/*/ボクがボクに戻るまで/*/
◆ 英の七日間・深月の森◆
最初に壊れたのは、「上下」だった。
落ちているのか、浮かんでいるのか分からない。
冷たいのか、熱いのかも分からない。
ただ、自分という形が、いくつもの欠片になって、
ばらばらにほどけていく感覚だけがあった。
(あー……やっちゃったな)
妙に他人事みたいに、ボクは思った。
骨が砕ける感触はない。
肉が裂ける痛みもない。
代わりにあるのは――
ノートPCを分解して、中身を一個一個テーブルに並べているような、
そんな几帳面な「バラし方」だった。
記憶の基板。
感情のコンデンサ。
魔術回路の配線。
そして、「氷室英」というラベルが貼られた、ちょっと古いケース。
全部、テーブルの上に並べられて、
誰かが指先で一つずつ撫でている。
『……よく、ここまで持たせたね』
声がした。
女の人の声。
けれど、人間の言葉というよりは、
森に風が通り抜けるときの音を、一瞬だけ「意味」にしたような響き。
「深月さま?」
口があるかどうかも怪しい身体で、ボクはなんとか返事をする。
視界が、少しずつ色を取り戻していく。
そこは森だった。
夜の森。
けれど、星も月もない。
代わりに、木々の枝に、無数の「目」が揺れていた。
灯りでもあり、視線でもあり、
どれもがボクのことを見ているようで、見ていない。
地面の苔は、心電図みたいに脈打っている。
木の幹には、どこかで見た街灯や電柱の影が、薄く貼り付いていた。
ここが――深月の森。
ボクがHP0になったとき、七日七晩かけて再構築される場所。
『おかえり、英』
風が優しく揺れて、
木々の間から、ふわりと白い姿が現れた。
白いドレスとも、霧ともつかない輪郭。
顔ははっきりしないのに、微笑んでいるのだけは分かる。
深月。
ボクに「無限供給」を与え、死の向こうで再び形を与えてくれる存在。
「ただいま、深月さま。
また、ちょっと派手にやらかしました」
『知ってるよ。
ボクたちの線をまとめて、自分の中に通そうとしたでしょ』
深月は、楽しそうに笑った。
『深月の森と、イタクァの風と、ア=ダタ・ラフの肺。
あれ、普通は一本の身体で扱うものじゃないよ?』
「やっぱり?」
『やっぱり』
笑い合いながらも、ボクの身体――らしきものは、まだ完全には戻っていない。
足元から順番に、枝と土と風で形が作られていく。
骨格が根のように伸び、
筋肉が蔦みたいにまとわりつき、
皮膚が薄い樹皮となって被さる。
その過程を、ボクは妙に冷静に眺めていた。
(これ、勇吾には見せたくないな)
ミネルヴァの実験室で見た再生槽より、ずっと有機的で、
ずっと「神話寄り」だ。
そのとき、不意に深月が問うた。
『ねぇ、英』
「はい?」
『君は――いつまで“人間側”に立つつもり?』
森のざわめきが、ぴたりと止まる。
さっきまで遠くで鳴いていた鳥の声も、
足元を走り回っていた小さなものたちの気配も、
ぜんぶ、一瞬だけ消えた。
深月の「目」だけが、ボクを見ている。
『君の構造は、もう半分くらい“こっち側”だよ。
死んでも戻れるし、
人間には扱えない回線も繋げるし。
――いっそ、完全にこちらに来ちゃえば?』
その誘い方は、とても柔らかかった。
脅しではなく、甘言でもなく。
ただ、「選択肢の一つですよ」と告げるような、
落ち着いたトーン。
ボクは少しだけ考えてから、苦笑した。
「魅力的なオファーではあるんですけど」
『でしょ?』
「でも、ボク、“ボクのクラスメイト”って呼べる人たち、まだ教室にいるんですよね」
安生4姉妹。
青見。
惣一郎。
彩女。
愛香。
そして――勇吾。
「黒板の前で居眠りしてる子とか、
昼休みに購買パン争奪戦してる子とか、
テスト前になって急にすり寄ってくる子とか。
ああいうのを、ボクは“クラスメイト”って呼びたいんです」
ボクは、左胸に手を置いた。
そこにはまだ、肉も骨も完成していない。
けれど、「二つめの心臓」の鼓動が、かすかに伝わってくる。
「勇吾は、ボクを“人として扱ってくれる”って言いました。
安生家も、青見たちも、
ボクのことを“ちょっと変わったクラスメイト”くらいで受け止めてくれる」
『……それは、誇張じゃない?』
「少しは。
でも、ボクにはそれが、すごく大事なんです」
深月は、ふぅん、と首を傾げた。
『君は、こっち側に来た方が楽になれるのに』
「楽になりたくて魔術やってるわけじゃないですから」
ボクは笑って言った。
「ボクが“ボクのクラスメイト”って呼べるものたちがいる間は、
ボクは人間側に立ちます。
そのために、深月さまから“無限供給”もらってるんですから」
『やれやれ』
深月は両手を広げて、降参のジェスチャーをした。
『ほんと、君の師匠たちの弟子って感じだね。
深月返歌も、謙吾も、あのへんも、
だいたい似たようなこと言ってた』
「光栄です」
『じゃあ――“人間としての氷室英”の再構築、続けようか』
森の空気が、再び動き出す。
バラバラだった部品たちが、
今度は「人間」というフォーマットに沿って組み上げられていく。
ただし――完全に同じではない。
深月は一本の枝をつまみ上げて、ボクの胸に差し込んだ。
『これは、新しい“ゆらぎ”』
胸の奥で、風が渦を巻く。
魔力の流れが、以前よりも滑らかに、しかし不規則に揺れるようになった。
『ア=ダタ・ラフの夢を通したせいで、
君の中に“山冠のリズム”が少し残ってる。
それを、完全に削ぎ落とすことも出来るけど……どうする?』
「残してください」
即答だった。
「ボクが何をやったか、忘れないために。
それと――山の呼吸が乱れたら、前より早く気付けるように」
『また、寝返りのたびに駆り出されるよ?』
「どうせ起こされますから。
だったら先に目覚まし時計をセットした方がマシです」
深月は、くすりと笑った。
『本当に、人間でいたいんだね』
「はい」
『じゃあ、その我儘、七日かけてちゃんと通してあげる』
深月の指先が、ボクの額に触れた。
『おやすみ、英。
次に目を開けるときは、また“教室”から始められるように』
「……はい」
ボクの意識は、そこでふっと落ちた。
森のざわめきが、遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、
深月の、どこか楽しそうな囁きだった。
『――君がどこまで“人間”でいられるか、楽しみにしてるよ』
◆ 勇吾の七日間◆
1日目。
山頂からの帰り道、勇吾は、英のコートだけを抱えて下山した。
救助隊に説明するための言葉が見つからなかった。
「一緒にいた子は?」
「……英は、ここにはいません」
「は?」
「7日後に戻ってくると、本人が言いました」
真顔でそう答える勇吾を、
救助隊員は「ショックで混乱している」と判断した。
安生道場に戻ったとき、
李と龍は何も訊かなかった。
ただ、勇吾が差し出した黒い欠片――
英の身体から最後に残った破片を見て、
李は深く目を細めた。
「7日だな」
「はい」
「よし。なら、その7日間、お前は“生きて待て”」
「生きて、待つ」
「死に急ぐな。
鍛錬は続けるが、“英を取り戻すため”じゃなく、
“英が戻ってきたとき胸を張れる自分でいるため”にだ」
勇吾は、その言葉に救われた。
ミネルヴァの施設では、
誰かが消えても、誰も「待つ」という選択肢を取らなかった。
補充される。
それで終わり。
ここでは――
七日という具体的な時間が与えられ、
「待つ」という行為に意味があると言われた。
2日目。
学校に行くと、英の席は空だった。
「氷室は?」
「体調不良でお休みだって」
担任の結先生は、そう説明した。
クラスの何人かは「珍しいな」とひそひそしていたが、
それ以上の詮索はしなかった。
青見は、休み時間に勇吾の席まで来て、
何も言わずに英のコートを撫でた。
彩女は、放課後、保健室の帰りにふと呟いた。
「……あのメガネの子いないと、なんか教室の空気、変ね」
「変?」
「静かなんだけど、静かすぎるっていうか。
なんか“見られてる感じ”が減った」
勇吾は、その表現に妙に納得した。
英の視線は、いつも柔らかくて、
でも、教室の隅々までちゃんと届いていたから。
3?5日目。
勇吾は、安生道場でいつも通り朝稽古をし、
学校に行き、授業を受け、放課後にまた稽古をした。
ただ、夜になると、
英の家の前まで行ってしまう。
明かりの消えた窓。
ポストには、チラシが何枚か溜まり始めていた。
家の前で立ち尽くす勇吾を、
近所の人が「彼氏さん?」と冷やかし半分に見ていく。
勇吾は、そのたびに困ったように首を傾げた。
(英は、ボクの“雇い主”であり、“主”であり、“クラスメイト”であり……)
言葉にしようとすると、定義が増えすぎてまとまらない。
ただひとつ確かなのは、
ミネルヴァとは違って、
「失って当然」と割り切れる関係ではない、ということ。
6日目の夜。
勇吾は、安生家の食卓で、箸を止めた。
梨花が、さりげなく訊く。
「食欲、落ちた?」
「体重は維持しています」
「そういう問題じゃないのよねぇ」
友香が苦笑し、
ユイリィとルテアが心配そうに顔を見合わせる。
龍が、ご飯茶碗を置いて言った。
「勇吾」
「はい」
「お前、また“誰かを喪う側になるのか”って顔をしておる」
その言葉は、勇吾の胸を正確に突いた。
ミネルヴァで、何人もの「同僚実験体」が消えていった。
指導研究員も、技術者も、ある日突然いなくなった。
そのたびに、誰かが言った。
――代わりはいくらでもいる。
――喪失は、前提条件だ。
――お前はそのために調整された。
勇吾は、拳を握りしめた。
「……ボクは、安生家を喪いたくありません。
英も、クラスメイトも、喪いたくありません」
「ならば」
李が、湯気の立つ味噌汁をすすりながら、静かに言った。
「“喪う”ことそのものから逃げるのではなく、
喪ったときにどう生きるかまで、決めておけ」
「どう、生きるか」
「英が戻らなかった場合のことも、
ちゃんと考えて、なお“それでも戻ると信じる”なら――
それは逃避ではなく、選択になる」
勇吾は、その夜、布団の中で、何度も同じ問いに向き合った。
英が戻らなかったら?
そのときボクは、
ミネルヴァの時のように「仕方ない」と諦めるのか。
それとも、
安生家や青見たちと一緒に、
“英のいない四十九囲区”で生きる方法を探すのか。
答えは、すぐには出なかった。
ただ――「どちらにしても生きる」という結論だけは、
ゆっくりと、胸の底に沈んでいった。
◆ 風の反転と、帰還◆
7日目の夜。
四十九囲区は、変な天気だった。
風が、逆向きに吹く。
いつも山から街へ流れてくる風が、
この夜だけは、街の路地から山の方へ吸い込まれていく。
電線に引っかかったビニール袋が、
いつもと逆方向に揺れた。
洗濯物が、家の内側に向かって膨らんだ。
犬が吠え、
猫が窓辺でじっと何かを見つめ、
子どもたちは一斉に変な夢から目を覚ました。
勇吾の胸の奥で、
“二つ目の心臓”が強く脈打つ。
「来る」
勇吾は布団を跳ね飛ばし、ジャージのまま外に飛び出した。
足が向かったのは――安生道場の裏手、
小さな空き地のような庭だった。
ここは、英と勇吾が最初に簡易契約を結んだ場所でもある。
夜空には星がない。
代わりに、風が渦を巻いていた。
空からではなく、地面から。
庭の中央、砂利の上で、
風の柱が逆流するように立ち上っていた。
その中に、細いシルエットがひとつ。
髪が、風に巻かれて宙に浮かんでいる。
三つ編みのはずの黒髪が、ほどけて渦の一部になっていた。
「英」
勇吾が名前を呼ぶと、
風の柱がふっとほどけた。
そこに、氷室英が立っていた。
制服でも、パジャマでもなく、
見慣れた私服――丈の長いカーディガンにスカート。
けれど、その足元はまだ少しおぼつかない。
勇吾は反射的に駆け寄り、英の肩を支えた。
「……勇吾」
英の声は、確かに聞き覚えのあるものだった。
ボクの――主の声。
ただ、その瞳の奥にある光が、
ほんの少しだけ、以前と違っていた。
黒の中に、赤が深く沈んでいる。
風の流れが、英の周囲で常に細かく揺れている。
「戻りました」
英は、いつものように、軽く笑った。
「七日、待っててくれてありがとう」
勇吾は、言葉を選ぶ時間もなく、
口から出てきたものをそのまま言った。
「ボクは、英が“戻らない可能性”を考えていませんでした」
英の目が、ぱちりと瞬く。
「それはそれで、信頼ってことで」
肩を支えられたまま、英は小さく笑う。
「でも、勇吾。
“戻らない可能性”をちゃんと考えた上で、
それでも待つっていうのが、本当は一番強いんだよ」
「……はい」
「だから、これからは、そういう待ち方をしてくれると、ボクとしても嬉しいかな」
英の手が、勇吾の胸元――“二つ目の心臓”のあたりに軽く触れた。
その指先は温かく、
確かに「生きている人間」のそれだった。
「言っとくけどね」
英は、少しだけ真面目な顔になる。
「ボク、前よりちょっと“人間じゃない方”に寄ったよ。
深月さまの森と、ア=ダタ・ラフの肺と、
イタクァの風のリズムが、今、ボクの中で同居してる」
「自覚は、あるのか」
「うん。
だから――」
英は、勇吾をまっすぐ見上げた。
「ねぇ勇吾。
ボクがもし、“人でなくなったら”。
そのときは、ちゃんとボクを止めてね」
風が、一瞬だけ止まった。
勇吾の喉が、ひくりと動く。
「“止める”とは」
「簡単に言うと、こういうこと」
英は、人差し指で自分の額を軽く突いた。
「炎上したサーバーをシャットダウンするみたいに。
暴走した魔術回路を、ブレーカー落とすみたいに。
――ボクが、自分で自分を“人間だ”って言えなくなったら、
人間としてのルールに従って、ここで終わらせてほしい」
言葉は穏やかだったが、その中身は恐ろしく重かった。
勇吾は、しばらく黙っていた。
ミネルヴァなら、
そういう「シャットダウン役」は、いつも上から自動的に割り当てられた。
ここでは――
英自身が、その役割を勇吾に預けようとしている。
「……はい」
やがて、勇吾は静かに頷いた。
「人としてのルールに従って、
ボクがあなたを殺します」
その言葉には、恐れも、迷いも、妙なところで抜けた冷静さも、
ぜんぶ混じっていた。
英は、満足そうに微笑んだ。
「ありがと。
じゃあ、その逆もお願い」
「逆?」
「勇吾が“人でなくなりそう”になったら。
ボクが止める。
今度はボクが、勇吾を“人として”殺す番」
「対称性を取るのか」
「対称性、大事」
英は人差し指を差し出し、
勇吾の指先に軽く触れさせた。
「これで、“互いの暴走のストッパーを引き受ける”契約、更新」
「正式な契約儀式としては、随分簡素だな」
「いいの。こういうのは、シンプルな方がよく効くから」
ふっと、道場の裏庭に風が戻ってきた。
さっきまで逆流していた風が、
静かに、いつもの方向へと流れ始める。
山から街へ。
街から人へ。
人から日常へ。
「さ、戻ろっか」
英は、自分の足で一歩踏み出してみせた。
まだ少しふらつくが、ちゃんと前に進んでいる。
「明日から、また“メガネの子と実験体のクラスメイトごっこ”だよ」
「ごっこではないと思うが」
「細かいことはいいの」
英の後ろ姿を見ながら、勇吾はポケットの中の黒い欠片に触れた。
それはもう、ただの石片になっていた。
夢と肺と森の残滓は、英と一緒に戻ってきたのだろう。
(七日間で、ボクたちは少し変わった)
勇吾は、自分の胸の奥に刻み込む。
(でも、“クラスメイト”であることは、変わっていない)
それだけは、何よりも確かなことだった。