/*/風と火が選ぶ“生活圏”の王/*/
◆ 観測者、名乗りを上げる◆
四十九囲区の夜景を、ひとつのディスプレイが丸呑みにしていた。
高台の、とあるビルの最上階。
廃墟同然のフロアに並べられたモニタ群のひとつに、
沈み口モール、逢瀬学園、黒塚、安達太良山の稜線が、同時に映し出されている。
「――準備は、だいたい整ったかな」
薄暗い部屋の中央に、椅子がひとつ。
そこに腰掛けている男は、年齢不詳だった。
ラフなパーカーにジーンズ。
だが、その目だけが、まるで古い顕微鏡のレンズみたいに、
四十九囲区の細部を執拗に追い続けている。
沈み口モールのバックヤードで、ガチャガチャを覗き込む氷室英。
夜の校舎で白いクジラを見上げる氷室英。
安達太良山で“死に”、深月の森から戻ってくる氷室英。
その全部を、彼はずっと見てきた。
「結界網、夢圧システム、山冠、森、風――」
男はモニタの前に立ち、指で画面上の街をなぞる。
「これだけの素材が揃っていて、“ただの生活圏”で終わらせるなんて。
ねぇ、氷室英くん。君は本気でそう思ってるの?」
モニタのひとつに、英の顔がアップで映る。
それはついさっき、安生道場の裏庭に帰還した直後の映像だ。
男は、その画面に向かって、にやりと笑った。
「そろそろ、直接お話ししようか。
――四十九囲区の“王”として」
◆ 勧誘◆
英はその夜、久々に自室のベッドで眠っていた。
深月の森のざわめきは、もう遠い。
代わりに、窓の外から聞こえる車の音と、
隣の家のテレビの笑い声が、心地よいノイズになっていた。
(帰ってきたなぁ)
薄く笑いながら、英は目を閉じ――
次に開いたとき、そこは見慣れない場所だった。
四十九囲区の夜景が、足元に広がっている。
高台でも、ビルの屋上でもない。
“高さ”そのものが曖昧な空間。
空には星の代わりに、結界線が幾何学模様を描いていた。
「やぁ、氷室英くん」
声の方を振り向くと、例の男が立っていた。
年齢不詳のパーカー男。
でも、その瞳だけは、嫌になるほど鮮明だ。
「初めまして、でいいのかな。
ボクは――そうだね、“四十九囲区の王”を名乗っている者だ」
「王ねぇ」
英は眼鏡を押し上げた。
「名乗りがだいぶ痛いけど、中身はそれなり、って感じかな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
男は肩をすくめる。
「君たちのやりとり、ずっと見せてもらっていたよ。
ガチャガチャの夢圧結晶。
安達太良山の寝返り。
深月の森での再構築。
いやぁ、すばらしい素材だ」
「盗撮魔が言うセリフじゃないね」
「観測者と言ってくれ。
ボクはただ、この街の“可能性”を見ていただけだ」
男は足元の夜景を見下ろした。
「四十九囲区の結界網と夢圧システムを、
都市規模の魔術装置として再構成する。
外なる神々への“ゲート”としての街。
あるいは、このボク自身の“擬似的な神核”としての街」
その声は、どこか酔っていた。
自分の構想そのものに。
「そろそろ、君にも参加してほしくてね」
「――参加?」
「君ほどの能力があれば、“ただの生活圏”なんかに縛られなくてもいいだろう?」
男の目が、英に向けられた。
「君はもう、人間より“上”にいる。
ボクよりも、深月よりも、ア=ダタ・ラフに近い場所に立っている」
英の胸が、わずかに反応する。
深月の森。
安達太良山の肺。
イタクァの風。
確かに、彼はすでに“人の側”だけではない場所に立っていた。
「君が恐れている“人でなくなる未来”をさ――」
男の声が、英の内側に入り込んでくる。
「いっそ自分で選んでしまえばいいんじゃないか?」
「…………」
英は、笑わなかった。
否定も、肯定もしなかった。
男は、それを“手応え”と受け取ったらしい。
「君は死ぬたびに、深月の森で再構築される。
クラスメイトたちの時間だけが一方向に進む中で、
君だけが“リセット”を繰り返す可能性がある」
英の目が、一瞬だけ揺らぐ。
「同じ二年C組の教室。同じ黒板。同じ席。
でも、周りの顔ぶれは少しずつ変わる。
君だけが、“ボクはボクです”って言いながら、
世代も時間も跨いでいく」
男は微笑んだ。
「それ、本当に“幸せ”かな?」
図星だった。
英は、深月の森で再構築されるたびに、
どこかでその恐怖を噛み殺してきた。
(ボクは、どこまで行っても“同じボク”でいられるのか?)
死のたびに増えていく記憶。
繋ぎ直される回線。
ゆっくりと変質していく魔力の揺らぎ。
「君ほどの存在なら、
“人でなくなる未来”を、他人に強いられる必要はない。
自分で、“上”に行く日を選べばいい」
男は、英の肩に手を置こうと――したところで、
英は一歩だけ下がった。
「……ボクに触らないで」
声は静かだったが、風がひとつ逆立った。
男は、肩をすくめる。
「考えておいてくれればいい。
どうせすぐに、決断のときは来る」
足元の夜景が、揺れ始める。
結界線が、いつもと違うリズムで光り出す。
四十九囲区全体が、ひとつの巨大な魔法陣に組み替えられていく。
「――儀式を始めるよ、氷室英」
男は、自分の胸に手を当てた。
「ボクはボクにふさわしい“王の器”をもらう。
君は、その時どちら側に立つか、よく見ておくといい」
世界が反転し、英はベッドの上で目を覚ました。
汗びっしょりになったパジャマ。
いやな息苦しさ。
「……最悪の目覚ましだなぁ、もう」
◆ 兵器か、人か◆
同じ頃、別の場所で。
火鳥勇吾は、沈み口モールの屋上に立っていた。
雨上がりの夜。
遠く、安達太良山の上に雲がかかっている。
「やぁ、“実験体”くん」
背後から声がした。
振り返ると、そこにあの男がいた。
風も足音もなく現れたように見えるが、
勇吾には、さっきまで空気の流れの中に潜んでいたのが分かった。
「あなたが、英の言っていた“王”か」
「そうだね。
キミの“旧雇用主”と似たようなことを考えている者だよ」
男は、勇吾の身体を頭からつま先まで、興味深そうに眺めた。
「よく仕上がっている。
ミネルヴァの調整も、安生道場の鍛錬も、
とても美しく噛み合っている。
――だからこそ、惜しい」
「惜しい?」
「キミは兵器として再利用される運命だ。
“生活圏”なぞという小さな舞台に縛っておくのは、
世界規模のリソース浪費だよ」
勇吾の胸が、わずかにきしむ。
ミネルヴァの研究員たちも、似たようなことを言っていた。
――きみの身体は、人間のためだけに使うには惜しい。
――もっと大きな理想のために燃やされるべきだ。
「兵器として死ねば、キミの“意味”は完結する。
人のために生きて、人のために死ぬ?
そんな曖昧な終わり方より、
“計画の完遂とともに爆散しました”の方が、
ずっと分かりやすいじゃないか」
勇吾は、しばらく黙っていた。
男の言葉は、ある意味で筋が通っていた。
効率だけを見れば、そうなのかもしれない。
だが――
「あなたは、ミネルヴァの人間より、話が雑だ」
勇吾は、静かに言った。
「雑?」
「ミネルヴァの研究者たちは、まだ“実験体としてのボク”を丁寧に扱いました。
あなたは、“兵器としてのボク”にすら敬意がない」
男の目が、わずかに細くなる。
「ボクは――」
勇吾は、はっきりと言葉にした。
「“兵器として死ぬ”のではなく、“人として役目を終えたい”」
「人として、ね」
「はい。
英が、ボクを“従者”と呼ぶ前に、
“クラスメイト”と呼んでくれました。
安生家は、ボクを“内弟子”として迎えてくれました。
ミネルヴァの“製品番号”ではなく、“火鳥勇吾”として」
勇吾は、男をまっすぐ見た。
「その人たちの隣で生きて、
その人たちのために殴って走って、
最後は“人として終わる”。
ボクは、そのために鍛えています」
「愚かだね」
「ええ。
でも――」
勇吾は、口元だけで笑った。
「ボクは、その“愚かさ”が、英や安生家とよく噛み合うと知っています」
男は、しばらく勇吾を見つめ、それから興味を失ったように腕を広げた。
「いいさ。
君がどちらに転ぶかも、儀式の結果の一部に過ぎない」
夜風が、突然重くなった。
地面から、結界線が浮き上がる。
沈み口モールのネオンが、魔法陣のルーンに変わっていく。
「さぁ、幕を開けよう。
――四十九囲区の“本当の姿”を」
◆ 多層結界化する街◆
その夜、四十九囲区は、静かに裏返った。
安達太良山の頂上から吹き下ろす風。
黒塚の祠に蓄えられた古い祈り。
深月の森に繋がる夢の根。
沈み口モールの地下に溜まった“現代の欲望”。
それらが一斉に、別のリズムで呼吸を始める。
空には、肉眼でも分かるほどの光の網が広がった。
交差する線が、街をいくつもの層に分割する。
最下層――現実の街。
その上に、夢圧の街。
さらに上に、神話的な街。
三層が互いにずれながら重なり合い、
四十九囲区は、巨大な結界装置そのものと化していく。
「……やってくれるね」
英は、逢瀬学園の屋上に立っていた。
風は強い。でも、乱れてはいない。
黒板消しの粉の匂いも、グラウンドの土の匂いも、ちゃんと残っている。
(まだ、“生活圏”だ)
そのことが、妙に嬉しかった。
だが、喜んでばかりもいられない。
空の結界線が、一点に収束し始めていた。
その焦点は――四十九囲区の中心、沈み口モールの真上だ。
「勇吾」
英が呼ぶより早く、
火鳥勇吾はすでに走り出していた。
安生道場を飛び出し、
住宅街を抜け、
沈み口モールへと突っ込んでいく。
街のあちこちで、異形の影が立ち上がる。
黒塚の鬼の輪郭。
安達太良の白いクジラの残骸。
夢圧結晶からこぼれた“願いの屑”。
それらが、黒幕の儀式によって形を与えられ、
護衛の召喚獣としてモール周辺に集結していた。
「勇吾!」
英の声が、風に乗って届く。
「前は任せる! ボクは上から構造をぶっ壊す!」
「了解!」
勇吾は、躊躇なく突っ込んだ。
◆ 火の前衛◆
沈み口モール前のロータリーは、すでに別世界だった。
アスファルトがひび割れ、
その隙間から黒い煙が立ち上る。
煙の中から、手足を持った影が這い出す。
人とも獣ともつかない、夢と伝承の混合物。
「前衛掃除、開始」
勇吾は、拳を握った。
殴る、蹴る、踏み砕く。
その動きは、安生道場で磨いた型そのものだ。
ただひとつ違うのは――
拳が触れた瞬間、相手の“構造”に火が走ること。
「燃焼効率、65%……もう少し上げられるな」
勇吾の中で、ミネルヴァ時代に叩き込まれた“運用思考”が顔を出す。
だが、その上から、安生家の声がかぶさる。
――壊すんじゃなく、“止める”ための力だ。
――相手の骨と関節を見ろ。
――生きて帰ることも含めて、技の完成だ。
「了解。無駄撃ち、減らす」
勇吾は、いつものように淡々と言った。
飛びかかってきた黒い影の顎に、正確なアッパーを叩き込む。
それだけで、内部から火花が散り、
影は崩れ落ちて地面に吸い込まれた。
次に、クジラのような白い残骸が突進してくる。
勇吾は、その額――“夢の核”が集まっている部分を見抜き、
跳び蹴りを突き立てた。
衝撃と同時に、白い影の内部で爆炎が花開く。
「……悪いが、これは英の仕事の後片付けだ。
ボクの主人の仕事を、勝手に流用しないでほしい」
モールの階段を駆け上がりながら、勇吾は呟いた。
ガラス張りのエントランスの向こうには、
既に現実のテナントは見えず、
巨大な儀式陣の一部が浮かび上がっていた。
◆ 風の制御◆
一方その頃、英は空中にいた。
逢瀬学園の屋上から跳び上がり、
イタクァの風に乗って沈み口モール上空へ。
四十九囲区全体の結界網が、頭上で回転している。
「呪文合成、呪文増強、高速詠唱、魔力反射。
――フル回転、いってみよっか」
英は、眼鏡の奥で目を細めた。
黒幕が起動した儀式は、複合魔術の塊だった。
ア=ダタ・ラフの呼吸を主軸に、
深月の森から伸びる夢の根をフックにして、
イタクァの風で都市の境界線をなぞる。
そこに、黒幕自身の「自己神格化」プログラムが乗っかっている。
(やりたいことは分かるけど――)
英は、指先で空中に円を描いた。
「――制御甘すぎ」
彼はまず、《魔力感知》《自然元素制御》で、
儀式の流れを丸ごと視覚化する。
空に描かれた巨大な回路図。
そのノードのいくつかを、英は指で弾いた。
風の経路が変わる。
黒幕が使おうとしていた“ゲートの入り口”が、ほんの少しずつズレていく。
「ボクの生活圏を勝手に“外なる神様の玄関”にしないでくれる?」
英は、《呪文合成》を発動した。
《呪文増強》103%。
《射程拡大》94%。
《効果持続》93%。
《呪文合成》210%。
《高速詠唱》160%。
月魔術の補正が、英の詠唱を後押しする。
「《風の刃》《存在の鎖》《魔力反射》――まとめてひとくち」
空中で、三つの呪文が同時に発動する。
結界線を走る風そのものが刃に変わり、
儀式陣の余計なラインを切り刻む。
切り刻まれた魔力が、鎖となって黒幕の元へ逆流しようとするが、
《魔力反射》がその方向をさらにねじ曲げる。
結果、黒幕が用意していた“神への回路”は、
黒幕自身と、その足元の儀式構造物へと接続され直した。
「自分で撒いたタネは、自分で食べてね」
英は、微妙なバランスの上でそれを制御していた。
少しでも力を入れすぎれば、
儀式は暴走して四十九囲区そのものを吹き飛ばす。
逆に手を抜けば、
黒幕が“王の器”として成り上がる。
(ギリギリのラインで、“自分ごと呑み込ませる”)
英は、歯を食いしばった。
(ボクの無限供給があるから、今はまだ持つけど――)
胸の奥で、深月の森と繋がる回線が唸っている。
このままでは、黒幕の儀式は、
英の「無限供給」まで取り込もうとしてくるだろう。
(この街を、ボクごと“外側”に持って行くつもりか)
黒幕の笑い声が、風に混じって聞こえた。
「来いよ、氷室英。
君ごと四十九囲区を“上書き”してやる。
ボクの“王国”としてね」
◆ 選択◆
英は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
深月の森のざわめきが、すぐそこにある。
“無限供給”の回路が、全開で開いている感覚。
(このままなら、ボクは確かに“上”に行ける)
深月の森の住人として。
ア=ダタ・ラフの肺の一部として。
イタクァの風の分流として。
そして、四十九囲区は、“外なる神々のゲート”になる。
(それは、楽なんだろうな)
死の恐怖も、リセットの恐怖も、
全部“構造の一部”に溶けてしまう。
でも――
「……ボクは、楽になりたくて魔術やってるわけじゃない」
英は、自分で自分に言い聞かせるように呟いた。
胸の奥に、勇吾の声が蘇る。
――ボクは“兵器として死ぬ”のではなく、“人として役目を終えたい”。
(そうだね。
ボクも、“魔術師として”じゃなくて、“高校生として”終わりたいんだ)
教室。
昼休み。
安生4姉妹のカフェテリア。
青見の真剣な顔。
惣一郎の馬鹿話。
彩女の笑い声。
愛香のエプロン姿。
その全部が、英にとっての“生活圏”だった。
「――深月さま」
英は、内側に向けて呼びかける。
「ボクの“無限供給”、一回切ります」
森の向こうから、深月の笑い声が聞こえた気がした。
『本当に? それ、君にとっては“死のリスク”が跳ね上がるよ』
「知ってます。
でも――」
英は、空中で姿勢を正した。
「ボクは、“クラスメイトとケーキ食べて笑ってるバカな高校生”でいたい」
黒幕の怒号が、遠くで響いた。
「そんなのは愚か者の選択だ!」
「ボクは愚か者でいいよ」
英は、胸の前で指を組む。
「ボクの魔術は、“生活圏のための道具”で十分。
深月さまからの供給も、四十九囲区を守るために必要な最低限だけでいい」
イメージする。
太すぎるパイプを、ひとつひとつバルブで絞っていく。
深月の森からの回線。
ア=ダタ・ラフの肺からの回線。
イタクァの風からの回線。
それらを、すべて“必要最低限”の太さにまで絞る。
「《存在の鎖》――再調整」
英の周囲に広がっていた鎖が、一斉にきしんだ。
四十九囲区のあちこちに繋がっていた鎖も、
余計な“外部回線”を切り落としていく。
結果、黒幕の儀式に供給されていた“無限の余地”が、
一気に細っていった。
エネルギー不足。
設計の前提が崩れた儀式は、即座にバグを起こす。
「なっ――」
沈み口モールの屋上で、黒幕が呻いた。
足元の魔法陣が、予定外のパターンでひび割れていく。
ア=ダタ・ラフの呼吸ラインが、
黒幕の足元でループ状に閉じてしまった。
「やめ――」
叫ぶより早く、儀式は“自分自身”を食べ始めた。
黒幕の身体が、光の粒に分解されていく。
ただし、それは完全な消滅ではない。
英が意図的に、《混沌加護》を途中で絞ったからだ。
「ボクの街に、変な穴を開けようとした罰だよ」
英の声が、風に乗って黒幕に届く。
「完全消滅じゃなく、
“端末”として生き残ってもらう」
「やめろ、それだけは――」
黒幕の叫びが途切れた。
彼の意識は、四十九囲区の結界網のどこかに封じ込められた。
“王”になるはずだった男は、
今や、ただの監視端末。
四十九囲区の内部から外部への干渉を防ぐ、
“防犯カメラ”のひとつとして、
半ば無意識に、異常の芽を監視し続ける存在に変えられた。
「これで、少しは反省してくれるといいけど」
英は、息を吐いた。
◆ ストッパー◆
儀式が崩壊し始めたとき、
勇吾は沈み口モールのエスカレーターで立ち止まった。
足元の床が、現実のタイルに戻っていく。
異形の影たちは、
夢の屑へと解けて消えた。
「終わったか」
屋上から降りてくる風の中に、英の気配があった。
モールの外に出ると、
英がふらふらと降りてくるところだった。
以前より少し、
魔力の「厚み」が薄くなっているのが分かる。
「……ただいま」
英は、苦笑いしながら手を振った。
「ボクの“王様ごっこ”は、ここまでにしとくよ」
「最初から王様ではなかったと思うが」
「せめて“クラス委員”くらいにはなりたいんだけどねぇ」
そんな冗談を言えるくらいには、まだ余裕があるらしい。
勇吾は、英の前に立ち、深く息を吸った。
「英」
「なに?」
「さっき、あなたが“人でなくなる未来”を拒否したのは、
ボクにも感じ取れました」
「うん。
勇吾の“二つ目の心臓”経由で、いろいろバレてるよね」
「英が“人でなくなる”と言うのなら――」
勇吾は、一拍置いて続けた。
「ボクは従者としてではなく、“友人として”止めます」
英の目が、ぱちりと瞬いた。
「従者は、主の命令に従って主を殺す。
友人は、自分の判断で友を止める。
ボクは、その違いが、今なら分かります」
英の口元が、ゆっくりと笑みに変わっていく。
「……そういうこと言うから、ボク、ますます“人間側”にいたくなるんだよね」
「それは、困りますか」
「ううん。
すごく、嬉しい」
英は、いつかと同じように、人差し指を差し出した。
「契約、更新しよ」
勇吾も指先を差し出す。
「互いの暴走のストッパーとして?」
「そう。
ボクが人でなくなりそうになったら、勇吾が友人として止める。
勇吾が人でなくなりそうになったら、ボクが“クラスメイトとして”ぶん殴る」
「了解した」
指先が触れ合った瞬間、
四十九囲区の結界網が、静かに落ち着いた。
安達太良山の呼吸は穏やかに。
深月の森のざわめきは、遠く心地よく。
イタクァの風は、校舎の窓からいつものように入り込む。
街は、多層結界のまま。
ただし、その層は以前よりも安定して重なり、
“生活圏”としての顔を一番上に保っていた。
◆ エピローグ◆
数日後、逢瀬学園2年C組。
いつもの昼休み。
教室の窓の外には、穏やかな風紋が見える。
「はいはーい、本日のケーキタイムのお供は~、
氷室パティスリー特製・風味豊かなシフォンケーキだよ~」
教室に、甘い匂いが広がる。
英がタッパーを抱えて現れ、
安生4姉妹と、青見、惣一郎、彩女、愛香の机を次々と回っていく。
「ほんとに自分で作った?」「店に出せるレベルでは?」「甘さ控えめで美味しい……!」
わいわいと盛り上がる声を聞きながら、
勇吾は窓際の席で、その光景を眺めていた。
英は、ふとこちらを振り向き、
小さくピースサインを送ってくる。
勇吾は、同じように指を二本立てた。
(ボクたちは、王にはならない)
火と風は、そう決めた。
(四十九囲区の“王”は――
ここで笑ってる、ケーキ食ってる、バカな高校生たちでいい)
窓の外では、
目に見えない多層結界が、今日も静かに街を包んでいる。
その上を、安達太良山からの風が渡り、
深月の森の夢が薄く揺れ、
イタクァの気まぐれな流れがときどき悪戯をする。
それでも四十九囲区は、
今日も“生活圏”として回っていた。