/*/ 英の訪問 /*/
玄関のチャイムが、短く鳴った。
「来たな」
龍が立ち上がる。
ルテアも、少し遅れてその後に続いた。
廊下を抜け、玄関の戸を開けると、冷たい夜風と一緒に、黒縁メガネの少年が立っていた。
「こんばんは。お邪魔します、安生さん」
氷室 英だった。
コートの裾には、郡山の夜風にさらわれた砂ぼこり。
肩には使い込まれたショルダーバッグ。
その全体から、学校帰りに一度どこかで“仕事”を片付けてから来たような疲労感がにじんでいる。
「悪いな、呼びつけて」
「いえ。こういう呼び出しは、大体ろくでもない案件だって分かっているので」
さらっと本音を言いながら、英は靴を脱いだ。
玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、彼の瞳がわずかに細くなる。
「……また、結界の層が増えてますね」
「内弟子が一人増えたからな。ついでに“昔の残りカス”まで転がり込んできた」
龍の言葉に、英は片眉を上げた。
「その“昔の残りカス”が、今回の原因ってわけですか?」
「ああ。じいさんが押さえ込んでる」
龍が顎で示した先――客間の方から、ゆっくりと小柄な影が現れた。
安生 李。
その手には、小さな布袋がぶら下がっている。
口をきっちり結ばれ、表には古い文字が刺繍されていた。
袋の内側からは、かすかに、赤いものの気配が滲んでいる。
英はそれを見て、一歩だけ近づいた。
「……こんにちは、李さん。中身、見てもいいですか?」
「見るために呼んだ。気をつけて開けい」
「もちろん」
英は眼鏡を押し上げ、客間の畳の中央にちょこんと正座した。
李が布袋をその前に置く。
龍とルテアは、少し距離を取って座った。
客間の空気が、静かに、しかし確実に重くなる。
英は、袋の周りに素早く指先で印を描いた。
空中に青白い線が一瞬だけ浮かび、すぐに消える。
「簡易観測結界。もしも中身が飛び出しても、この部屋からは出さない」
「心強いのう」
李が目を細める。
英は深く息を吸い、袋の口に触れた。
「開くよ」
布がほどかれる。
その瞬間――客間の中心に、「赤」が現れた。
最初は、ただの色の濃さにしか見えない。
けれど、すぐにそれが半球状の光を帯び、銀の輪郭をまとい、ルビーの指輪の形へと収束していく。
畳の上に、ちょこんと座るようにして、指輪はそこにあった。
/*/ 指輪の視点:後継者捜し /*/
――また、光だ。
指輪の内側から、世界はいつも「外側の光」として映る。
最初にそれを見た時、そこは土と太陽の国だった。
乾いた地面と、焼けるような空。
人間たちは短く燃え、すぐに消えた。
その次に見たのは、コンクリートと蛍光灯の国。
色のない壁。冷たい空気。
そこで、彼女――ピンクブロンドの少女――は、美しい悲鳴をあげた。
その次に見たのが、ここだ。
木と畳と、結界の匂いが混ざった家。
“安生”という名前の、人間たちの住処。
最初にここへ運び込まれたとき、この指輪にはまだ「主」がいた。
ベルナルド・ディアス。
三百年以上かけて、指輪の内側に自分を封じた老人。
老いの恐怖から逃げるうち、いつの間にか自分の魂の方が、指輪に食べられていたことにも気づけない愚かな魔術師。
大食鬼は、彼の魂をゆっくりと噛み砕きながら、観察していた。
――実に、良い素材だった。
膨大な知識。
数え切れない実験の記録。
人間という種への執着と嫌悪。
それらはすべて、指輪の中の「味」となった。
けれど、それももう、ほとんど食べ尽くしてしまった。
ベルナルドという料理は、残りカスと骨しかない。
ならば、次だ。
新しい料理。
新しい「主」。
ベルナルドの後継者として、同じように長く、たっぷりと味わえる器。
指輪は、最初にピンクブロンドの少女――ルテアに目をつけた。
彼女は、ベルナルドの手で魔術的な回路を刻まれた“既製品”だ。
魂の形が、この指輪の内側にぴったり合うように調整されている。
指輪に宿る大食鬼にとって、それはあまりにも魅力的な「続きの晩餐」だった。
だから、ベルナルドが斃れたあとも、指輪は彼女を追いかけた。
遠くへ行った。
見知らぬ国。
奇妙な磁場の谷――郡山盆地。
新しい家。
安生家。
そこでルテアは、魔術師たちに囲まれて生きていた。
祖父。
父。
道場の兄。
そして――風を歩く少年。
指輪は、じっと観察した。
この家は、味の濃い人間が多い。
ルテアはもちろん、最有力候補だ。
ベルナルドの“研究成果”そのもの。
過去の傷と、それでも生きようとする意志が、綺麗なマーブル模様になっている。
だが――それだけではない。
安生 李。
この家の長老は、ベルナルドと同じくらい、いや、それ以上に「魔術師」だ。
魂に刻まれた修行の痕跡。
無数に重ねられた結界式。
人を守り、人を斬るための術が、古い木の年輪みたいに詰まっている。
彼を器にすれば、短期的には非常に高カロリーだろう。
老いかけた肉体は長持ちしないが、その分、一気に燃え上がる火力は強い。
安生 龍。
この家の“刃”は、魔術師ではない。
しかし、彼の魂には、獣と鉄と火の匂いがした。
熊の血。
犯罪者の血。
人間という種の「暴力性」を、何度も何度も正面から殴り倒してきた手の匂い。
魂を器にするには、少しばかり“自我”が固すぎる。
だが、横からかじるには、これほど噛み応えのある獲物も珍しい。
そして――氷室 英。
今、目の前に座っている、黒縁メガネの少年。
指輪は、英をひと目見た瞬間、興味をそそられた。
彼の周りには、「別の風」がまとわりついている。
山の風ではない。
都市の風でもない。
もっと高く、もっと冷たい場所から吹き込んでくる、異界の気配。
この少年の背後には、別の《風に乗りて歩むもの》がいる。
指輪に宿る大食鬼は、その気配を嗅ぎ取って、舌なめずりした。
――節操なく手を伸ばせば、あの存在にまで届くかもしれない。
人間の魂だけでなく、外なるものの「欠片」にだって、歯を立てられるかもしれない。
そして、もう一つ。
隣の部屋で眠っている、内弟子の少年――火鳥 勇吾。
彼に指輪が軽く触れた瞬間、大食鬼は理解した。
これは、特別製だ。
肉体の適応力。
精神の復元力。
自我の強度。
どれも、並の人間の枠を少しはみ出している。
長く噛んでいても、なかなか崩れないだろう。
ベルナルドの魂は、三百年で食べ尽くした。
だが、この少年なら――もっと長く遊べる。
新しい実験。
新しい魔術。
新しい戦争。
全部、この器ひとつで、何度でも味わえる。
指輪は、そこで方針を変えた。
「ベルナルドの後継者」を一人に絞る必要はない。
ルテアも良い。
氷室 英も良い。
安生 李だって、老い先短いが濃厚な一皿になる。
火鳥 勇吾は、締めのデザートにしてもいいし、メインにしてもいい。
――節操なく、手を広げればいい。
大食鬼は、喜んで誘惑の幅を広げることにした。
ルテアには、罪悪感を。
英には、知識欲を。
李には、老いを超える若さの幻想を。
勇吾には、自分の「異常さ」を正当化する力を。
誰が最初に手を伸ばすかは、ささいな問題だ。
どのみち、最後には、みんなまとめて美味しく頂くことができる。
/*/ 優秀な“素材”たち /*/
「……ふむ」
英は、指輪をまじまじと見つめていた。
眼鏡のレンズに、ルビーの赤が小さく映る。
その光が、彼の瞳の中で幾何学模様を描いているように見えた。
「どうじゃ、英くん」
李が問いかける。
「悪趣味な呪物、って評価で問題なさそうですね」
あっさりとした口調。
「内部に寄生型の使い魔――“大食鬼”の類。
それと、かなり薄まってはいるけど、元の持ち主の人格の残滓が混ざってます。ベルナルド・ディアス……で間違いないでしょう」
ルテアが、びくりと肩を震わせた。
英は、ちらりと彼女に視線を向ける。
「ごめん、ルテアさん。名前、出すしかないから」
「ううん……いい。どうせ、向き合わなきゃいけないんだし」
英は頷き、視線を指輪に戻す。
「性質としては、“後継者探し”ですね。
自分を保持してくれる新しい器を、ずっと探してる」
「やはり、ルテアか」
龍が低く言う。
英は、軽く首を傾げた。
「優先度、って意味ではそうですね。
ただ――」
そこで一旦言葉を切り、客間を見回した。
「この部屋の全員に、今、声をかけてきてます」
「……何だと」
龍の眉がぴくりと動く。
英は淡々と続けた。
「ルテアさんには、“罪悪感”と“帰属意識”。
李さんには、“老いの否定”と“もう一度若く実験できる身体”。
安生さんには、“どんな相手でも確実に仕留められる力”。
ぼくには、“風の向こう側の知識”。
そして――隣の部屋の勇吾くんには、“自分が異常であることを証明してくれる力”」
英の言葉に、ルテアは息を呑んだ。
「そんなに、はっきり……?」
「ええ。今も、ずっと囁いてますよ。
“君なら、自分を使いこなせる”って」
英は、わざとらしく肩をすくめた。
「残念ながら、ぼくはあんまり、そういう誘惑に弱くないんですけどね」
「そうかのう?」
李がじっと英を見る。
「英くん、知識と外なるものには目がないからなぁ。
あまり油断すると、喰われるぞ」
「だからこそ、こういうのはきっちり“分析対象”として扱うんですよ」
英は、指先で空中に印を描いた。
指輪の周囲に、薄い風の膜が張られる。
それは、山の風ではない。
もっと高く、もっと冷たい別の場所から吹き込んだ、異質な流れ。
指輪の内側で、大食鬼が舌打ちした。
――この風は、まずい。
ここを通して外に逃げようとすれば、自分よりもっと大きな“何か”の視線を浴びることになる。
それはさすがに、胃もたれしそうだ。
「とりあえず、今は安生家の結界とぼくの結界で、二重に封じてあります。
ただ、“誰かに乗り移ろうとする”性質そのものは消せない。
完全に破壊するには、それなりの手順が必要です」
「つまり?」
龍が短く促す。
「簡単に言えば――」
英は少しだけ笑った。
「こいつ、節操がない。“誰でもいい”って思ってる。
だから、誰が最初に足を滑らせるか、常に隙をうかがってる状態です」
ルテアは、思わず唇を噛む。
(あたしだけじゃ、ない)
その事実は、少しだけ救いであり、同時に恐怖でもあった。
自分だけが標的なら、自分さえ我慢すればいい。
でも、指輪はもう、安生家全体に牙を向けている。
そして――隣の部屋で眠っている勇吾にも。
「勇吾くんは?」
ルテアが震える声で問う。
「勇吾くんは……」
英は、少し難しい顔をした。
「正直に言えば、この中で一番“相性がいい”」
「え……」
「ルテアさんは、すでに一度、指輪に回路を刻まれているから、“使いやすさ”という意味では最優先。
でも、耐久力と適応力という意味では、火鳥くんの方がはるかにスペックが高い」
英は、淡々と事実だけを並べる。
「ミネルヴァ式の肉体調整。
安生道場での内弟子修行。
そして、ちょっとおかしいレベルの“折れないメンタル”」
「おかしいって言ったな」
胆がぼそっと突っ込む。
「褒めてますよ。
だからこそ、指輪側からすると、“長期保存が利く上等な肉”に見える」
ルテアの指先が、ぎゅっと丸まった。
(あたしのせいで)
勇吾は、指輪に触れた。
自分を守ろうとして。
安生家の一員として。
(あたしのせいで、狙われてる)
胸の奥で、何かがきしんだ。
罪悪感。
怒り。
恐怖。
それらが混ざって、ぐちゃぐちゃになりかけたとき――英の声が、そこに割り込んだ。
「だからこそ、こっちも“節操なく”守ります」
「……え?」
「向こうが候補を広げてきてるなら、こっちも戦力を広げるだけです」
英は、当たり前のことのように言った。
「安生家の結界。李さんの護符。ぼくの結界術と、外と繋がる風。
それから――勇吾くん自身の異常な適応力。
ルテアさんの、“もう黙らない”って決意」
視線が、ルテアに向く。
「あなたはもう、“ただの被験体”じゃない。
安生家の娘で、ぼくたちのクラスメイトで――この件の“当事者”です」
ルテアは、息を呑んだ。
大食鬼の囁きが、かすかに音を立てて退く。
罪悪感を餌にしていた糸が、一瞬だけ、英の言葉に弾かれた。
「……でも、あたし、そんな」
「できますよ」
英は、軽く笑った。
「だって、ルテアさん。
あなた、あの勇吾くんと同じくらい“しぶとい”じゃないですか」
「そこ、褒めてる?」
「最大級に」
龍が、ふっと笑いを漏らした。
「そうだな。
安生家に来た頃のお前を見てたら、とても今みたいに笑ってるとは思わなかった」
李も、目を細める。
「お前が“諦めんかった証”じゃよ」
ルテアは、ぐっと喉を鳴らした。
胸の奥で、何かが少しだけ溶ける。
指輪の内側で、大食鬼が舌打ちした。
――やれやれ。
この家の人間は、どいつもこいつも、「諦めない」という性質を持っている。
ルテアも。
火鳥 勇吾も。
安生家の面々も。
氷室 英も。
だからこそ、美味しいのだが――
だからこそ、落とすのに時間がかかる。
指輪は、誘惑の糸を少しだけ引っ込めた。
焦る必要はない。
時間は、たっぷりある。
今は、眠っている少年の夢の中で、ゆっくりとテーブルセッティングを整えればいい。
彼の中にある「異常さ」と「人間でありたい」という願い。
それらをほどよい温度まで温め、食べごろになるのを待てばいい。
――後継者は、一人でなくていい。
指輪に宿る大食鬼は、赤い石の奥で、静かに笑った。