/*/ア=ダタ・ラフの睡りを揺らす者/*/
最初の報せは、スマホのニュース速報だった。
《安達太良山 火山性微動増加 小規模噴火の可能性も――気象庁が注意呼びかけ》
月曜の朝、通学途中のバスの中。
画面を覗き込んでざわつく声が、あちこちから聞こえた。
「マジかよ、安達太良」「噴火したら温泉どうなんの」「こっちまで灰飛んでくんのかな」
逢瀬学園2年C組の教室も、その話題で持ちきりだった。
「うちの親、早速水買い込んでたぞ」「備蓄ってやつ?」「いやそれ地震のときのやつじゃね」
英は、自分の席でノートPCを開きながら、片耳でその会話を聞いていた。
画面には、気象庁の火山観測データ――ではなく、その下に英が独自に重ねた「夢圧波形」のグラフが並んでいる。
グラフは、一定周期の山と谷を描きながら、その振幅をじわじわと増していた。
赤線が、現実の火山性微動。
青線が、四十九囲区全体の夢圧。
ふたつの波形は、似ているようで、決定的な違いがあった。
(……やっぱり)
英は、眼鏡の位置を押し上げ、ため息をひとつ。
「どうだ、プロ」
後ろから声をかけてきたのは青見だった。
机に肘をつきながら、画面を覗き込む。
「火山活動って感じ?」
「ううん」
英は首を横に振った。
「夢圧の波形が、“火山”っていうより――」
言葉を選び、指で画面の一部を拡大する。
ゆっくりと盛り上がる谷。
そこから、ぐにゃり、とひしゃげるように折れ曲がる波。
「寝返りを打つ巨大な何か、そのものだね。
安達太良山の“中身”が、ちょっと寝苦しそうにしてる」
「ア=ダタ・ラフか」
青見の声が低くなる。
「うん。山冠の肺、って言った方が近いかな。
呼吸が、少し荒くなってる」
廊下側の席から、勇吾が静かにこちらを見ていた。
「それは、“放っておいていいレベル”ではない、という認識で良いか」
「正解」
英は、ぱたんとPCを閉じた。
「放課後、安生道場。李さんたちと作戦会議ね」
◆ ◆ ◆
夕方の安生道場は、いつもより張りつめた空気に包まれていた。
ニュースで火山活動が報じられてから、道場に顔を出す大人たちも心なしか落ち着かない様子だ。
そのさらに奥、畳張りの小部屋で、英と勇吾は李と龍の正面に座っていた。
「――外からの魔術師が、また増えておる」
李が、古い灰皿代わりの茶托を指先で回しながら言った。
「今度は“県外ナンバー”だけじゃない。県内各地の古い宗教団体にも、妙な動きがあります」
龍が補足する。
テーブルの上には、地図とプリントアウトされた顔写真と、簡単なプロフィールが並んでいた。
白い装束に身を包んだ中年の男たち。
山伏めいた格好の集団。
そして、シンプルなアウトドアウェアに身を包んだ、いかにも「魔術師です」と言わんばかりの外見の男女。
「目的は、だいたい見えてる」
英は、安達太良山を中心に描かれた地図の上を指でなぞった。
「安達太良山――ア=ダタ・ラフの“呼吸孔”を利用して、
四十九囲区全体を巻き込む大規模儀式の触媒にすること。
火山の噴気孔を、巨大な“煙突”みたいに見てるんだと思う」
「自分たちの呪文の煙を、神の肺に直接流し込もうってわけか」
龍が苦い顔をする。
「黒塚ラインの封印は?」
「一部、勝手にいじられてますね」
龍は、別の資料を差し出した。
黒塚の古い祠や石碑の写真。
そこに、見慣れない護符や、奇妙な金属板が上乗せされている。
「昔からある山岳信仰団体が、外部の魔術師と手を組んでる形じゃ。
“地元の神様を、現代魔術でアップグレード”とでも思っておるのだろう」
李の声には、露骨な軽蔑が滲んでいた。
「でも実際には、ア=ダタ・ラフの夢に自分たちごと取り込まれかけてる。
やり方が雑すぎるんだよね、外からの連中」
英は肩をすくめる。
「行くよ、安達太良。
このまま“寝返り”を続けられると、四十九囲区の眠りまで一緒にひっくり返される」
「わかっておろうな、英」
李の視線が、じっと英に突き刺さる。
「あの山の中身は、わしらが“名付けた”からといって、
わしらの理解の範疇に収まるものではない。
近づきすぎれば、人のかたちでは戻れんぞ」
「はい。だから、近づきすぎる前に、寝床を整えに行ってきます」
さらっと言って、英は立ち上がる。
「勇吾。護衛兼、現場の破壊担当」
「了解。現場の魔術構造物は、可能な限り物理的に破壊する」
「パイロキネシスは?」
「制限付きで使用可能。
山火事にならない程度に調整する」
「いい子だ」
李が小さく笑った。
「死ぬなよ、二人とも」
「人として死ぬ分には、英がなんとかするそうです」
勇吾が真面目に言い、英が苦笑する。
「……まぁ、出来るだけ死なない方向で頑張るよ」
◆ ◆ ◆
夜の安達太良山は、静かで、そしてどこか息苦しかった。
登山口の駐車場には、普段より多くの車が並んでいる。
そのうちのいくつかには、神社や団体のステッカーが貼られていた。
「普通の登山客も混じってるけど……この時間帯に残ってるのは、だいたい“そっち側”だね」
英は、ヘッドライトを消した登山道の入り口で、風の向きを確かめた。
ぬるく湿った空気。
火山ガスの匂いに似た、鉄と硫黄の混じった匂い。
山の呼吸は、いつもよりも深く、重い。
「夢圧は?」
「山頂方向に、濃い“渦”がある。
儀式は、たぶん噴気孔の近くでやってる」
英は小さく呪文を唱え、足元の石をわずかに浮かせた。
風の流れが、登山道の先を指し示す。
「行こう」
勇吾が先に立ち、暗い登山道を登り始める。
英は少し離れて、その背中を追った。
登るにつれて、空気は冷たくなり、月に照らされた木々の影が濃くなる。
途中、古くからの山の祠がいくつか並んでいた。
その前には、新しい紙垂と、見慣れない金属製の器具が置かれている。
黒塚ラインの一部が、無造作にいじられていた。
古い石碑の上に、現代魔術の符号が上書きされている。
山の神と、外なる存在の名が、乱雑に並べられていた。
「……センス、悪い」
英が呟く。
「混ぜていいものと悪いものの区別が付いてない」
「山岳信仰団体の“教祖”と、外部魔術師の“プロジェクトリーダー”の折衷案、だろうな」
勇吾が低く言った。
「どちらも、自分が主導権を握っているつもりだ。
だが実際に握っているのは、別の何かだ」
「たぶん、山そのものだよ」
英は、石碑の上に軽く手を置き、精霊呪文《修復》《呪払》を重ねる。
上書きされた符号が、ぱちぱちと火花を散らして消え、
元の素朴な祠だけが残った。
「ごめんね。あとでちゃんと線、引き直すから」
英の呟きに、風がひゅう、と答えた気がした。
◆ ◆ ◆
山頂に近い広場に出たとき、空気は一変していた。
噴気孔から昇る白い蒸気。
地面のあちらこちらから、かすかな熱と湯気が立ち上る。
その中心に――儀式陣が広がっていた。
直径数十メートル。
地面には、白い石粉で描かれた巨大な円。
その外周には、古い山岳信仰の祝詞と、現代魔術の呪文式が混在して書かれている。
円の内側には、黒い柱がいくつも立っていた。
黒曜石めいた素材の柱には、ア=ダタ・ラフの名を含む異界の符号が刻まれている。
その周囲に、装束姿の山伏と、ローブ姿の魔術師たちが並んでいた。
山伏たちの目は半ば虚ろで、何人かは既に山の夢に飲まれかけている。
外部魔術師たちは、タブレット端末を片手に、数値と星の位置を確認していた。
「やっぱり、やってる」
英の声が低くなる。
ふと、その中のひとり――外国人風の魔術師が、こちらに気づいた。
細い目。
冷たい笑み。
「おや。地元の“監視者”が来たようだ」
彼は流暢な日本語で言った。
「四十九囲区の管理者代理、氷室英くん、だったかな」
「ボクの名前、よくご存じで」
英は、肩をすくめて応じる。
「ここは、地元の神と、地元の人間の呼吸が重なってる場所。
勝手に“増設工事”されると、困るんだよね」
「我々は、神の力を拡張しようとしているだけだよ。
ア=ダタ・ラフは、こんな地方都市の守り神で終わる器ではない」
男は、黒い柱のひとつを軽く叩いた。
「四十九囲区全体を、より大きな儀式系の一部として取り込む。
その上で、君たちの安全も保障しよう。
我々の管理のもとで、ね」
その言葉に、勇吾の眉がわずかに動く。
英は、笑った。
「それさ、“ミネルヴァ”の人たちも似たようなこと言ってたよ」
「……?」
「“管理してあげる”って言われて、
勇吾は“実験体”にされたんだ」
英の声が、す、と冷える。
「ボク、そういうの大嫌いなんだよね。
誰かの生活圏を、“自分の計画の箱庭”にしようとするやり方」
風が、儀式陣の上を走った。
黒い柱の表面に刻まれた符号が、ぞわりと蠢く。
魔術師の目の奥で、別の光がちらりと瞬いた。
彼自身も、既にこの儀式構造の“歯車”になりかけている。
「――勇吾」
「行く」
合図と同時に、勇吾が地面を蹴った。
儀式陣の縁に向かって、一気に距離を詰める。
土を蹴り上げる足。
その背後で、地面の砂利がふわりと浮かんだ。
勇吾の中で、抑え込まれていた熱が、じわりと沸き立つ。
ミネルヴァで与えられた「能力」。
物質の運動エネルギーを、熱と火へと変換する異常な適応。
儀式陣の一部――黒い柱の根元に組まれた金属製の導線と護符が、勇吾の接近に反応して震える。
「《発火》」
英が、遠くからひとこと呟いた。
勇吾の身体を中心に、目に見えない“着火の衝動”が広がる。
黒い柱の足元から、突然炎が噴き上がった。
カッと明るく燃え上がる火柱。
金属線が一気に赤熱し、空中で溶ける。
山伏たちが悲鳴を上げる。
外部魔術師たちが慌てて呪文を唱える。
英は、その呪文のいくつかをすかさず聞き分けた。
「《自然元素制御》《魔力反射》――
聖霊ザゼルよ、土星の聖霊よ。悪しき力をその輝きで映し出せ」
ささやきとともに、儀式陣の上に浮かび上がった火の線が、ぐにゃりと曲がる。
彼らが勇吾に向けて放った炎と雷の呪文が、空中で折り返され、撃った本人たちの足元へと落ちた。
爆ぜる光。
倒れる魔術師たち。
勇吾は、その隙に黒い柱に全力の蹴りを叩き込む。
重い鈍い音とともに、柱がひび割れる。
内部に封じられていた黒い霧が漏れ出し、夜の空へと昇っていく。
「二本目」
勇吾が身を翻し、別の柱に向かう。
その足跡のたびに、足元の護符や金属具が、熱に浮かされて破裂した。
英は、その背中を目で追いながら、別の方向に意識を向けた。
儀式陣の中央。
そこには、巨大な「穴」があった。
肉眼にはただの岩の窪みに見えるが――
英には、それがア=ダタ・ラフの「呼吸孔」であることがわかった。
そこから吹き上がる蒸気には、夢圧が濃縮されている。
今まさに、儀式によって無理やりリズムを変えられようとしている。
(……これ、完全に止める前に起動しちゃうな)
英は、唇を噛んだ。
「英!」
勇吾の声。
振り向くと、数人の山伏が、半ば夢遊病者のような足取りで勇吾に取りすがろうとしている。
その目は完全に山の夢に囚われていて、すでに“自分”を保っていない。
「その人たち、殺さないで! 《眠り》!」
英が手を振ると、温かな波が山伏たちの頭上を通り過ぎた。
彼らは糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
ただし、それは一時的な対処に過ぎない。
儀式陣のあちこちで、黒い石の欠片が震え、
山の鼓動と同調し始めていた。
空気が、急に重くなる。
地面の奥から、低いうなり声のような振動。
英の耳には、それが明確な“息継ぎ”の音として聞こえた。
(まずい)
英は、呼吸を整え、穴の縁に立った。
地下から吹き上がる蒸気が、顔を打つ。
硫黄臭とともに、無数の夢の断片が混ざっていた。
村。
街。
高速道路。
ダム。
黒塚。
逢瀬学園。
四十九囲区全体の光景が、ひとつの肺の中で、ごちゃ混ぜになって膨らんでいる。
「……ア=ダタ・ラフ」
英は小さく呼んだ。
「寝苦しいのはわかるけどさ。
ここで大きく寝返り打つと、ボクたちの街、普通に潰れるんだよね」
返事はない。
ただ、呼吸だけが深くなる。
儀式陣の外縁が、一斉に光り始めた。
勇吾が柱を折るのと、起動のラインが繋がるのは、ほぼ同時だった。
眩い閃光。
耳鳴り。
地面が、ぐん、と沈んだ気がした。
次の瞬間――英の視界は、世界を失った。
◆ ◆ ◆
そこは、巨大な胸の中だった。
山全体が、肋骨のような骨に見える。
谷間が、肺葉の隙間。
噴気孔から立ち上る蒸気は、黒い肺胞から吐き出された「吐息」だった。
ア=ダタ・ラフの“目”が、ほんの一瞬だけ開く。
瞼そのものが地平線の向こう側に伸びていて、
英には、視界の端に“切れ目”が入ったようにしか見えなかった。
だが、その切れ目の向こうには、星のない暗闇と、
どす黒い呼吸のうねりが広がっていた。
阿鼻叫喚。
異形の肢。
崩れゆく街。
しかし同時に――
あたたかな風。
子どもの笑い声。
炊き立てのご飯の匂い。
四十九囲区で積み重ねられてきた、無数の「日常」の記憶が、
山の夢の中でひとつの塊になって揺れている。
(……これは、ダメ)
英は直感した。
このまま、この“夢”が一気に現実へ吹き出したら。
四十九囲区は、ただの街ではいられなくなる。
神話と日常の境目が崩れ、
人間たちは、山の肺の中の「ただの空気の一部」にまで落とされてしまう。
(ボクは、“そうなる”ために従者契約したんじゃない)
英は、自分の胸に手を当てた。
“別の心臓”――勇吾との回線が、かすかに脈打っている。
遠くで、勇吾が叫んでいる気配がした。
現実の山頂で、英の身体を揺さぶっている。
でも、今ここで手を離したら、
勇吾も、安生家も、青見たちも、逢瀬学園も、
全部まとめて「山の夢の一部」にされる。
(……ごめんね、深月さま)
英は、心の中で呼びかけた。
「ボクは今から、この街の“夢”を、山の夢に混ぜる。
その代わり、山の“重さ”を、街全体に薄く分散させる」
深月の森の気配が、遠くで揺れた。
止めようとしない。ただ、静かに見ている。
「《混沌加護》」
英の周囲に、黒と銀の紋様が広がる。
秩序の枠組みを一度外し、
現実と夢の境界を、あえて曖昧にする危険な呪文。
「《存在の鎖》」
次に、無数の鎖が、視界の中に現れる。
鎖は、逢瀬学園の校舎へ。
沈み口モールへ。
黒塚の祠へ。
住宅街の電信柱へ。
コンビニのレジへ。
安生道場の柱へ。
四十九囲区のあらゆる「拠り所」に、一本一本繋がっていく。
(山の夢を、街の“器”に分けて流す。
どこかひとつが壊れるんじゃなく、みんなで少しずつ歪んで――
それでも、日常として続くように)
英は、自分自身も、その鎖のひとつに組み込んだ。
深月の森から伸びる回線。
イタクァの風の道。
ア=ダタ・ラフの肺の管。
それらを、自分の体を通して一時的に束ねる。
身体が、悲鳴を上げた。
血が、熱い。
骨が、軋む。
皮膚の下で、何か異物が蠢いている。
(ああ――これは、“人でなくなる危険”だ)
英は、ほんの一瞬だけ笑った。
(ボク、ちゃんと勇吾に言ったんだよね。“そういう危険もある”って)
だったら、この選択は、自分で引き受けるべきだ。
「……勇吾」
英は、目を閉じたまま呼びかけた。
「見てて。
これが、ボクたちの街」
夢圧が、爆発した。
◆ ◆ ◆
山頂の現実世界では、
突然の衝撃に地面が跳ね上がり、
勇吾は踏ん張りきれずに膝をついた。
空が、一瞬だけ白く塗りつぶされる。
火山灰――ではない。
夢の破片だ。
光と影と記憶の断片が、雪のように降り注いだ。
教室の黒板。
商店街のシャッター。
祭りの提灯。
カラオケボックスのネオン。
それらが一瞬だけ山頂に現れ、すぐに消える。
勇吾が顔を上げたとき、
儀式陣も、黒い柱も、山伏も、魔術師も――
形を保てずに崩れ落ちていた。
彼らは、生きているのか死んでいるのか判別しがたい姿で倒れている。
ただ、これ以上儀式を続ける力は、完全に失われていた。
そして、その中心に。
「英」
勇吾の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
儀式陣の中央――さっきまで英が立っていた場所に、
彼の身体が、まるで寝るように横たわっていた。
目は閉じている。
呼吸は、ない。
勇吾は駆け寄り、その肩を揺さぶった。
「英。起きろ」
返事はない。
ただ――触れた指先に、妙な感触があった。
英の肌は、異様に冷たく、
硬くなりかけている。
ひび割れた陶器のように。
勇吾が息を呑んだ瞬間、
英の頬に、小さな裂け目が走った。
そこから、黒い煙と、銀色の光の粉が、ふわりと漏れ出す。
「……あ」
勇吾の喉から、声にならない音が漏れた。
ひびは、頬から首へ、胸へと広がっていく。
英の身体は、ひとつの“器”として限界を迎えていた。
深月の森と、イタクァの風と、ア=ダタ・ラフの夢――
そのすべてを一時的に通した代償。
「やめろ」
勇吾は、その崩壊を、手で押さえつけようとした。
だが、指先に触れた欠片は、
あまりにも脆く、繊細だった。
触れた瞬間、黒いガラス片のように砕け、
夜風に溶けて消えていく。
「英」
呼びかけても、返事はない。
けれど――最後のひびが走ったとき。
英の唇が、ごくわずかに動いた。
かすれた声。
もはや空気を震わせることさえ出来ないほど弱い、残響。
それでも、勇吾にははっきりと聞こえた。
『――七日』
英の声。
『七日、待ってて』
その瞬間、英の身体は完全に砕けた。
黒い肺胞の吐息のような煙と、
銀色の光の粉となって、夜空へと散っていく。
勇吾は、その中心に残った「空白」を、
どうすることも出来ずに抱きしめた。
山の呼吸は、さっきまでの荒々しさを失い、
静かな寝息へと戻りつつあった。
遠く、四十九囲区の街の灯りが揺れる。
誰も、今起きたことを知らない。
ただ、今夜の夢が、いつもと少し違うことだけは、
明日の朝、彼らの胸に微かな余韻として残るだろう。
勇吾は、膝をついたまま、空を見上げた。
星の見えない、黒い夜空。
そこを、ひとすじの風が渡っていく。
その風の中に、英の気配が、ほんの一瞬だけ混じった気がした。
「……英」
勇吾は、握りしめた拳をゆっくりと開いた。
手のひらには、黒い欠片がひとつだけ残っていた。
ガラスとも石ともつかない、小さな破片。
そこには、四十九囲区の地図のような模様が刻まれている。
勇吾は、それを大切にポケットにしまった。
「七日だな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「七日待つ。
その間、ボクは――人として、お前の帰りを待つ」
山の上空を、また風が吹き抜けた。
安達太良山――ア=ダタ・ラフの胸郭は、
今は静かに、深く眠っている。