/*/ 内弟子部屋・沈む意識 /*/
勇吾の寝息は、一見すると穏やかだった。
布団の上、額にはうっすら汗。
まぶたは閉じているが、その下で眼球が時折ぴくりと震える。
「脈は安定……体温もギリ正常範囲。だけど、脳波が盛大にお祭りしてる」
枕元で、英が低くつぶやいた。
膝の上には小型のタブレット――ではなく、魔術式を書き込んだノート。そこに指で新しい符号をなぞっている。
李が、腕を組んだまま勇吾を見下ろす。
「指輪からの線は、どうじゃ?」
「今は“夢経由”ですね」
英は、勇吾の胸元あたりに視線を向けた。
普通の目には見えないが、魔術師の目には、うっすらと細い赤黒い糸が見える。
李の護符袋に封じた指輪から伸び、空中を伝って、勇吾の額に絡みついている。
「現実側での干渉は、ぼくと李さんの結界で遮断してる。
けど、夢の中は――本人のテリトリーだから、直接は手出しできない」
「内側の戦いは、本人に任せるしかない、というわけか」
龍が、壁際に立ったまま短く言う。
ルテアは、襖の近くに正座していた。
勇吾の顔と、赤い糸の気配と、そのどちらも見ないようにして、しかし目を逸らしきれずにいる。
(お願いだから、戻ってきて)
声には出さない。
ただ、両手を膝の上でぎゅっと握りしめる。
そのとき、勇吾の指先が、ぴくりと動いた。
英が眉をひそめる。
「……始まったな」
/*/ 夢の中の実験室 /*/
目を開けたつもりはなかった。
なのに、見えていた。
白い天井。
むき出しの蛍光灯。
ひび割れた塗装。
(……うわ、既視感)
火鳥勇吾は、自分が寝かされている台の感触で、すぐに理解した。
(これはボクのじゃない。ミネルヴァのベッドとは別系統。ベルナルド側の“ラボ”か)
鼻をつく、薬品と血とカビの匂い。
遠くで、誰かの笑い声と泣き声が混ざり合っている。
視界の端に、ピンクブロンドの小さな背中が見えた。
腕を縛られた少女。
肌に刻まれる見慣れない魔術式。
細い喉から漏れる、押し殺した悲鳴。
(ルテアさんの記憶だ)
胸の奥が、ぐっと熱くなる。
「ふむ。冷静だね、実験体くん」
声がした。
視界を横に向けると、そこに痩せた男が立っていた。
青白い顔。
くぼんだ目。
笑っているのかどうか分からない口元。
白衣の袖には、乾いた黒いシミがいくつもこびりついている。
ベルナルド・ディアス。
自分の胸の中に流れ込んできた記録と、目の前の景色がぴたりと重なる。
「普通はもっと叫ぶ。自分じゃない誰かの地獄を見せられたら、大体はそこで折れる」
ベルナルドは、退屈そうに言った。
「君は、折れない。観察してる」
「ボク、観察される側だった時間が長いからね」
勇吾は、台の上で肩をすくめた。
身体は動かない。
でも、声は出せる。
夢の中だからか、それとも指輪の中だからか。
「観察されるだけなのは、あんまり楽しい体験じゃなかった。
だから、今度は“観察する側”に回ってみようかなって」
「ふふ」
ベルナルドの口端が持ち上がる。
その笑い方が、ひどく薄い。
何百回も練習された社交辞令の笑みを、そのまま貼り付けたような感覚。
「君は、面白い。だが、まだ粗削りだ」
ベルナルドが指を鳴らす。
景色が、また変わった。
メキシコの乾いた土。
焼けつく太陽。
黒ずんだ教会の影。
銃声。
叫び。
煙。
それらが、全部「実験素材の調達」としてしか認識されていない視界。
勇吾は、眉をひそめた。
「胸糞悪いアルバムだなぁ」
「その感想は、ルテアにも言われたよ」
ベルナルドは、おかしそうに笑う。
「でもね、実験体くん。君はこれを“ただの胸糞”で終わらせるには惜しい。
君の筋肉も、君の脳も――まだまだ使える」
男の目が、急にぎらりと光った。
「ミネルヴァは、君を兵器として作ろうとして、途中で手放した。
ここから先は、ぼくが引き継いでやってもいい」
「お断りします」
即答だった。
ベルナルドの笑みが、ほんの少しだけ固まる。
「ずいぶん、はっきり言うね」
「ボク、今は“内弟子”なんで。
鍛錬のための人生は、安生道場との専属契約です」
勇吾は、台の上であえて軽口を叩いた。
「契約を二重に結ぶのはよくないって、ミネルヴァの契約書にも書いてあったし」
「詭弁だ」
ベルナルドの声が冷たくなる。
「君は、もっと上に行ける。
その肉体、その適応力、その精神――全部、世界を塗り替えるための道具になれる」
視界が、また変わる。
今度は、郡山の夜景。
沈み口モールのネオン。
逢瀬学園の校舎。
その上空から、それを見下ろしている視点。
「風を支配し、血を支配し、人間の欲望そのものを支配する。
君には、その才能がある」
(……ああ)
勇吾は、そこでやっと理解した。
(これはベルナルドの声だけじゃない)
言葉の選び方が、途中で変わった。
もっと軽く、もっと粘つくように。
胸の内側で、別の気配が舌なめずりをする。
大食鬼。
ベルナルドの残骸を食べ尽くし、その声色さえ好きに真似できるようになった、指輪の主。
「ねぇ」
耳元で、別の声がした。
ベルナルドの声に似ているが、もっと若く、中性的で、どこか楽しげだ。
「君、楽になりたくない?」
「楽?」
「そう。そんなに必死に“人間であろうと”しなくてもさ」
大食鬼の声が、勇吾の耳の中で笑う。
「君は、もともと普通じゃない。
ミネルヴァで改造されて、内弟子で鍛えられて。
筋肉も神経も、もう“人の域”を少しはみ出してる」
周囲の景色が、道場に変わる。
朝焼け。
ランニングコース。
安生家の庭。
李の木刀。龍の拳。胆のミット。
それらが、ぜんぶ赤いフィルターをかけられたみたいに滲んでいく。
「だったら、いっそこっち側に来ればいい。
兵器として、魔術師として、“選ばれた異常”として生きればいい」
耳元で囁く声は、ねっとりしている。
「そうすれば、君の異常さは全部正当化される。
人間の枠なんて、最初からいらなくなる」
「……なるほど」
勇吾は、天井を見つめながら答えた。
「つまり、ボクに“諦めろ”って言ってるわけだ」
「諦める?」
「人間でありたい、って願いを」
大食鬼の囁きが、一瞬だけ止まる。
勇吾は、ゆっくりと息を吸った。
夢の中なのに、肺に入る空気の重さまで、やけにリアルだ。
「ボクね」
そこはもう、ラボでも郡山でもなくなっていた。
気がつけば、安生道場の板の間に立っている。
目の前には、見慣れた木の柱。
壁にかけられた掛け軸。
掃き清められた床。
勇吾は、裸足でそこに立ち、ゆっくりと構えを取った。
「ボクは“異常”で生まれて、“兵器”として育てられて、
それでも、“人間として鍛え直す”って決めたんだ」
拳を握る。
指の感覚が、ここだけやたらとはっきりしていた。
畳ではなく板の感触。
足の裏で感じる、道場の温度。
「安生道場の内弟子。
安生家の人間。
逢瀬学園のクラスメイト」
ひとつひとつ、言葉を重ねる。
「ボクが異常かどうか、兵器かどうかは、その上で“オマケで付いてくるスペック”に過ぎない」
大食鬼の声が、耳ではなく、頭の奥でざわめく。
指輪は、圧を強めた。
床の板がひび割れ、道場の壁が赤く染まり始める。
柱が、血の柱に変わる。
掛け軸に書かれた文字が、ぐにゃりと歪む。
勇吾は、拳をほどいた。
代わりに、指を軽く開く。
(これは、ボクの夢だ)
思い出す。
ミネルヴァで教え込まれた、精神操作への対処法。
「これは実験」と認識した瞬間、半歩俯瞰に立ち位置を移す――嫌になるほど、体に叩き込まれた手順だ。
(お前たちの記憶も、ルテアさんの記憶も、ボクの過去も、ぜんぶ混ぜてミキサーにかけてるつもりなんだろうけど)
勇吾は、正面を見据えた。
目の前に、ベルナルドの姿が立っている。
その影の後ろに、ネズミの形をした黒い影。
大食鬼。
「観察するのは、ボクの方だよ」
勇吾の足元から、薄い光の円が広がった。
それは魔術ではない。
ミネルヴァで与えられた「メンタルインターフェース」の擬似表現。
自分自身を“装置”として認識するための視覚化。
ベルナルドと大食鬼の気配が、円の外側に押し戻される。
勇吾は、ゆっくりと言葉を続けた。
「ボクは、ボクの異常さを認める。
それは事実だ。否定しても意味がない」
拳を握り直す。
「でも、その“異常さ”をどう使うかを決めるのは、ボクだ。
あんたじゃない。ベルナルドでも、ミネルヴァでも、指輪でもない」
大食鬼が、愉快そうに笑った。
その笑いは、ベルナルドの声とも違う、もっと幼くて、底の見えない笑いだった。
「いいねぇ。やっぱり君、最高だよ」
声が四方八方から響く。
「その自己認識の強さ。
そのくせ、自分ひとりでは完結できない“人間でありたい”って願い」
道場の板の間から、赤い線が伸びる。
勇吾の足元に絡みつこうとして――円の境界で弾かれた。
「いいよ。今日は、それでいい」
大食鬼の声が、少しだけ距離を取る。
「君の中に、ちゃんと“席”は作っておく。
ルテアの席とは別に。ベルナルドの席とも別に」
ベルナルドの姿が、ぼろぼろと崩れ始めた。
白衣が破れ、その下から、赤いネズミの尾が何本も伸びる。
それが空中に解けていき、指輪の形に収束していく。
「君が、“人間として鍛え直す”って選び続けるなら、それもまた観察に値する」
声が、さらに遠ざかる。
「ボクは気が長いからね。
君がいつか折れるその瞬間まで、じっくり見ててあげる」
「……その“いつか”、来ない前提で生きるんだけどね、ボクは」
勇吾は肩をすくめた。
「それもまた、楽しみだよ」
最後の言葉とともに、道場の景色が白く飛んだ。
音も、匂いも、感触も、ぜんぶいったん消える。
その無音の中心で、勇吾は、自分の胸の内側に小さな“印”が残っているのを感じた。
赤い牙痕のような、小さなタグ。
(……マーキングされたか)
苦笑が漏れた。
(いいよ。だったら、こっちも“観測対象”として監視させてもらうだけだ)
意識が、現実へと引き戻されていく。
/*/ 目覚めと“印” /*/
「――っは」
勇吾は、浅く息を吸い込んだ。
視界いっぱいに、天井の木目。
空気の匂いが、ミネルヴァでもラボでもない、安生家のそれであることに、全身がほっと緩む。
「勇吾くん!」
すぐそばから、ルテアの声。
顔を横に向けると、赤くなった目元と、安心したような笑顔が飛び込んできた。
(……ああ、帰ってきた)
勇吾は、ぼんやりと思う。
「ここ、どこ……あ、ボクの部屋か」
「そこから?」
胆が呆れたように笑った。
「お前な。倒れたんだぞ、廊下で」
「解析の結果、過負荷でしたね」
英の声が頭の奥から飛んできた。
「サイコメトリーで三百年分の悪夢を一気飲みしたら、そりゃ前後不覚にもなるよ」
「反省点としては、事前に“どのくらい飲むか”のリミットを決めておくべきでしたね」
「……ボクとしては、先に警告が欲しかったかな」
勇吾は、かろうじて苦笑した。
上体を起こそうとして、肩に重さを感じる。
龍がそっと支えてくれていた。
「無理するな。まだ顔色が悪い」
「そうですか? ボクとしては、いつも通りイケメンの自覚があるんですが」
「言えるようなら大丈夫だな」
胆が笑い、ルテアの肩の力が抜ける。
英は、じっと勇吾の胸元を見つめていた。
「火鳥くん」
「はい」
「胸の真ん中、ちょっと痒くない?」
「……言われてみれば」
勇吾はパジャマの上から、胸の中央あたりを指で押さえた。
そこに、じりじりとした違和感。
英が、合図のように指を鳴らす。
その瞬間、勇吾の肌の上に、淡い紋様が浮かび上がった。
小さな、赤い円。
中心から三本の細い線が伸びる、ネズミの頭蓋のような記号。
「……タトゥーを入れた覚えはないんだけど」
「こっちの許可なくマーキングしてくるとは、礼儀知らずにも程があるな」
龍の声が低くなる。
英は、紋様にそっと指をかざした。
赤い印は、英の結界と李の護符の影響で、すでにかなり薄まっている。
だが、完全には消えていない。
「大丈夫。すぐにどうこうってレベルじゃないです。
“ここに一度繋いだよ”っていう痕跡だけ」
「消せるかの?」
李の問いに、英は少し考えてから頷いた。
「時間をかければ。
でも――」
「でも?」
ルテアが、不安げに英を見る。
「完全に消す前に、こっちも逆に“辿る”ことができるかもしれない」
英の目が、すこしだけ楽しそうに光った。
「向こうが火鳥くんにタグを付けた。
ということは、火鳥くん側からも、指輪の中身を観測しやすくなっている、ってことです」
勇吾は、天井を見上げながら苦笑した。
「……それ、またボクが変な役回り引き受けるパターンでは?」
「自業自得だな」
龍があっさり言う。
「勝手に危険物に触ったんだから、そのくらいは背負え」
「ごもっとも」
勇吾は、素直に頷いた。
ルテアが、ぎゅっと拳を握る。
「でも、それ、勇吾くんひとりに背負わせないで。
あたしのせいだもん。あたしの指輪で、あたしの過去で――」
「ルテア」
勇吾は、ゆっくりと彼女の方を向いた。
まだ少し重い腕を伸ばして、彼女の手の上に自分の手を重ねる。
「これは、ボクの選択だよ」
さっき夢の中で大食鬼に言った言葉を、そのまま現実で繰り返す。
「ボクは、自分の異常さを“誰かのために使う”って決めた。
安生家のためとか、ルテアさんのためとか、クラスのみんなのためとか」
ルテアの目が潤む。
「だから、これはボクとルテアさんと、安生家と英さんの“共同案件”ね」
英が小さく笑う。
「共同研究、って言ってくれた方がモチベーション上がりますね」
「じゃあ、“呪物対策共同研究プロジェクト”で」
「名前長いよ……」
ルテアが、半分泣きながら笑った。
指輪の中で、大食鬼がまた舌なめずりをする。
――やっぱり、この家は退屈しない。
予定通りにはいかなかった。
でも、それはそれでいい。
ルテアという“既製品”。
火鳥勇吾という“変異株”。
氷室英という“風穴”。
安生家という“実験場”。
どれも、長く楽しめる素材だ。
指輪は、布袋の中で静かに身じろぎした。
まだ、ゲームは始まったばかりだ。