/*/ 逆ハック計画 /*/
「じゃ、始めようか」
英の声は、いつもの授業中みたいに淡々としていた。
客間の畳には、昼間から描き足してきた術式の輪が二重三重に重なっている。
中心に座らされているのは勇吾。上半身はパーカー一枚で、胸元には例の赤いマーキングが、かすかに浮かんでいた。
その向かい、英の前には――布袋に入れられたルビーの指輪。
李の護符で封じられ、さらに英の風の膜で包まれている。
「本当に大丈夫なんですか、英さん」
ルテアは輪の外、李の隣で正座していた。
英は眼鏡を押し上げ、ノートのページをめくる。
「“大丈夫”って言葉、魔術師はあまり使っちゃいけないんだけどね」
「使ってよ」
「じゃあ、“最大限安全に配慮した上で、冒険する”ってことで」
「安全でも冒険でもないような……」
ルテアのぼやきを、生暖かい笑みで受け流しながら、英は勇吾の胸の印を指さした。
「火鳥くん。マーキング、まだ痒い?」
「常にかすかにムズムズしてる感じですね。
“ここにいるよ”って合図をずっと出されてるみたいな」
「その線を逆に辿る。
向こうから“こちらを喰う道”にしようとしてる回路を、“こちらから構造解析する回路”にひっくり返す」
英は、指先で空中に式を書いた。
勇吾の胸の印から、細い光の線がふわりと立ち上る。
それは天井で折れ、護符袋の中の指輪へと繋がっていた。
「李さんの護符で暴発は抑えます。
ぼくが構造式を読み解いて、無害化の再構成案を作る。
火鳥くんは――」
「“中継器”ですね」
勇吾は肩をすくめた。
「ボクのメンタルインターフェースを使って、指輪の中まで覗き込む。
デバッグ用ログ取り要員」
「そうそう。ミネルヴァ式の嫌な訓練が、やっと有効活用されるね」
「全然嬉しくない活用のされ方だけど」
軽口を交わしつつも、勇吾の表情は引き締まっている。
胸の印の周りに、英が新しい線を書き込んでいくたび、じりじりとした痒みが“意味のあるパターン”に変わっていくのが分かった。
(あ、これ。さっきの夢の感触に近い)
ベルナルドのラボ。
大食鬼の笑い声。
それらが、今度はもっと冷静に“ログ”として流れ込んでくる。
「……行きます」
英の声が、少し低くなった。
「構成式、第一層から開示。
ベルナルド由来の術式と、大食鬼本体の回路を分離――“食う側”と“入れ物側”のレイヤーを分ける」
指輪の周りに描かれた術式が、淡く光る。
布袋の中の赤が、じわりと滲んだ。
むき出しになった指輪が、畳の上に“姿を現す”。
/*/ 指輪の驚愕 /*/
(……何だい、これは)
大食鬼は、うっすらと目を開けた感覚になった。
自分の内側――ベルナルドの魂の残滓で編んだ防壁に、別種の風が吹き込んでいる。
冷たく、透明で、執拗な風。
(また、あの《風に乗りて歩むもの》かと思ったけど)
違う。
これは人間由来だ。
だが、その背後に、確かに“歩むもの”の残滓を纏っている。
「へぇ」
内側から、誰かの声が響いた。
黒縁の少年の声。
メガネ越しの目が、指輪の構造式を覗き込んでいる。
「想像以上に、雑に組んであるなぁ」
(雑?)
侮辱に、思わず牙を立てたくなる。
ベルナルドが三百年かけて積み上げた術式。
大食鬼自身が、魂を噛み砕きながら改良してきた回路。
それが今、細かなブロックに分解され、外からタグ付けされている。
「ここが“胃袋”。ここが“誘惑ルーチン”。
こっちが“後継者マーキング”……」
少年の声が、退屈そうに名前をつけていく。
(やめろ)
大食鬼は、指輪の内側で身じろぎした。
が、護符と風の膜に抑えられ、動きが鈍い。
「火鳥くん、そっちはどう?」
別の声。
内弟子の少年――マーキングされた“素材”。
「……構造は見えてます。
ベルナルドの記憶層と、大食鬼の本体層。
どっちも、ミネルヴァの実験記録みたいに“アーカイブ化”できそう」
(アーカイブ?)
嫌な単語だ。
“食う側”が“標本”扱いされるなど、あってはならない。
「再構成案、出します」
英の声が、わずかに弾んだ。
「大食鬼本体の“飢え”を削って、外側だけ残す。
毒を抜いた上で、“異常な魔力や呪物を嗅ぎつけるレーダー兼掃除機”に書き換える」
「それ、便利だなぁ」
勇吾が笑う。
「ベルナルド由来の知識層は、安生家とぼくの管理下の“データベース”に移して、指輪側からは切断。
要するに、“呪物検知用・小動物型使い魔”にダウングレードする」
(……待て)
大食鬼は、本気で焦った。
(それは、やめなさい)
“喰う側”から、“掃除道具”へ。
三百年かけて積み上げた獣の形が、ただの雑巾に変えられようとしている。
それは、死よりも屈辱だ。
(こんな終わり方、冗談じゃない)
指輪の奥で、僅かに残しておいた“貯蔵分”に火がつく。
ベルナルドが最後まで隠していた退路。
空間歪曲の偏在式。
“自分だけ逃げるための非常口”。
本来は、外界のどこか別の聖域へ飛ぶためのもの。
だが今は――
(ここから離れさえすればいい)
大食鬼は、封じられた空間の隙間を探した。
安生家の結界。
英の風。
李の護符。
その全部をかいくぐる“同調点”。
――あった。
胸の奥に、まだ残っている“泥の匂い”。
火鳥勇吾の記憶を舐めているうちに、紛れ込んできた別種の神話的残滓。
郡山のどこかにいる。
底無しの泥の子。
アブホースの落とし子。
(そこだ)
大食鬼は、その共鳴点に一気に飛びついた。
「英く――」
勇吾が何かを言いかけた瞬間、
護符袋の中で、赤い光が弾けた。
ぱん、と乾いた音。
布袋ごと指輪の気配が消えた。
「っ……逃げた!」
英の声が、初めて切羽詰まった色を帯びた。
「空間ショートカット……! ぼくの結界ごと穴を穿ちやがった!」
「場所は!?」
龍が吠える。
英は、目を閉じて風の流れを追った。
「市内……北東。
学校から少し外れた住宅街……“あの子”の家の方向」
「“あの子”?」
ルテアが聞き返すより早く、勇吾が顔をしかめた。
「――松坂、か」
/*/ 愛香の夕方 /*/
その頃。
松坂家の台所では、カレーの匂いがしていた。
「惣くん、大盛りでいいよね」
愛香は、エプロンの紐を結び直しながら、鍋をぐるりとかき混ぜた。
とろりとしたルーの海に、肉と野菜が泳いでいる。
スパイスの香りと一緒に、ほんの少しだけ“血”の匂いも混じっているのは――たぶん、気のせいだ。
リビングからは、惣一郎の声が聞こえる。
「おー、いい匂い。
なぁ愛香、この新作ゲームさ――」
「あと十五分で煮えるから、それまでに宿題終わらせて」
「ぐっ……」
短い悲鳴。
惣一郎は、ソファの上でぐだぐだとノートを開き直す。
愛香は、その様子にくすりと笑ってから、シンクにコップを置いた。
水を出そうとして――手を止める。
コップの横に、赤があった。
さっきまで、何もなかったはずの場所。
ほんの一瞬、視界の隅に“色”だけが滲んで、次の瞬間には、それは当たり前の顔をしてそこにいた。
銀の輪。
血のように濃いルビー。
愛香は、瞬きもせずにそれを見つめた。
「……ふぅん」
胸の奥――へその下あたりで、何かがざわり、と動いた。
底無しの泥。
アブホースの落とし子としての“胃袋”。
そこが、一気に食欲を訴え始める。
(あ、これ。美味しいやつだ)
直感だった。
同時に、指輪の内側からも“気配”が伸びてくる。
大食鬼は、現れた場所を見て、軽く舌打ちした。
(……やっぱり、ここか)
台所。
鍋の匂い。
リビングの人間の気配。
そして、目の前の少女から漂う、“泥の匂い”。
底知れぬもの。
形を持たない母の影。
(アブホースの子)
ベルナルドの記録にも、断片的にしか載っていなかった存在。
実際に嗅いだことも、触れたこともなかった“底無しの捕食者”。
しかし今、はっきりと理解した。
これは――危険だ。
「……君が、ベルナルドの遺産?」
愛香は、指輪に話しかけるように囁いた。
声は柔らかい。
けれど、その奥底には、冷たい評価の視線があった。
「わたしの惣くんの生命力、美味しそうって思ってる系?」
(……見抜かれている)
大食鬼は、笑ってごまかそうとした。
「いやだなぁ。
ぼくはただ、君みたいに“飢え”を理解してくれる相手を探して――」
「んー」
愛香は、くるりと指輪をつまんだ。
人差し指と親指で、ガラス玉でも拾うみたいな軽さで、ひょい、と。
ルビーの表面に、蛍光灯の光が反射する。
その光の中に、自分の顔が映っているのを、大食鬼は見た。
ぱっと見は、普通の女子高生。
ちょっとぽやっとした笑顔。
けれど、その瞳の奥には――
(……底なし)
覗き込んではいけない穴がある。
そこは、ベルナルドのラボよりも、安生家の結界よりも深い。
世界の底にある泥の海に、直結している。
「惣くんの生命力はね」
愛香は、小さく笑った。
「わたしがいちばん、美味しく食べるから」
それは、宣言だった。
ひとのものを勝手に横取りするやつ。
惣一郎を“材料”として扱おうとするやつ。
そういうものは――
「全部、“ゴミ”だよ」
次の瞬間、大食鬼は理解した。
ここで逃げなければならない、と。
空間歪曲の術式を再起動しようとしたその瞬間――
(……あれ?)
指輪は、自分の“底”が掴めないことに気づいた。
空間式が、滑る。
座標が、定まらない。
自分がどこまでが“自分”で、どこからが“外”なのか。
境界線が、泥に溶かされたみたいに曖昧になっている。
愛香は、指輪を目の高さまで持ち上げた。
「惣くんを危なくするもの」
ルビーに写る自分の瞳を、まっすぐ見つめる。
「=ご飯」
その等式を、心の中で静かに完了させてから――
指輪を、口元へ運んだ。
「ちょ、待――」
大食鬼の抗議は、最後まで言葉にならなかった。
愛香の口が、ひどく柔らかく、しかし抗いようもなく“裂けた”からだ。
見た目は、ただ唇が少し大きく開いたようにしか見えない。
しかし、指輪の感覚からすれば、それは“世界の端”がめくれたのと同じだった。
その先にあるのは、喉ではない。
泥。
肉でも臓器でもなく、形のないものが蠢く暗闇。
無数の目と口と、名もなき細胞のざわめき。
ベルナルドの三百年など、瞬きにも満たない時間に思えるほどの、長い長い“飢えの歴史”。
(嘘だろ)
大食鬼は理解した。
自分は、捕食者ではない。
ただの前菜だ。
その認識の次の瞬間、世界は“咀嚼音”になった。
――カリッ。
外から見れば、愛香が赤い飴玉か何かを軽く噛んだようにしか見えない。
だが指輪の内側では、構成式が一気に崩壊した。
ベルナルドの魂の残滓が、泥に飲まれる。
叫びも呪いも、意味を持つ前に、栄養として分解される。
大食鬼自身の“飢え”の回路も、ぐちゃぐちゃにねじられ、溶かされ、別の形に組み替えられていく。
英と勇吾がやろうとしていた“無害な使い魔への書き換え”とは、方向性がまるで違う。
もっと原始的で、本能的で、容赦がない。
“気に入らない構造は全部溶かして、自分の一部にする”という、単純にして絶対の法則。
(やめ――)
最後の抗いも、泥に飲まれた。
指輪の物理的な形は、愛香の歯の間で砕け――そして、不思議なことに、舌の上で“溶けた”。
金属が。
宝石が。
魂と術式が。
全部まとめて、“味”になった。
「……ん」
愛香は、目を細めた。
舌の上に広がるのは、鉄と血と、少しのスパイスのような味。
そして、その奥に、ざらりとした苦味。
「おいしくない」
正直な感想だった。
惣一郎の生命力の方が、よっぽど甘くて、身体に馴染む。
でも――
「ま、栄養にはなるか」
喉の奥へ飲み込むと、へその下の“泥”が、嬉しそうに騒いだ。
異物を分解し、構造式を片っ端から噛み砕き、必要なところだけを“自分の使い方”に組み替えていく。
しばらくして、胃のあたりがぽかぽかと温かくなった。
「……あ」
愛香は、自分の右手を見る。
指輪はない。
何も持っていない指で、ただ空気をつまんでいるだけだ。
台所のシンクには、さっきまで赤いものがあった気配も残っていない。
「変なの」
独り言をこぼしながら、愛香はカレー鍋の蓋を開けた。
「惣くーん、ご飯できるよー」
「はーい!」
リビングから、のんきな返事。
その声を聞きながら、愛香は胸の奥で小さく呟いた。
(惣くんは、わたしのだからね)
それは“所有欲”であり、“誓い”でもあった。
惣一郎を危うくするものは、全部食べる。
全部泥に沈める。
そうやって、この“生活圏”を守っていく。
アブホースの落とし子としての本能と、
惣一郎の彼女としての感情が、そこで完全に一致していた。
/*/ 後日談・解析不能ログ /*/
「……消えた?」
英のノートには、そう書かれていた。
安生家の結界に残った微細な魔力の痕跡を、風で何度もなぞりながら導き出した結論。
「完全消滅、ってこと?」
ルテアが、不安げに覗き込む。
「指輪の構成式は、ほぼ跡形もなく分解されてる。
ベルナルドの残滓も、大食鬼本体の回路も、もはや“呪物”としてのまとまりを成していない」
「破壊、成功ってことじゃろ」
李が言った。
英は、眉をひそめる。
「成功……と言っていいかどうか。
ぼくたちがやろうとしてた“無害な使い魔への書き換え”とは、全然違う波形なんですよ」
「どう違う?」
勇吾が尋ねる。
英は、少しだけ言葉を選んだ。
「もっと……原始的で、“消化”に近い。
構造式ごと胃の中に突っ込んで、噛み砕いて、必要なところだけ吸収して、残りは出す、みたいな」
「……あぁ」
勇吾は、心当たりありすぎて頭を抱えた。
「そっち経由で行ったか」
「やっぱり、松坂さんのところ?」
ルテアの問いに、英はうなずく。
「痕跡的には、そう。
ただ、今の松坂さんからは、危険な呪物の気配は感じない。
あるのは――」
「底無しの泥の、いつもの気配?」
「まぁ、そうですね」
英は、苦笑するしかなかった。
「とりあえず、“ベルナルド案件”としての危険は消えたと見ていい。
大食鬼も、魂ごとどこかの胃袋に片付けられた」
「どこかって、あの子の腹ン中じゃろうが」
李が肩をすくめる。
「安生家の外にも、たいした掃除屋がおるもんじゃ」
ルテアは、胸を撫で下ろした。
「……よかった、のかな」
「少なくとも、あの指輪にこれ以上ルテアさんや勇吾くんが触る必要はなくなった」
英は、そう締めくくった。
「“解析不能だけど、脅威度はゼロ”っていうログを残しておくよ。
“松坂愛香の胃袋”って注釈付きで」
「胃袋って書かないであげて」
ルテアが苦笑する。
勇吾は、どこか遠い目をして呟いた。
「……ボク、今度から松坂さんにあんまりケンカ売らないようにしよ」
「売ってたの?」
「理屈の上では、潜在的敵性存在なんですけどねーとか、つい言いたくなってたんだよね」
「やめとけ」
龍の一言で、場に笑いが広がる。
赤い指輪はもう、この家にはない。
ベルナルドの呪いも、大食鬼の飢えも、ひとまずは終わった。
ただその代わり、“惣一郎を危うくするものは全部食べる存在”という別種の脅威(=守護者)が、この街のどこかで今日も元気にご飯を作っている――
それを知っているのは、今のところこの場の数名だけだった。