◆ 逢瀬学園・理事長室 ◆
放課後の逢瀬学園は、部活の掛け声と、帰り支度をする生徒たちのざわめきで賑やかだった。
その喧噪から、ひと足だけ離れた最上階――「関係者以外立入禁止」とプレートの掲げられたフロアの奥に、理事長室はある。
重たい木の扉を、こんこん、と二回ノックする。
「どうぞ」
落ち着いた男の声。
愛香は、少しだけ深呼吸してからドアを開けた。
「失礼しまーす……」
中は、静かだった。
大きな窓から斜めに夕陽が差し込み、壁一面の本棚に影を落としている。
応接用のソファと小さなテーブル、その奥のデスクに座っているのは――
「やぁ、松坂さん。珍しいね」
伊集院 貴也。
逢瀬学園の理事長にして、「この街の裏事情」をよく知る男。
柔らかいスーツ姿に、いつもの穏やかな笑み。
けれど、その目の奥は、相変わらず何も見逃さない光を湛えていた。
「定期面談にはちょっと早いはずだけど……今日は何の相談かな?」
「あのですね」
愛香は、扉を閉めてから、そそそ、とソファまで歩いた。
腰を下ろす前に、一拍だけ迷う。
――“理事長室”で話す内容かどうか。
いや、むしろここ以外で話しちゃいけない内容な気もする。
そんなことを考えつつ、ぺこりと頭を下げた。
「なんか変な指輪」
「うん?」
「ベルナルドの遺産って言うんですが飛び込んできて、惣くんに危害を加えそうだったので食べちゃったら、思ったより栄養があって」
そこで一度言葉を切って、服の裾をきゅっと握る。
「身体のサイズが変わりそうなんですけど、どうすれば良いですか?」
理事長室の空気が、半秒ほど固まった。
貴也は、目を瞬き――それから、ふっと笑った。
「……順を追って話してもらえるかな?」
「はい」
そこから数分間、愛香は一気に説明した。
台所に突然現れた赤い指輪のこと。
“惣くんの生命力を狙ってるな”って直感したこと。
反射的に「ご飯認定」して、そのまま食べてしまったこと。
飲み込んだあと、お腹の中で何かが分解されていく感覚があったこと。
「で、ですね」
ひと通り話し終えてから、愛香は自分の腕を見下ろした。
「なんかこう……全体的に、栄養状態が良すぎるっていうか。
いつもの“惣くん補給”だけじゃありえない感じで、身体の中にエネルギーが余ってて」
「余剰魔力と、余剰栄養、だね」
「はい。それで」
もじもじと足元でつま先を揃えながら、正直に言う。
「身長とか、体格とか……勝手に変わっちゃいそうで。
あんまりガラッと変わると、惣くんがびっくりしちゃうかなって」
そこまで聞いて、貴也は深く椅子の背にもたれた。
しばし、考えるように天井を仰ぐ。
「――なるほど。状況は分かった」
「怒ってます?」
「いいや。むしろ、“正しい対処”に近いと思っているよ」
穏やかな声。
「ベルナルドの遺物を、あのまま放っておけば、いずれ誰かを喰った。
君はそれを自分の“胃袋”で止めた。
アブホースの落とし子としては、ある意味最適解だ」
「でも、そのせいで身体が……」
「そこだね」
貴也は、軽く指を組んだ。
「まず前提として――エネルギーはどこかに行かなきゃならない。
魔力も栄養も、“保存則”があるんだ」
「保存則……」
「ゼロにはならない。
ただ、形を変えてどこかに溜まるか、仕事として使われるか、外に捨てられるか」
ゆっくりと、説明するように続ける。
「君の中の“泥”は、かなり優秀な変換装置だ。
危険な呪術式はほとんど分解されている。
残っているのは、ざっくり言えば“高品質な燃料”だよ」
「燃料……」
「その燃料を、どう使うか」
貴也は、そこで少しだけ口元を緩めた。
「――惣一郎くんともども、身長を五センチほど伸ばせば良いんじゃないかい?」
「えっ」
予想外の方向から飛んできた案に、愛香は変な声を出した。
「ご飯の話から、いきなり成長戦略に……」
「成長期だろう? 二人とも」
貴也は、さも当然のように言う。
「骨と筋肉に、余剰分を流してしまう。
骨密度を上げて、背をすらりと伸ばして、ついでに関節まわりの負荷バランスも整える。
“呪物の栄養”を、全部“健全な成長”に変換するんだ」
「そんなこと、できます?」
「君ならできる」
きっぱりと言われて、愛香は目を瞬いた。
「アブホースの子は、形の管理が上手い。
自分の体も、他人の体も、“どう変えるか”を無意識に選んでしまえる」
貴也は、少しだけ真面目な口調になる。
「だからこそ、選びなさい。
“どんな変化なら惣一郎くんを危うくしないか”。
“どんな成長なら、自分で見ていて誇れるか”」
「惣くんを危うくしない……」
「急に十センチ二十センチ伸びたら、さすがに彼も驚くだろう?
制服も全部買い替えになるしね」
「それは困ります……」
「なら、五センチ」
ほんの少しだけ、冗談めかして笑う。
「彼と並んだとき、“ちょうどいい”と思えるくらい。
将来、肩を並べて歩いたときに、無理なく腕を組めるくらい。
その程度に、ゆっくり使ってしまえばいい」
「……」
想像してしまって、顔が熱くなる。
惣一郎と並んで歩く自分。
ほんの少しだけ、今より背が高くなっている自分。
そのイメージが、やけにリアルに浮かんできた。
「それとも、それは好みではないかい?」
「い、いえ。あの。好みです」
即答してしまって、ますます顔が熱くなった。
「じゃあ、決まりだね」
貴也は、満足そうにうなずいた。
「余剰燃料の優先配分先は、“身長+骨格+基礎筋力の底上げ”。
過剰な“局所的な変化”――例えば、どこか一部だけ極端に大きくなるとか――は、意識的に抑えなさい」
「…………はい」
そこは、さすがにちょっと恥ずかしくて目をそらした。
「それから、もうひとつ」
「まだあるんですか」
「惣一郎くんにも、少しはお裾分けしてあげなさい」
さらっと、とんでもないことを言う。
「えっと、惣くんに、呪物の栄養を?」
「君の中を完全に安全な形にしてから、だよ」
くす、と笑いながら続ける。
「彼も、今後“この街の真ん中”で生きるつもりなら、ある程度“異常さ”に耐えられる身体が要る。
君がほんの少しだけ、生命力の貯金を増やしてあげれば――危険な局面で、踏ん張りが利く」
「惣くんを、強くするために?」
「そう」
理事長の目が、わずかに細くなる。
「君は、彼の“守護者”でもあるんだろう?」
「……はい」
胸の奥で、はっきりと頷く何かがあった。
アブホースの落とし子としての本能と、
惣一郎のことが好きな女の子としての感情が、同じ方向を指している。
「じゃあ、その役目を、誇っていい」
静かな声。
「“惣一郎くんを危うくするものは食べてしまう”という在り方は、確かに恐ろしい。
けれど、それを“守るための牙”にしている限り、誰も君を責められない」
愛香は、ぎゅっと手を握った。
「……分かりました」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと“惣くんの隣に立てる”身体にします。
その上で、惣くんが危なくなりそうなものは、今まで通り全部食べます」
「頼もしいね」
貴也は、満足げに笑った。
「念のため、安生家と氷室くんには、こちらから報告しておくよ。
“ベルナルドの遺物は、松坂家の夕飯に消えた”って」
「夕飯って言わないで下さい……」
愛香が思わず抗議すると、理事長室に、穏やかな笑い声が広がった。
窓の外では、夕陽が沈みかけている。
逢瀬学園のグラウンドには、まだ部活の声が響いていた。
そのどこかで――
惣一郎は、何も知らずに宿題をサボる算段でもしているのだろう。
(惣くんが、何も知らないままで笑っていられるように)
愛香は、胸の奥でそっと決意を固めた。
呪物の栄養も、アブホースの泥も、
ぜんぶぜんぶ、自分の中で“生活圏を守る力”に変えていく。
その第一歩として――
(とりあえず、背、五センチ。惣くんとセットで)
ちょっとだけ背伸びをする未来を思い浮かべて、
愛香は、理事長室をあとにした。