている。

 

 すれ違う女子高生たちが「ゴリラ……」「でもイケメン……」とひそひそ囁くのを、英は聞こえないふりでやり過ごした。

 

(まぁ、勇吾は勇吾で“視覚的情操教育”になってるよね、あれはあれで)

 

 そんなことを考えつつ、英はモールの空調の流れを読む。

 冷房の風に混じって、微かにざらりとした「夢の粉」が漂っている。

 

 その濃度が、フロアの一角で、不自然に高くなっていた。

 

「……あそこだね」

 

 英が顎をしゃくった先。

 ゲームコーナーの手前、少し陰になったスペースに、ガチャガチャの島があった。

 

 カラフルなカプセルが詰まった、小さな筐体が十数台。

 そのうちの一番端っこ――白い本体に金色のラインが入った、新しめの台の前に、子どもが一人立っている。

 

 小学生くらいの男の子だ。

 制服の上着を腰に巻き、握りしめた百円玉を慎重に投入口へ。

 

 カラン、と硬貨が落ちる音。

 ハンドルを回すと、カプセルがひとつ、コロンと出てきた。

 

 透明なプラスチックの中に、青い袋。

 袋の表には「願いが叶うお守り」と金文字で印刷されている。

 

「当たった!」

 

 男の子は嬉しそうに叫び、袋を破る。

 中からころんと出てきたのは、小さなガラス玉のついたストラップ。

 

 ――その瞬間、英の胸の中で、何かがツン、と鳴った。

 

(来た)

 

 勇吾も、小さく眉をひそめる。

 

 彼の「もう一つの心臓」が、ごく微かに脈打った。

 

 ガラス玉から、目には見えない細い線が、空間へと伸びていく。

 その先に、別の人間の願いと、偶然と、出来事が、じわじわと絡みついて――

 

 英は、心の中でカウントを始めた。

 

(……3、2、1)

 

 男の子がくるりと振り向いたとき。

 

 ちょうどその視線の先で、派手な音を立てて自販機が倒れた。

 

 驚く周囲の人々。

 転がるペットボトル。

 だが、たまたま通りかかった店員がすぐに支え、怪我人は出ない。

 

 その隙に、倒れた自販機の裏から、猫が一匹、飛び出してきた。

 

「ミケ!」

 

 男の子が叫ぶ。

 

 さっきまで「迷子猫のお知らせ」のポスターを眺めていた、その猫だ。

 ミケと呼ばれた猫は、男の子の足にすり寄り、のどを鳴らす。

 

 人々の「良かったねぇ」「偶然ってあるんだねぇ」という声が、渦のように広がる。

 

 英は、静かに息を吐いた。

 

(偶然の連鎖。しかも、きれいに“願い”に沿ってる)

 

 ここまで露骨だと、もはやただのラッキーではない。

 

「勇吾」

 

「わかってる」

 

 二人は自然な足取りでガチャの台に近づいた。

 

 男の子は、猫を抱いて母親の元へ走り去っていく。

 その背中に、英はそっと指を二本立てた。

 

「《惑い》、っと」

 

 低く呟かれた精霊呪文。

 男の子は一瞬だけ振り返りかけて――すぐに母親に話しかけられ、すべてを「ただの幸運」として記憶に刻み込む。

 

 英は、問題のガチャ台の前に立った。

 

 白い筐体。金のライン。

 他の台と違って、どこか“異物感”のあるデザインだ。

 

 ガチャの上部には、やはり「願いが叶うお守り」と書かれたポップ。

 小さな字で「※効果には個人差があります」と添えられている。

 

(うんうん。だいたいこういうやつは、逆に“個人差がない”んだよね)

 

 英は、指先をカプセル投出口の縁に添えた。

 

 冷たいプラスチックの感触。

 その向こう側で、濃縮された夢圧が、ガラス玉たちに吸い込まれている。

 

「……《にかわ》」

 

 囁きとともに、目に見えない透明の粘液が、ガチャ台の内部にじわりと広がった。

 

 夢圧を束ねる線を、こてっと固める、魔術的な“接着剤”。

 

 ガラス玉から伸びていた見えない線が、ぴたりとその場に固定される。

 

「夢圧の流れ、止めた。あとは――」

 

「逆流させるんですね」

 

「そう。元の“蛇口”を辿るよ」

 

 英はゆっくりと目を閉じ、胸の前で指を組んだ。

 

 ガチャ台の中で固まった夢圧が、今度は逆向きに流れ始める。

 線は筐体の内部から、床へ、壁へ、空調ダクトへと遡り――

 

 モールの奥、バックヤードへと薄く伸びていく。

 

「あっち」

 

 英が目を開け、通路の端を指さした。

 

「勇吾、先行って。ボクは風を回して、一般人を遠ざける」

 

「了解」

 

 勇吾は一歩踏み出すと、そのままずんずんと人混みをかき分けて進む。

 ただ歩いているだけなのに、彼の前では自然と人の波が割れていった。

 

 モールの裏側へ続く「関係者以外立入禁止」のドア。

 勇吾は躊躇なくノブを握り、押し開ける。

 

「鍵は?」

 

「もう開けておいた」

 

 英が後ろからひょこっと顔を出す。

 ドアの上枠には、薄く風の結界が残っていた。

 

 薄暗いバックヤード。

 ダンボール箱が積まれ、蛍光灯のちらつく廊下。

 

 その奥に、一人の男がいた。

 

 スーツ姿。

 モール店員のネームプレートを付けてはいるが、その立ち方は「この場所に馴染んでいない」。

 

 男は、タブレット端末を片手に、何かの数値を眺めていた。

 勇吾と英の気配に気付くと、びくりと肩を震わせる。

 

「……お客さま、こちらは関係者以外――」

 

 言葉の途中で、男の目が勇吾の体格を認識した。

 

 その瞬間、彼の顔から血の気が引いた。

 

 そして、次の瞬間には、バックヤードの奥へと駆け出していた。

 

「逃げたねぇ」

 

「追う」

 

 勇吾が床を蹴る。

 走り慣れた足取りで、狭い通路を疾走する。

 

 男は慣れない安全靴でよろけながらも、必死に逃げる。

 だが、その足元に、突然、ダンボール箱が倒れ込んだ。

 

 積まれていた箱が、タイミングよく進路を塞ぐ形で崩れる。

 

「っ……!」

 

 男がつまずいた瞬間、勇吾はその背後に追いついていた。

 

 肩口をがしっと掴む。

 非力な一般人の体は、簡単に動きを封じられる。

 

「離せ!」

 

「離すのは、英がいいと言ったら、です」

 

 淡々と答える勇吾の前に、英が追いついてきた。

 

 眼鏡の奥の瞳は、さっきまでの柔らかさを消している。

 

「……外から来た魔術師さん、ですね」

 

 男の顔から、完全に血の気が引いた。

 

 言い訳をする隙も与えず、英は片手を伸ばす。

 その指先には、ついさっきまでガチャ台の中にあったのと同じ、「夢圧の紐」が絡みついていた。

 

「四十九囲区の夢圧を切り出して、ガチャに封入。

 “願いが叶う”って売り文句で、テストしてた。違う?」

 

「……なんの話だか」

 

「へぇ」

 

 英の微笑みが、ほんの少しだけ冷たくなる。

 

「ボク、騙されるのあんまり好きじゃないんだよね」

 

 男の周囲の空気が、きゅっと縮んだ。

 

 見えない風の層が、彼の体の周りに幾重にも重なり、

 逃げ道を、ひとつひとつ塞いでいく。

 

「四十九囲区は、観光地じゃない。

 ボクのクラスメイトと、友達と、日常が詰まってる“生活圏”だ」

 

 言葉の一つ一つが、針のように鋭く突き刺さる。

 

「そこに、外から来た魔術師が勝手に蛇口付けて、夢圧を持ち出して。

 子どもの“願い”で実験する――」

 

 英は、微笑んだまま首を傾げた。

 

「それを、ボクが黙って見逃すと思った?」

 

 男は、何かの呪文を唱えようと口を開いた。

 

 その唇から出かけた音の前に、英の方が早かった。

 

「《呪払》」

 

 一言。

 

 男の口の中で、呪文の音節がばらばらに崩れ、

 喉の奥へと貼り付く。

 

 むせる男。

 勇吾の手は、微動だにしない。

 

「さて」

 

 英は、バックヤードの天井をふと見上げた。

 

 そこには、小さな防犯カメラが一つ、こちらを見ている。

 

 レンズの向こうにいる“誰か”に、英はにっこりと笑いかけた。

 

「――観測は、ここまでにしておいてくれないかな」

 

 次の瞬間、カメラのレンズが、ぱちん、と音を立てて割れた。

 

 風が一陣、天井裏へと駆け抜ける。

 

 どこか、このモールのさらに上層で。

 スマホの画面に映る映像が途切れたことを確認した誰かが、舌打ちをしているかもしれない。

 

 英は、その気配を確かめるように、ほんの一瞬だけ視線を遠くへ投げた。

 

(――見てる、ね)

 

 だが、今はそこまで追わない。

 

 目の前の“蛇口”を閉める方が先だ。

 

「勇吾、この人、一応骨は折らない程度に固定しといて。

 ボクはガチャの夢圧片付けてくるから」

 

「了解。……英」

 

「なに?」

 

「さっきの“ボクは騙されるの好きじゃない”という発言。

 ミネルヴァの研究者たちに聞かせてあげたいですね」

 

「もう死んでるでしょ、たいてい」

 

 英は肩をすくめると、くるりと踵を返した。

 

 沈み口モールの空調が、ほんの少しだけ軽くなっている。

 夢圧の濃度が、元の穏やかなレベルに戻りつつあった。

 

 

/*/廊下を渡る白いクジラ/*/

 

 

 「なぁ、昨日さ、見たんだけど」

 

 月曜の朝の2年C組。

 ホームルーム前のざわめきの中、男子の一人が声を潜めて言った。

 

「夜の校舎でさ、白いクジラが泳いでたんだよ、廊下を」

 

「出たよ、またそういう――」

 

 笑い飛ばそうとした別の男子の声が、途中で止まる。

 

「……え、それ、オレも見たんだけど」

 

「は?」

 

 教室の空気が、少しだけ変わる。

 

 「オレも」「オレも」と、同じ話をする声が二つ、三つと増えていく。

 

 夜の校舎。

 二階の廊下。

 真っ暗な窓ガラスの向こう側を、巨大な白い影が、音もなく泳いでいく。

 

 輪郭は、クジラのように丸みを帯びていた。

 でも、ひれも尾もはっきりとは見えない。

 ただ、白い塊が、ゆっくりと廊下を横切っていく。

 

「安達太良の雪雲じゃね?」

 

「いやいや、廊下の中だって。窓の外じゃなくて」

 

 英は、自分の席で教科書を出しながら、その会話に耳を傾けていた。

 

(……山冠の呼吸、強めたの、週末のアレの影響かな)

 

 安達太良山の夢が、少しだけ街側に寄ってきている感覚は、昨日から続いている。

 

 教室の角で誰かが「白いクジラ」と呟くたび、

 窓の外の風紋が、微妙に揺らいでいた。

 

「英、どう思う?」

 

 前の席から、青見が振り向いて訊いてきた。

 彼もまた、こういう話には敏感だ。

 

「山冠の呼吸がちょっと強くなってる。ア=ダタ・ラフの夢が教室にまで届いてるね」

 

 英はさらっと本当のことを言った。

 

「だよな」

 

 青見もあっさりと頷く。

 このクラスでは、もはやそういう会話が日常の範囲内だった。

 

「夜、見に行く」

 

 後ろの席から、勇吾の声がした。

 

「夜の校舎は立ち入り禁止だぞ」

 

 惣一郎が一応ツッコミを入れるが、

 彼もまた、止める気はないらしい表情だ。

 

 英は笑って、軽く手を挙げた。

 

「ボクも行くよ。どうせ“山の視点の残渣”だろうし、放っとくと厄介だしね」

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 その夜。

 

 逢瀬学園の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 

 外灯だけが、グラウンドと校舎の輪郭をぼんやりと照らしている。

 窓ガラスは黒く、空を映す鏡のようだ。

 

 英と勇吾は、人気のない裏門から校舎の中へ入った。

 鍵は既に開いている。

 誰が開けたのかは、あえて考えないことにしておく。

 

「風、乱れ気味」

 

 英が廊下に一歩踏み込んだ瞬間、空気の層が肌にまとわりつく感覚があった。

 

 夜の学校特有の冷たさだけではない。

 どこか、遠い山の上の空気が、薄く混じっている。

 

 黒板消しのチョークの匂い。

 ワックスのかかった床の匂い。

 そこに、雪を含んだ風の匂いが、ごくかすかに重なる。

 

「勇吾、ここから先は、誰かに見られないようにするね」

 

「頼む」

 

 英は廊下の中央に立ち、片手を軽く振った。

 

「《防護》《惑い》、それから……《風の刃》は要らないか。

 とりあえず、視線と足音をごまかすくらいで」

 

 囁きとともに、廊下の空気がわずかに層を変える。

 

 もし今、夜間巡回の先生が正面から歩いてきても、

 なぜか一歩手前で別の廊下を曲がってしまうだろう。

 

 英と勇吾は、二階へと上がった。

 

 噂の「白いクジラ」が出るというのは、二階の南側廊下。

 音楽室や理科室が並ぶ一角だ。

 

 廊下の窓は、全てカーテンが閉じられている。

 ただ、完全に遮光されたわけではなく、外灯の光がうっすらと布越しに透けていた。

 

「時間帯は?」

 

「だいたい、日付変わる前後、って話だったね。でも、山の夢って、あんまり時計見て動くタイプじゃないから」

 

 英は、窓際にそっと近づいた。

 

 カーテンの裾が、風もないのに、微かに揺れる。

 

 英の胸の中で、また「別のリズム」が鳴った。

 勇吾も、それに気づいているのか、無意識に胸に手を当てる。

 

 そのときだった。

 

 廊下の奥。

 カーテンの隙間から、白いものがぬるりと現れた。

 

「来た」

 

 英が短く言う。

 

 それは、最初、ただの「光の塊」にしか見えなかった。

 

 でも、ゆっくりと近づいてくるにつれて、

 輪郭が、クジラに似た形を取っていく。

 

 頭、背中、膨らんだ腹。

 ひれのような影が両脇に揺れている。

 

 しかし、それは床から数十センチ浮かんでおり、

 足音も、呼吸音も、何も聞こえない。

 

 ただ、白い質量だけが、音もなく廊下を渡っていく。

 

「……クジラだな」

 

 勇吾が、妙に真面目な声で言った。

 

「クジラ“みたいなもの”だよ。

 安達太良山の“視点”が、ここまで流れてきて、形を取った残渣」

 

 英は、白い影に一歩近づいた。

 

 影の中には、教室、廊下、グラウンド、街並み――

 様々なものの断片が、ゆっくりと流れているように見えた。

 

 まるで、山の上から見下ろした景色を、無理やり一つの塊に押し込めたような。

 

「触っていいか?」

 

「だめ。勇吾の情操教育に良くない」

 

「そうか」

 

 即答に、勇吾はわずかに肩をすくめた。

 

 白いクジラは、まるで二人の存在に気づいていないかのように、ゆっくりと廊下を進んでいく。

 

 その進路上にある各教室のドアの向こうから、

 かすかな寝息や、布団の擦れる音が漏れていた。

 

 この時間にも学校に残っている合宿生や、帰り損ねた生徒たちだろう。

 

 白いクジラが通り過ぎるたび、

 扉の向こう側の眠りが浅くなる。

 

 夢の中で、彼らはきっと、山の上から自分たちの学校を見下ろす夢を見ている。

 

(……かわいいけど、放っとくとまずい)

 

 英は、心の中でため息をついた。

 

「勇吾」

 

「なんだ」

 

「この子、外に返す。ちょっとだけ、時間止めるから、動かないでね」

 

「了解」

 

 英は廊下の中央に進み出ると、靴音を止め、ゆっくりと呼吸を整えた。

 

 指先から、細い光の線が伸びる。

 それは白いクジラの輪郭に巻きつき、さらに天井へ、壁へ、床へと広がっていく。

 

「《存在の鎖》」

 

 低く、小さな声。

 

 だが、その言葉は、この校舎のこの廊下だけでなく、

 四十九囲区全体の「存在レイヤー」にまで届く。

 

 白いクジラの動きが、ふっと止まった。

 

 完全に静止したわけではない。

 ただ、流れがゆるやかになり、輪郭が少しだけ滲む。

 

「これは、山が見てる夢の切れ端。

 ここに長く留まると、人間の方が“山の視点”に引きずられて、現実感覚が削れてく」

 

 英は、白いクジラにそっと手を伸ばした。

 

 手のひらが、冷たい水の中に沈むような感覚。

 そこには、安達太良の稜線と、雪雲と、街の灯りが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。

 

「だから――元の“寝床”に返す」

 

 鎖が、きゅっと締まる。

 

 白いクジラの体が、少しずつ薄くなり、

 輪郭がほどけて、光の粒になっていく。

 

 その粒は、廊下の天井をすり抜け、夜空へと昇っていく。

 

 安達太良山の方角へ。

 山冠の呼吸のリズムへ。

 

 クジラの姿が完全に消えたとき、

 廊下の空気がほっと息を吐いたように緩んだ。

 

「……終わり」

 

 英は、額の汗を手の甲で拭った。

 

「大丈夫か」

 

「うん。ちょっと“山酔い”しただけ。

 勇吾は?」

 

「“別の心臓”が少し脈打ったが、問題ない」

 

「そっか」

 

 英は、勇吾の胸元に一瞬視線を落とし、それから窓の外を見た。

 

 カーテンの隙間から覗く夜空には、

 遠くに安達太良の影が見える。

 

 山の上から吹き降ろす風は、さっきまでよりも穏やかだった。

 

「四十九囲区ってさ」

 

 英はぽつりと言った。

 

「ボクたちが暮らしてる“街”でありながら、

 同時に、ア=ダタ・ラフや深月さまやイタクァたちにとっての“装置”でもある」

 

 勇吾は、静かに聞いていた。

 

「装置は、便利に使えば便利だけど。

 間違った使い方をすれば、簡単に人を壊す」

 

 英は、廊下の先――自分たちの教室がある方角を見た。

 

「だからボクたちは、その“装置”の上で普通に暮らしてるクラスメイトたちを、

 ちゃんと守らなきゃいけない」

 

「そのために、ボクは従者になった」

 

「うん。ありがとね、勇吾」

 

 英は、いつものように笑った。

 

「じゃ、帰ろっか。明日も授業あるし。

 夜の学校で情操教育してたなんてバレたら、結先生に怒られる」

 

「それは避けたいな」

 

 二人の足音が、夜の廊下に静かに響く。

 

 窓の外では、安達太良山の上を、ゆっくりと雲が流れていた。

 さっきまで廊下を渡っていた白いクジラは、

 今度はきっと、山の上の空を、誰にも見られない場所で泳いでいる。

 

 

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