◆ 保健室前の廊下・身長測定のあと ◆
「……っしゃあ!」
保健室前の廊下に、妙に景気のいい声が響いた。
「そんなに?」
検診の列から外れた愛香が、メジャー表を眺めている惣一郎の背中に近づく。
壁に貼られた身長・体重の一覧。
惣一郎の名前のところに、ボールペンで追記された数字。
「ほら見ろ、愛香!」
惣一郎が、どや顔で振り返った。
「百六十八センチ! ついに“平均よりちょい高い男子”の仲間入りだぞ!」
「ほんとだ……」
愛香は、ふふっと笑う。
「去年まで“ちっちゃめ男子”って言われてたのにね」
「うるせぇ。あの頃はあの頃で味があっただろ」
「はいはい、惣くんはいつでも惣くんだよ」
そう言いながら、愛香はそっと彼の隣に並んでみた。
見上げる角度が、ほんの少し変わっている。
いつもより、すこしだけ“遠く”なった額の位置。
(うわ、本当に伸びてる……)
じんわり実感すると、胸の奥がちょっとだけくすぐったくなった。
「そういえばさ」
惣一郎が、にやっと笑う。
「お前も、伸びたよな?」
「え」
図星を刺されて、愛香の肩がぴくっと跳ねた。
「さっき保健の先生、『松坂さん、去年からぐんと伸びたね』って言ってたろ。
オレの前で普通に言われてたからな。聞こえてたからな」
「う……」
愛香は、耳まで赤くなる。
隠しようがない。
身長も、その他も――この一年で“ぐん”と成長してしまった。
「で、何センチ?」
「……ひみつ」
「なんでだよ」
「だって、惣くんにだけは内緒にしておきたい気もするし……教えたい気もするし……」
「どっちだよ」
惣一郎が笑いながら突っ込む。
愛香は、少しだけ視線を落として、覚悟を決めたように口を開いた。
「身長はね、五センチ伸びました」
「おお、そりゃすご――」
「で、それに釣られて、色々サイズが変わっちゃって」
声が小さくなる。
「制服のスカート丈も変えなきゃだし、ブラウスもきつくなってきちゃったし……
その……その、下着も、サイズ合わなくなって」
最後の一言は、ほとんど囁きだった。
惣一郎の脳内で、一瞬だけ何かがショートする。
「し、下着……」
「だから」
愛香は、顔を真っ赤にしながらも、ちゃんと最後まで言った。
「全部、買い直しなんだよね。
今度、制服のサイズ測りに行くついでに……下着も見に行かなきゃって」
惣一郎の頭の中で、「制服屋」と「ショッピングモール」と「下着売り場」という単語が、雑につながる。
「…………」
「…………」
微妙な沈黙。
先に口を開いたのは、惣一郎の方だった。
「……制服のサイズ測りに行くついでに、愛香の下着も見てこよう!」
言ってから、ほんのコンマ一秒遅れて、自分で自分の発言に驚く。
(今の、“見る”の主語オレだよな?
落ち着け伊東惣一郎、本気で何を言ってんだ)
愛香は、ぽかんと彼を見つめ――
それから、じわじわと頬を染めていった。
「……惣くんも」
「う、うん」
「あたしと一緒に」
「お、おう」
「下着、見てくれるの?」
反則級の破壊力を持った確認が飛んでくる。
“いやそういう意味じゃなくてだな”と訂正するチャンスは、たぶんここだった。
けれど惣一郎は、そのチャンスを華麗にスルーした。
「お、おおおおうよ!」
妙に声が裏返る。
「べ、別に変な意味じゃなくてだな!?
その、ちゃんとサイズ合ってるかとか、店員さんに連れてってもらうとか、荷物持ちとか、そういう――」
「ふふ」
愛香が、小さく笑った。
恥ずかしさと嬉しさが半分ずつ混ざった、くすぐったい笑み。
「ありがと、惣くん」
「……え」
「惣くんが一緒にいてくれたら、心強いもん。
なんか、こういう“女の子っぽい用事”って、ひとりで行くのちょっと緊張するから」
言いながら、彼の袖をちょん、とつまむ。
「だから、荷物持ちと、待ってる係と――
あと、ちゃんと“似合ってるよ”って言ってくれる係、お願いしてもいい?」
「……それ、仕事多くない?」
「惣くんだから出来る仕事、ってことで」
にこっと笑う。
(あーもう)
惣一郎は、頭をかきむしった。
「分かったよ! やりますよ!
オレは伊東惣一郎、“松坂愛香サイズアップ事案”全面サポート係に就任しました!」
「名前がひどい」
二人して笑う。
廊下の向こうから、次のクラスの検診が始まるざわめきが聞こえてきた。
去年より少し高くなった天井。
去年より少し遠くなった、惣一郎の肩の位置。
それでも、袖をつまめば、ちゃんとそこにいてくれる。
(惣くんも、あたしも)
愛香は、心の中で小さくつぶやいた。
(一緒に、ちょっとずつ“サイズアップ”していけばいいんだよね)
それが、ベルナルドの呪物が残した“栄養”の、いちばん健全な使い道だと――
本人たちは知らないまま、ちゃんと選び取っていた。