/*/ その夜の安生家 /*/
勇吾が目を覚ましたあとも、安生家の夜はしばらく落ち着かなかった。
龍と李と英は、そのまま客間に籠もり、指輪の今後の処理について低い声で協議を続けていた。
ルテアは「休め」と何度も言われながらも、結局は内弟子部屋と客間のあいだを行ったり来たりしてしまう。
勇吾は、布団の上で天井を見上げていた。
胸の中央の赤い印は、まだじんじんと痒い。
さっき英に少し抑えてもらったおかげで、焼けるような痛みまでは引いているが、それでも、「ここに噛み痕ありますよ」と自己主張してくる感覚は消えない。
(……まぁ、ガチ噛みじゃなくて“歯形だけ”なら、上々か)
内心でそんな冗談を飛ばせるあたり、自分でも相当図太いと思う。
襖が、そっと開いた。
「起きてる?」
顔を覗かせたのは、ルテアだった。
お風呂上がりなのか、髪が少し湿っている。
パーカーの袖を両手で握って、申し訳なさそうに立ち尽くしていた。
「起きてるよ。脳内悪夢上映はひとまず終わった」
「……変な報告の仕方しないで」
ルテアは部屋に入ってきて、勇吾の布団の横にちょこんと正座した。
距離は近いのに、どこか遠慮がちだ。
「英さんたちは?」
「まだ指輪のこと話してる。結構、根が深い案件だから」
「だろうねぇ。三百年モノだもんなぁ……」
勇吾は天井を見たまま、ゆるく笑った。
「で、ルテアさんは。怒ってる?」
「誰に?」
「ボクに」
ルテアは、一瞬だけ目を丸くした。
すぐに、首を横に振る。
「怒ってない。むしろ……感謝してるよ。
あたしがちゃんと話さなかったから、勇吾くんが危ない目に遭ったのは本当だけど」
そこで、少し言葉を探すように視線を落とした。
「でも、“あたしだけの罰”みたいに思ってたやつを、『共同案件』って言ってくれたの、正直、すごく助かった」
「ボクも、その方が気が楽だからね」
勇吾は、ゆっくりと横を向いた。
ルテアの横顔は、さっきまでより少しだけ柔らかい。
それでも、目の奥にはまだ薄く影が残っている。
「ボクさ」
「うん」
「ミネルヴァから逃げてきたとき、“もう、誰の実験にも付き合いたくない”って思ってたんだ」
自分でも少し驚くくらい、あっさりその言葉が出た。
ルテアが、そっとこちらを見る。
「でも、結果的に、今また“実験”のど真ん中なわけで」
「……ごめん」
「違う違う。そういう意味じゃなくて」
勇吾は、片手をひらひら振った。
「今回は、“自分のためだけの実験”じゃないから、まだマシだなーって」
「自分のためだけ、じゃない?」
「うん。
ボクが呪物にマーキングされたのも、ルテアさんのトラウマの続きも、安生家の結界も、英さんの風も――」
言葉を一つひとつ並べながら、勇吾は少し笑う。
「ぜんぶまとめて、“この街の安全保障案件”じゃん。
ボク、そういう“みんなのため”ってヤツ、嫌いじゃないんだよね」
「……そういうとこ、ほんと勇吾くんだよね」
ルテアが、呆れ半分、安心半分のため息を漏らす。
「普通さ、もっと“自分の身を守らなきゃ”ってなるでしょ。
なんで“街の安全保障案件”に話が飛ぶかな」
「内弟子だから」
即答。
「安生家の内弟子=この辺一帯のガードマン見習い、って認識でいるからさ。
ボクの異常さが役に立つなら、それはそれで採算取れるし」
「ミネルヴァに聞かせてあげたいよ、その言い分」
ルテアが、少し笑う。
その笑みが、やっと「本物」になった気がして、勇吾はほっと胸をなで下ろした。
沈黙が、しばし続く。
畳の上で、掛け時計の秒針がちいさく刻む音。
外では、郡山の夜風が、安生家の屋根を撫でている。
「ねぇ、勇吾くん」
「ん」
「さっき、英さんが言ってたでしょ。
“向こうがタグを付けたなら、こっちも辿れるかもしれない”って」
「ああ」
「それって、危なくない?」
ルテアの声は、さっきより低い。
「だって、また勇吾くんの中に、あいつら入り込んでくるかもしれないじゃん」
「危ないね。めちゃくちゃ危ない」
勇吾はあっさり頷いた。
「けど、“どう危ないか”を正確に把握しておかないと、封印も破壊もできない」
それは、ミネルヴァで嫌というほど叩き込まれた理屈だ。
未知の危険は、まず分解し、構造を理解し、管理可能な形に落とし込む。
それができるまで、決して「見なかったこと」にしない。
「ボクは、そのへんの“嫌な訓練”は済ませてきちゃってるからさ。
使えるもんは、使おうと思う」
「……ほんと、そういうとこ、好きだけど嫌い」
ルテアがぽつりと言った。
勇吾は、目を瞬く。
「どっち?」
「どっちも」
即答。
「自分が傷つく覚悟を一番に前に出すから、見てて怖いの。
でも、それが“あたしのせい”をちょっと軽くしてくれるから、助かってもいる」
ルテアは、自分の膝の上で手をぎゅっと握る。
「だから、一個だけ約束して」
「なに?」
「勝手に“ひとりで”抱え込むの、やめて」
視線が、真っ直ぐぶつかってくる。
「英さんでも、李さんでも、龍さんでも、あたしでもいいから。
ちゃんと、“無理そうだったら無理”って言って」
「……難題だなぁ」
「難題なんだ」
ルテアは笑った。
「だってそれ、あたしが安生家に来たときに龍さんに言われたやつだもん。
“自分で勝手に背負い込むな。困ったら、ちゃんと助けを呼べ”って」
勇吾は、少しだけ目を丸くした。
その光景が頭に浮かぶ。
まだ今よりずっと幼いルテアが、震えながらこの家の門をくぐった時のこと。
「そっか。先輩だったんだね、ルテアさん」
「安生家の“助けを呼ぶ練習”に関してはね」
ちょっと得意げに胸を張る仕草が、どこか子供っぽくて、勇吾はつい笑ってしまう。
「じゃあ、その先輩の言うことは、素直に聞くべきか」
「そうそう」
ルテアは得意満面で頷いた。
「これは命令です。内弟子・火鳥勇吾。
“ひとりで抱え込まないこと”。よろしいか?」
「了解しました、先輩」
敬礼のジェスチャーをすると、ルテアがふふっと吹き出した。
笑い声と一緒に、部屋の空気が少し軽くなる。
勇吾の胸の印が、かすかに熱を和らげた気がした。
/*/ 指輪の独り言 /*/
客間の隅。
英が張った風の結界と、李の護符袋の二重封印の中で、ルビーの指輪はじっとしていた。
外から見れば、ただの赤い石。
魔術師の目で見ても、今は抑え込まれて、ほとんど反応を示していない。
だが、内側では、別だ。
大食鬼は、外の気配を舐めるように感じ取っていた。
客間のすぐ隣。
内弟子部屋。
そこには、さっきタグを刻んだ少年がいる。
自分の中を覗き返そうとする意思。
異常であることを自覚しながら、それでも“人間であろうとする”矛盾。
いい具合に歪んでいて、いい具合に真っ直ぐだ。
(やれやれ)
大食鬼は、指輪の内側で丸くなった。
(こりゃ、本当に長期戦だな)
本来なら、もっと手っ取り早く済ませられる獲物も山ほどいた。
弱い人形を選んで、罪悪感だけで締め上げて、さっさと器にしてしまえばいい。
それで三百年、ベルナルドを楽しんできたのだから。
でも――
(今度は、ちょっと趣向を変えてもいいか)
ルテア。
勇吾。
英。
安生家。
どいつもこいつも、“諦めない”癖がついている。
すぐに折れない。
何度折っても、そのたびに立ち上がろうとする。
観察対象としては、最高だ。
(ベルナルド。お前さ、いいところまで行ってたくせに、つまらない終わり方したからねぇ)
思い出す。
山の中。
血と火薬の匂い。
獣のような男――安生龍の拳。
(あの時は、正直焦ったよ)
器を守るはずの肉体が、容赦なく破壊されていく。
指輪は辛うじて逃げた。
ベルナルド本人は、いい感じに熟したところで食べ尽くした。
(今度はもう少し、最後まで見届けてやる)
ルビーの奥で、チロリと舌が動いた気配。
節操なく、誰にでも手を伸ばす。
けれど、その分だけ、誰が一番面白い結末を迎えるのかも、じっくり見極めることができる。
(ルテア。火鳥勇吾。氷室英。安生家の連中)
大食鬼は、静かに笑った。
(君たちの“諦めなさ”が、本物かどうか――たっぷり試させてもらうよ)
布袋の口の外側で、護符がかすかに光を放つ。
英の風が、それに重なって、指輪の中に染み込もうとする。
大食鬼は、それを「スパイス」として受け止めた。
――ねぇ。
遠くで、まだ小さな声がする。
ピンクブロンドの少女の、昔の声。
被験体として泣きながら、それでも「生きていたい」と願った声。
それはもう、指輪の餌にはならない。
彼女は、安生家で、別の味を覚えてしまったからだ。
(そこも含めて、全部、観察だ)
大食鬼は、もう一度身じろぎした。
そして、ひとまず眠ることにした。
長い長い、ゲームの二手目が打たれるその瞬間を、楽しみに待ちながら。
/*/ 夜が明けるまで /*/
その夜、安生家では誰も熟睡しなかった。
龍は結界の巡回に出て、李は護符の調整で夜更かしし、英は自宅に戻ってからもノートに長々と呪物対策の式を書き連ねた。
ルテアは、勇吾の部屋を一度出て、自分の部屋のベッドの上で丸くなる。
胸の奥には、まだざわざわとした不安が残っている。
でも、そのすぐ隣に――ほんの少しだけ、“頼れる背中”の感触も並んでいた。
内弟子の背中。
安生家の背中。
そして、自分自身の、「もう黙らない」と決めた背中。
ルテアは、枕をぎゅっと抱きしめる。
「……諦めないよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、部屋の静けさに溶けていった。
窓の外で、郡山の夜風が、安生家の屋根と結界を撫でていく。
それは、ベルナルドの実験室の風とは違う。
外なる神の吹雪とも違う。
“生活圏”の、当たり前の風だ。
夜が明ければ、また学校があって、道場の稽古があって、カフェテリアでの昼休みがある。
その日常の端っこに、赤い指輪という“異物”がぶら下がっているだけだ。
でも、その異物さえも、いつかは「日常の中で対処できるようになる」と信じられるくらいには――
安生家と、その周りには、頼れる人間が増えていた。
そうして、ルテアと勇吾と安生家の“呪物ホラー篇”は、静かに幕を開けたのだった。