なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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安生ルテア:ルビーの指輪:ホラー
ルビーの指輪


 

 

/*/ 夜の洗面所・赤い点 /*/

 

 

 その夜、安生家は、いつもより少しだけ静かだった。

 

 道場での夜稽古も終わり、李も龍も胆も、すでにそれぞれの部屋に引き上げている。

 四姉妹の部屋からは、かすかないびきと寝返りの音。

 客間――という扱いの内弟子部屋からは、勇吾の気配……は、ほとんどしない。彼は眠っているとき、妙に静かだ。

 

 深夜零時をほんのすこし回ったころ。

 

 廊下に、そっと襖が開く音がした。

 

 足音をできるだけ立てないように歩く気配。

 廊下の電気は消えている。暗闇に目を慣らしながら、その影は洗面所の引き戸を指先で探り当てた。

 

 ――ルテアだった。

 

 肩ほどまでのピンクブロンドをゆるくまとめ、淡い色のパジャマの上にカーディガンを羽織っている。

 いかにも「寝付きが悪くて、ちょっとだけ水を飲みに出てきました」という姿だ。

 

 引き戸を開けると、洗面所の豆電球が自動で点いた。

 柔らかいオレンジ色が、白い洗面ボウルと鏡を照らし出す。

 

 ルテアは一度、振り返って廊下を確かめる。

 誰もいない。安生家の夜の気配は、いつもどおり、穏やかで強い。

 

(……大丈夫。ここは、もう安全な場所)

 

 それを、何度自分に言い聞かせたか分からない。

 だからこそ、今も繰り返さずにはいられなかった。

 

 コップを取り、蛇口をひねる。

 水音が静かな夜を少しだけ掻き乱した。

 

 冷たい水を一口飲んで、息をつく。

 そのとき――鏡の端で、違和感がきらりと光った。

 

 ルテアは、ゆっくりと視線を上げる。

 

 洗面台の上。

 歯ブラシ立てと、石鹸皿と、李が使う髭剃り。

 それから――赤い点。

 

 最初は、本当に「点」にしか見えなかった。

 

 細かい水滴の反射だと思った。

 鏡の向こう側で、光が偶然そう見えているだけだと。

 

 瞬きした。

 点は、点ではなくなっていた。

 

 小さな宝石のような、丸い赤。

 ルテアは、喉の奥がひゅっと鳴るのを感じた。

 

 視線をほんの少しだけ下げる。

 

 ――コップの横に、それは「最初からそこにあった顔」で置かれていた。

 

 ルビーの指輪。

 

 銀色の台座に、血のように濃い石。

 反射しているのは豆電球の光のはずなのに、その赤だけは、別の場所から燃えているように見える。

 

 胃のあたりが、ぞわりと冷えた。

 

(……また)

 

 声にならない声が、胸の中で零れる。

 

 これで、何回目だろう。

 学校の机の中。教科書の下。

 安生家に来てからは、自分の机の隅、引き出しの奥、洗面台の片隅。

 

 誰もいないときにかぎって、「最初からそこにあった」みたいな顔で現れる。

 

 なのに――自分以外の誰かが来た瞬間、跡形もなく消えている。

 

 だから、誰にも証明できない。

 安生家の誰も、勇吾ですら、まだこの指輪の存在を知らない。

 

(触らなければ、消える)

 

 最初の頃は、そうだった。

 

 怖くて逃げ出して、自室の布団にもぐって震えていると、いつの間にかいなくなっていた。

 だから「見なかったこと」にできた。

 

 けれど、最近は――

 

 ルテアは、無意識に右手を握りしめる。

 

 指先が、勝手に疼く。

 

 ――嵌めなよ。

 

 耳のすぐそばで、誰かが囁いた気がした。

 

 鏡の中の自分の唇は、閉じたままだ。

 

 洗面所には、自分しかいない。

 廊下にも、気配はない。

 

 なのに、声だけがある。

 

 かつての主――ベルナルドの声ではない。

 もっと、軽い。湿った笑いを含んだ、薄い声。

 

 大食鬼。

 

 指輪の奥にいる、神話的ネズミの使い魔。

 飢えと、甘さと、人間の弱いところだけを舌でなぞるような存在。

 

 ――嵌めなよ。

 ――君が、一番、よく似合う。

 

 ルビーの表面に、ちいさなネズミの舌が、ぺろりと触れたような幻覚がよぎる。

 実際には何も動いていない。

 ただ、石の奥で、黒い点が笑った気がした。

 

(……似合わないから)

 

 心の中でだけ返す。

 

 もし声に出してしまえば、きっと次の言葉を返される。

 会話になってしまったら、もう引き返せなくなる。

 

 だから、唇は固く閉じたまま。

 喉だけが、こくりと動く。

 

 指輪は、じっと待っている。

 

 ルテアの指が伸びてくるのを、知っているみたいに。

 何度も繰り返してきた「ゲーム」の続きが、今夜もここから始まると分かっているみたいに。

 

(触らなきゃ……)

 

 そう思っているのに、手は勝手に前へ出る。

 

 指先が、冷たい磁石に吸い寄せられるように、ルビーへ伸びていく。

 鏡の中の自分の動きが、ほんのコンマ数秒遅れてついてくる。

 

 爪が、石の縁にかすかに触れた。

 

 ――そう、それでいい。

 

 耳の奥で、笑いが弾ける。

 

 大食鬼の声なのか、自分の声なのか、もう分からない。

 ルビーの中の赤が、ぢり、とかすかに熱を帯びた気がした。

 

(だめ)

 

 そこで、ルテアはやっと自分の意志で動けた。

 

 指先に力を込めて、逆方向へ引き戻す。

 指輪に触れている時間を、一秒でも短くするように。

 

 バチッ、と小さな静電気が走った。

 

 その一瞬で、目の前の景色がぐにゃりと歪む。

 

 白いタイル張りの洗面所が、薄汚れたコンクリートの壁に変わり――

 蛇口からは水ではなく、べっとりとした赤黒い液体が滴り――

 鏡に映っているのは、自分ではなく、痩せこけた男の顔。

 

 ベルナルド・ディアス。

 

 300年分の悪意と、飢えと、好奇心の目。

 

「……っ!」

 

 息が止まりかけた瞬間、景色は元に戻った。

 

 洗面所。豆電球。歯ブラシと、石鹸皿と――ルビーの指輪。

 

 さっきと同じ場所。

 さっきと同じようにあるのに、もう少しだけ距離が近い気がした。

 

 ルテアは、後ずさって、洗面台から離れた。

 背中が壁にぶつかる。タイルの冷たさが、パジャマ越しに伝わってきた。

 

「……来ないで」

 

 今度は、声になっていた。

 

 囁きにしかならなかったけれど、それでも言葉として吐き出せた。

 

 指輪は、動かない。

 

 ただ、そこにあるだけだ。

 誰の目にも触れないはずの、夜の洗面所の片隅で。

 

 ――元いた場所に帰ろうよ。

 

 耳の中で、まだ声が続いている。

 

 ――君の指の上が、一番、落ち着くんだ。

 

 ルテアは、頭を振った。

 

 そのとき、廊下で床板のきしむ音がした。

 

 反射的に、洗面所の引き戸に視線を向ける。

 気配が、こちらへ近づいてくる。

 誰かが、夜中に目を覚ましたらしい。

 

(消える)

 

 ルテアは確信していた。

 

 いつもそうだ。

 誰かが近づいてくる、誰かの視線が向きそうになる――その寸前に、指輪は必ず姿を消す。

 

 だから、今回も――

 

 引き戸が、少しだけ開いた。

 

「……ルテアさん?」

 

 顔を覗かせたのは、火鳥勇吾だった。

 

 寝癖のついた髪に、古びたTシャツとジャージ。

 目だけは、妙に冴えている。

 彼は洗面所の様子をひと目見て、小さく首を傾げた。

 

「ボクの観測では、ルテアさんの“夜間覚醒率”が平均値より二倍以上高いんだけど。

 これはやはり、ストレス要因の存在を疑うべきなんじゃないかな」

 

「……勇吾くん」

 

 ルテアは、無意識に洗面台の方に目をやった。

 

 そこには、歯ブラシ立てと、石鹸皿と、コップだけがあった。

 

 ルビーの指輪は、跡形もなく消えている。

 

 勇吾はその視線の動きを追って、洗面台を見た。

 何もないのを確認して、特に気にした様子もなく、ルテアに視線を戻す。

 

「のど、乾いた?」

 

「……ううん。ちょっと、目が覚めちゃって」

 

 嘘ではない。本当のことでもない。

 

 勇吾は、しばらく彼女の顔をじっと見ていた。

 普段なら軽口で流すところだが、今夜の彼は、どこか真剣だった。

 

「笑ってない」

 

「え?」

 

「さっきから、ルテアさん、目が笑ってない。

 ボクの観測結果では、ここ三日ほど“本物の笑顔の持続時間”が平均値から著しく低下してる」

 

「……なにその、よく分かんないデータ」

 

 思わず苦笑してしまう。

 その苦笑いを見て、勇吾も少しだけ表情を緩めた。

 

「とりあえず、今のはちょっとだけ、平均値に近かった」

 

「もう、それ……」

 

 肩の力がほんの少し抜ける。

 

 けれど、洗面台の上は、もう見られなかった。

 見なくても分かる。そこには何もない。

 

 まるで最初から、何もなかったみたいに。

 

(……見えてるの、やっぱり、あたしだけなんだ)

 

 その事実が、喉の奥に重く沈む。

 

 勇吾の目は、まだルテアを観察している。

 どう言葉を引き出すべきか、彼なりの“データ”で計算している顔だ。

 

 けれどルテアは、その視線から逃げるように小さく笑った。

 

「大丈夫。ほんとに、なんでもないから」

 

「“なんでもない”って言葉の信頼度は、経験的にかなり低いんだけど」

 

「今日は信じて。お願い」

 

 勇吾は、少しだけ黙った。

 

 それから、ため息をひとつついて、肩をすくめる。

 

「了解。じゃあ今日のところは“保留データ”にしておく」

 

「ありがと」

 

「でも、あんまり眠れない状態が続いたら、ボクの管理対象案件として正式に申請するからね。

 ルテアさんには、長期的に健康でいてもらわないと困る」

 

「誰に?」

 

「ボクに」

 

 即答だった。

 

 その真顔っぷりに、ルテアは思わず吹き出してしまう。

 

「……もう。おやすみ、勇吾くん」

 

「うん。おやすみ、ルテアさん」

 

 勇吾が廊下に戻り、足音が遠ざかっていく。

 

 洗面所に、再び静寂が戻った。

 

 ルテアは、もう一度だけ洗面台を見た。

 

 やはり、何もない。

 指輪の影すら残っていない。

 

(……今度は、どこで会うんだろうね)

 

 心の中でだけ、消えたルビーに問いかける。

 

 答えは、当然返ってこない。

 

 ただ、鏡の奥で、自分の瞳の色がほんの少しだけ揺れた気がした。

 

 それが、指輪の残り火なのか。

 自分の中の、まだ消えきっていない過去なのか。

 

 それを見分ける術を、ルテアはまだ持っていなかった。

 

 

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