君のAnswer
門を越えた私は、三森家の中庭へ戻っていた。
門を通るたびに魔力を消耗するせいか、一緒にくぐった犬はぐったりと地面に伏せている。
出血多量で立つことすらままならないのに、それでも彼は、最後の最後まで東さんを助けようと、死力を振り絞ってくれたのだ。
宇宙の真理だとか、七十万年前の王国だとか、そんなものに比べれば――きっと、彼の行動なんて“ささやかな異常”に過ぎないのかもしれない。
けれど、それでも。
私は、彼と、東さんを、どうしようもなく愛しく思った。
地球の生命として生まれ、この星で育ち、心を得たことが、今は心から誇らしい。
「君は……三森助教授の娘さんだね?」
声に顔を上げると、見知らぬ男の人が立っていた。
彼も足を震わせながら、それでもしっかりと踏ん張って、低く唸り始めた犬の様子をじっと見ている。
「私は伊集院貴也。助教授にはずいぶん世話になってね……その友人だよ。
彼が事件に巻き込まれていると気づいて駆けつけたんだが……東くんは?」
背の高い男の人は、私がひとりでいるのを見て、訝しむように眉をひそめた。
整った顔立ち。綺麗すぎて、少し怖いくらいの美貌――たぶん、世間ではそういうのを「秀麗眉目」って呼ぶのだろう。
でも、その顔に見とれている場合じゃない。
私ははっとして、門の「基点」になっている庭石の紋様に目を向けた。
私の視線の先で、紋様がゆらりと燃え上がる。
それは最初こそ小さな炎だったけれど、間違いなくクトゥグァのもたらした神話の炎だ。
このまま放っておけば、あっという間に周囲の木々を呑み込み、岩さえ焼き尽くすだろう。
けれど――そんなことは、今はどうでもいい。
「……かえって……こられなく……なる……?」
門はまだ残っている。
まだ、門を通って行き来すること自体は可能だ。
ただ、その向こう側には、超高温の炎。
人間なんて、一瞬で灰になる。
――知らない。
知らない。そんなこと、知らない。
一緒に帰るって、言ってくれたから。
東さんは、帰ってくる。
私が呟いた声に反応したのか、伊集院と名乗った男は、赤熱した庭石へと迷いなく歩み寄った。岩はすでに真っ赤に輝き、近づくだけで皮膚が焼けるような熱を放っているというのに。
彼は鋭い犬歯で自分の指を噛み切り、溢れた血でさらさらと紋様を書き始めた。
普通の血なら蒸発してしまうはずなのに、その赤は消えることなく、逆にほのかに発光していく。
続けて、庭石の周囲に手早く魔方陣を描いていく。
紋様が完成した瞬間、赤熱した岩からの輻射熱が嘘のように静まり、熱が“封じられた”のが肌でわかった。
「今なら、まだ間に合う」
彼は庭石から視線を離さずに言った。
「私はまだ手が離せない。東くんを助けたいなら――」
最後まで聞く必要なんて、なかった。
私を助けにきてくれた人。
その人を助けに行けるのが、私以外の誰だというのだ。
真っ赤に染まった庭石へ手を伸ばし、私はもう一度、門をくぐった。
はやく。はやく。少しでも早く。
視界が歪む中、横を見ると、さっきまでぐったりしていたはずの犬も一緒についてきている。
「あなたも東さんを助けたいの?」
問うと、彼は短く吠えた。
当然だ、とでも言うかのように。
* * *
視界が、赤い。
赤く、赤く、どこまでも炎の色で染まっている。
声が聞こえた。
――幻聴だろうか。聞こえるはずのない声だ。
「東さん! 東さん!!」
腕を掴まれる感触。
驚いて顔を向けると、真っ赤な世界の中、小柄な少女が立っていた。長い髪をおさげに編み、利発そうな瞳をした――三森玲子。
「……どうして、ここに……?」
ぱん、と頬を叩かれた。
本来なら、かなりの痛みが走るはずの一撃だった。
でも不思議と、ほとんど痛みを感じない。
「一緒に帰ろうって言ったじゃない! どうして……どうしてひとりで残ろうとするの!?」
泣いている。
真っ赤な世界の中で、涙をこぼして泣いている。
「東さんが帰らないなら、わたしもここにいる!
東さんは、わたしを助けに来てくれたんでしょ!?
わたしを助けたいなら――帰って! わたしたちと、一緒に帰って!!」
犬も一緒に、オレの帰りを待っていた。
この真っ赤な世界、この炎の前で、逃げることなく。
「……怖くなんかない。
わたしたちを助けに来てくれた人が死んでしまうことに比べたら、
あんな炎、怖くなんか……ない……」
震えながら、それでも差し出された彼女の手。
どうしてだろう。胸が詰まる。
さっきまで焼き尽くされる痛みしかなかった世界に、その涙だけが、ひどく冷たく、鋭く、オレの心を刺した。
犬がオレの頬を舐める。
「早く帰ろう」と言っているように。
人外の優しさ。どうして、こんなにも、心に沁みるのか。
「……あぁ、帰ろう。オレたちの世界に――」
オレは玲子の手を取った。
* * *
私たちが三度、門を越えた瞬間、背後の門から「ドンッ!」という大音響とともに、巨大な火柱が天へと突き上がった。数十メートルはあろうかという炎の柱だ。
クトゥグァの炎なら、本来なら家ごと街ごと一瞬で焼き尽くすはずなのに、不思議なことに、周囲の草木には焦げ跡ひとつ残らない。
――きっと、伊集院さんが何かをしたのだろう。
「……やれやれ、ずいぶん無茶をしたものだ」
ため息まじりの声が聞こえた。
燃え上がる火柱を背に、彼に向き直る。けれど、彼は私ではなく、地面にへたり込んだ東さんに歩み寄った。
「君は、彼女を助けた。
名も顔も知らない相手を、ただ『助けて』というメッセージだけで――
自分の命どころか、魂さえ危険に晒して、助けに行った。……どうしてだい?」
問いかけに、東さんは苦しげな息をこぼしながら、それでもしっかりと視線を上げた。
「助けてって声が聞こえて……オレは、その力になりたいって……それだけです」
(助けを求めること。その声に応えること。それは、決して変わってはならない心実だから)
その答えを聞いた瞬間、伊集院さんは静かに微笑んだ。
雪を割る春風のような笑み。
長い長い放浪の末に、ようやく懐かしい友に再会したかのような笑み。
「……また、苦労の種が増えたな」
口ではそう言いながらも、少しも困っているようには見えない。
彼はひょいと東さんを抱き上げた。
どこへ連れていくつもりなのだろう。東さんの怪我を思って、私はつい、咎めるような視線を向ける。
「そんなに睨まないでくれ。彼には治療が必要だ。
ああ、言うまでもなく君のお父さんも無事だよ。一緒に来るかい?」
「お父さんが……無事……?」
なら、小西さんはお父さんにも何かを仕掛けていたのだろう。
考えてみれば当然だ。あの人にとってお父さんの論文は、きっと都合の悪いものだったはずだから。
「……それとね」
伊集院さんは、私の方に視線を向けた。
「あの三流魔術師に、何か吹き込まれたかもしれないけれど――気にすることはない。
君が思うより、この世界には“異能の血”がそこら中に生きている。
この私にしても、君とは別系統の“異能の血”を持つ者だ」
そこで言葉を切り、柔らかな声で続けた。
「けれど、それがどうした?
私には、そんなものを笑い飛ばして『友人だ』と言ってくれる奴がいる。
君も、それを得た。
どんな血が流れていようとも――
共にいてくれる友人がいてくれるなら、何の問題も無いと思わないか?」
その言葉で、私はようやく気づく。
彼もまた、私と同じように悩み、迷い、そして……東さんのような人に、手を差し伸べられたことがあるのだろうと。
だから、あんなに嬉しそうに笑ったのだ。
伊集院さんが呪文を唱え、門がもう一度、静かに開く。
私は犬くんの頭を撫でてから、そっと抱き上げた。大型犬の身体はずっしりと重く、足元が少しふらつく。
――さすがに、犬くんにとって四度目の門の通過はきついだろうな。
そう思いつつも、私は彼をしっかり抱き締めたまま、伊集院さんと共に、光の向こう側へと歩き出した。