/*/ カフェテリアの違和感 /*/
翌日の昼休み、逢瀬学園のカフェテリアは、いつもどおりの喧噪に包まれていた。
「本日の日替わりはー、から揚げプレートと……焼き魚と……」
「から揚げ二つ追加で!」
「勇吾、あんたはまず野菜食べなさいって言ってるでしょう」
カウンターの奥で、梨花の低い声。
その横で友香が「はいはーい」と笑いながらトレーを流し、ユイリィが落ち着いた手つきでスープをよそい、ルテアもエプロン姿でサラダとデザートを並べている。
安生四姉妹の“看板娘”ぶりは、今日も健在だ。
「ボクの筋肉はタンパク質と炭水化物で構成されているので、最適解は――」
「うるさい、ほら、温野菜も乗せる」
「栄養バランス調整されてしまった……!」
レジの前で肩を落とす勇吾に、列の後ろの男子たちが苦笑混じりの視線を送る。
そんなやり取り自体が、すでに昼休みの風景の一部になっていた。
ただ一つだけ、昨日から変わったものがあるとすれば――
(……ルテアさん)
トレーを受け取って席に向かいながら、勇吾はふっと振り返った。
カウンターの内側。
笑顔で客にパフェを手渡しているルテアの横顔。
ぱっと見は、いつもどおりだ。
柔らかい笑み。
明るい声。
手際のいい動き。
でも、目だけが――時々、ぽっかりと空洞になる。
笑った直後、ほんのコンマ数秒だけ、光が消える瞬間がある。
昨日の夜の洗面所で見た“切り替わり”と同じだ。
(本物の笑顔の持続時間、やっぱり低下してる)
完全に主観のくせに、勇吾は真面目な顔でそんなことを考える。
ルテアが、客相手の笑顔をふと切らしたタイミングで、何かを確かめるみたいに自分の右手を握りしめた。
薬指の付け根あたりを、親指でそっとなぞる仕草。
そこには、なにも嵌っていない。
なのに、指輪を外したばかりの場所みたいに、皮膚がわずかに赤く擦れていた。
(……昨晩の“なんでもない”は、やっぱり“なんでもなくない”)
勇吾は、トレーを持ちながら小さくため息をついた。
このまま放っておいたら、彼女はまた「自分だけの問題」として抱え込み続ける。
その結果がどうなるか――昨日、廊下の暗がりで見たルテアの顔が、頭にちらついた。
火鳥勇吾は、実験体として育てられた。
異常な適応力と、異常なまでの観察癖が、骨の髄まで染み付いている。
だからこそ、「もう気づいてしまったもの」を無視するのが、彼にはいちばん難しかった。
/*/ 稽古後の廊下 /*/
放課後。
安生道場では、いつものように汗の匂いと掛け声が満ちていた。
突き、受け、蹴り、転身。
ミットのはじける音と、畳を踏む足音。
勇吾は、今日も例外なくフルメニューをこなしていた。
3日前までなら確実に筋肉痛コースの負荷も、今の身体には「適切な刺激」にしかならない。
「……よし、ここまで!」
胆の号令で稽古が締められ、道場内に一気に息を整える音が満ちた。
勇吾は深呼吸を一つしてから、汗を拭きつつ控えの廊下に出る。
夕方の光が障子越しに差し込み、木の床に淡い橙色の帯を作っている。
その端に、ルテアが立っていた。
稽古着から着替えた後らしく、スウェット姿で、髪をタオルで拭きながら廊下の窓の外をぼんやり眺めている。
視線の先には、庭の端に立てられた簡易物置と、その屋根の上に積もった枯れ葉。
「ルテアさん」
声をかけると、彼女は肩をびくっと震わせて振り向いた。
「わ、勇吾くん。びっくりした……」
「ボクの接近気配を察知できないとは、疲労度が高い証拠だね」
「それ、なんでも数値化する悪い癖だよ?」
口調は冗談めいているのに、瞳の奥の緊張が抜けない。
勇吾はその微妙なズレに、やはり確信を深めた。
「昨日の“なんでもない”の件、やっぱり“保留データ”のままにしておくのはよくない気がしてきたんだけど」
「……覚えてたんだ」
「ボクの記憶容量をなめないで。ミネルヴァ仕込みだよ」
にやりと笑ってみせると、ルテアも「はいはい」と苦笑を返した。
その笑い方が、どこか「義務」みたいに見えるのが、逆に痛々しい。
「勇吾くんこそ、大丈夫? 最近、稽古メニュー増えてるでしょ。内弟子って、そういうものなんだろうけど」
「ボクは“鍛錬のための人生”を選択したので、実に満足しているよ。筋肉痛は幸福だ」
「それ、人によっては狂信者って言うんだよ……」
ほんの少しだけ、表情が柔らいだ。
その隙を逃さず、勇吾は一歩近づく。
「ねぇ、ルテアさん」
「なに?」
「右手、見せて」
「え?」
不意の要求に、ルテアの体が固まる。
反射的に、右手を背中に隠しそうになる動きを、ギリギリで止めた。
「な、なんで?」
「観測の結果だよ。ルテアさん、この三日間で、右手を自分で握りしめる回数が明らかに増えてる。特に、薬指の付け根を触る頻度が高い」
「こわっ。どこ見て生きてるの勇吾くん……」
「見える範囲全部。ボクはそういうふうに作られてるんだ」
サラリととんでもないことを言いながら、勇吾は自分の右手をひらりと上げた。
「見せたくないなら、それはそれで重要なデータなんだけど。
でも、それってたぶん、“一人で抱えてもいいタイプの問題”じゃないとボクは思う」
ルテアは、しばらく黙っていた。
廊下の柱時計の音が、やけに大きく響く。
その間にも、右手の指先がじくじくと疼いているのを、彼女は自覚していた。
「……見たら、引くよ」
「ボク? 見た目の判定は梨花さんたちの方が厳しいと思うけど」
「そういう意味じゃなくて」
小さく息を吐いて、ルテアは観念したように右手を前に出した。
薬指の付け根のあたり。
うっすらと赤い、細いリング状の跡がついていた。
指輪を長時間はめていた人間にできる痕。それが、今もじんわりと残っている。
「……この家に来てから、ずっと消えてたんだよ。
なのに、最近また、戻ってきちゃって」
「誰かから、指輪をもらったわけじゃなく?」
「ううん。もともと、あたしのじゃない」
さらりと言いながらも、声がわずかに震える。
勇吾は、その跡に指を伸ばしかけて――寸前で止めた。
何か冷たいものに、逆に触られたような感覚が、空気の隙間から伝わってきたからだ。
(……ここに、“何かある前提で”見ろってことか)
彼は、一歩引いて、呼吸を整える。
ミネルヴァの施設で調整されていた頃を思い出す。
視界に映らない情報を、前提から差し替える実験。
「ここに在ると仮定した時のデータ」と「ないと見なした時のデータ」の差で、異常を炙り出す訓練。
あの頃は嫌でたまらなかったが――
今は、その“嫌な訓練”が役に立つ。
「……ルテアさん」
「なに?」
「ここに、“何か”ある前提で、ボクが見てもいい?」
問いかけると、ルテアの肩がびくりと跳ねた。
彼女は、一拍置いてから、小さく頷く。
「……たぶん、逃げても、また出てくるから」
「了解」
勇吾は、改めて右手の周りの空間を見つめた。
目に映っているのは、細い指と、薄く赤い皮膚の跡だけ。
けれど、「指輪がそこに在る」という前提でピントを合わせ直すと――
ぼう、と赤が浮かんだ。
最初は輪郭のない、血のしみのような色の塊。
それが、視界の中で少しずつ形をとりはじめる。
銀色の台座。
深く、濃く、底を見せないルビーの石。
昨日、洗面所でルテアを見つめていたのと同じ指輪が、今度は勇吾の目にもはっきり見えていた。
「……見える」
思わず口に出る。
ルテアが、驚いたように目を見開いた。
「見えるの?」
「うん。非常に“よろしくないエネルギー反応”だね。
ボク基準でも、これは危険物扱いした方がいい」
赤い石の奥から、じっと観察されている感覚があった。
こちらが観測したと思った瞬間、逆に観測し返されている。
球体レンズの向こうで、小さなネズミの目が覗いたような錯覚。
「ボク、こういうの、少しだけ解析できる」
勇吾は、ルテアの前に手を差し出した。
「……危険物かもしれないから。解析させて」
「だめ」
反射的に、ルテアが首を振る。
「これは、あたしの問題だから。勇吾くんが触ったら――」
「ルテアさん」
勇吾の声が、少しだけ低くなった。
「ボクは、自分の意思で内弟子になった。
“鍛錬のための人生”を選んだのは、ボク自身」
視線が真っ直ぐだ。
「だから、ボクの観測範囲に入ってきた危険因子を、“自分の身体で”確かめる義務があると思ってる」
「そんな義務ないよ……!」
「ある。少なくとも、ボクの中にはある」
押し問答の間にも、指輪はルテアの指の上で、じっと待っている。
はめてもらう瞬間を。
あるいは、別の器に移る瞬間を。
「ルテアさんがこれ以上、ひとりで夜中に起きてるの、ボクは嫌だ」
その言葉だけは、データでも義務でもなく、勇吾そのものの本音だった。
ルテアは、唇を噛んだ。
視線を落とし、右手を見つめ――
ほんの少しだけ、指をゆるめる。
指輪が、掌にコロンと転がり落ちた。
「……分かった。でも、本当に、ちょっとだけだから」
「うん。最小限で済ませる。できればね」
勇吾は、冗談めかした口調で言ってから、赤い石に指先を伸ばした。
触れた瞬間。
世界が、反転した。
/*/ サイコメトリー:ベルナルドの残響 /*/
指先に触れたのは、冷たさではなかった。
熱でもない。
もっと、粘ついたもの。
飢えた胃袋の内側みたいな、ぬるい感触。
(……これは)
思考が言葉になる前に、情報が流れ込んできた。
映像。
匂い。
感情。
メキシコの乾いた土の色。
焼けるような日差しの下で、細い影が薬草を踏みつけて歩く。
その影が伸びる先で、人の背中に赤い印が刻まれる。
ベッドではない台の上に、並べられた身体。
血の匂いと、薬品の匂いと、甘ったるい煙の匂い。
笑う声。泣く声。祈る声。
そのすべてを、「観察対象の反応」の一つとしてしか見ていない目。
ベルナルド・ディアス。
彼の視界が、そのまま勇吾の脳に流し込まれている。
数十年分。
数百年分。
海を渡る。
戦争を見下ろす。
麻薬戦争の影で、何十、何百という“素材”を手に入れる。
どこまでも続く、人間の弱さと、愚かさと、その中にある狂ったきらめき。
ベルナルドは、それをただ、「おもしろい」と思っている。
(胸糞悪いな、これ)
どこか冷静な自分が、感想を挟んだ。
同時に、別のレイヤーから別の情報が重なってくる。
床を走る、小さな影。
実験室の隅で、臓物の垂れた皿を舐めているネズミ。
いや、ネズミに似た、違うもの。
骨が足りない。
世界のルールを、途中で放り出してしまったような骨格。
それでも、何とか「ネズミ」の形に合わせている、不自然な存在。
大食鬼。
こいつは、ベルナルドに飼われているふりをして、実際には、ベルナルドの魂ごと指輪に封じ込めていた。
食べられないものはない。
記憶も、時間も、人格も。
指輪に触れる人間の“過去と未来の可能性”を、小さな歯で齧り取っては味見している。
(……なるほど。これは危険物だ)
勇吾は、頭のどこかで冷静に判定を下す。
そして――別の映像が突き刺さった。
コンクリートの壁。
鉄格子。
白い蛍光灯。
さっきの、メキシコとは違う。
もっと近い。もっと現代的な匂い。
ベッドの上に縛り付けられた、小さな少女。
金髪に近いピンクブロンド。
瞳の色が、今よりもずっと暗い。
ルテア。
まだ「安生家の娘」になる前のルテア。
その身体に刻まれていく魔術式。
痛みと恐怖で震えながら、それでも、どこかで「自分は生きていていいのか」と問い続けている心。
大食鬼は、その心を“デザート”のように舐めていた。
甘くて、脆くて、いくらでも形を変えられる魂。
ベルナルドは、その器を非常に気に入っていた。
「――」
勇吾の喉から音にならない息が漏れる。
視界がぐらりと傾いた。
指輪は、まだ彼の指先と接触している。
そこから、別の方向へ、もっと深いところへ、記憶の奔流が引きずり込もうとしていた。
ミネルヴァの培養槽。
ナノマシンの走る管。
自分自身が実験対象だった頃の、冷たい液体の感覚。
(これは、ボクのじゃない)
勇吾は、奥歯を噛みしめた。
(ボクの記憶と、ルテアさんの記憶と、ベルナルドの残骸と、大食鬼の飢えが、一緒にミキサーにかけられてる)
このまま全部飲み込めば、自我は溶ける。
分かっていても、流れは止まらない。
身体は、まだ成長途中だ。
内弟子として鍛えた筋肉も、精神の耐久力とは別の問題。
視界の端で、何かが動いた。
赤いネズミの影。
大食鬼が、指輪の内側からこちらを覗いている。
言葉ではない。
だけど、その目の動きが「面白い」と言っていた。
新しい器。
ミネルヴァ製の、異常な適応力を持つ人間。
ベルナルドよりも、ずっと可能性の幅が広い。
――ちょっとだけ、噛んでみようか。
そんな気配。
「――っ、させない」
勇吾は、残った意識を振り絞って、手を引いた。
指先から、石の感触が消える。
同時に、流れ込んでいた映像の洪水もぷつりと途切れた。
「勇吾くん!」
遠くで、ルテアの声がする。
床が近づいてくる。
いや、自分が床に落ちている。
全身から力が抜けた。
筋肉は無事なのに、神経の線だけが全部ほどけてしまったみたいだ。
(やば……これは、ボクの推定を上回る負荷だった……)
そんな冷静な分析を挟む余裕は、もうほとんどなかった。
最後に見えたのは、ルテアの青い瞳だった。
その奥に、さっきまで指輪に映っていた“被験体の少女”の影が重なる。
(ああ……そうか)
火鳥勇吾は、意識を手放す直前に思った。
(ボクは、やっぱりこの家で生きたいし、この人たちを守りたいんだな)
その自覚だけを胸に抱いて、彼の意識は、一度深い闇に沈んだ。