その夏に少年を襲った一つ目の事件とは!!
深遠来訪
/*/ 夏、深紅の戦慄(回想) /*/
グレイシア・ベイから戻ったオレは、短い夏休みを取った父さんが母さんと待つ別荘へ向かった。
年じゅう何度も使うわけでもないのに別荘なんて……とオレは思う。けれど父さん達にしてみれば、日常から切り離された場所で、ゆっくり過ごしたいのだろう。
母さんの趣味で建てた洒落たペンション風の建物は、それほど大きくはないが、親子三人で過ごすには十分な広さだった。
別荘に着いた頃には、夏の太陽はすでに地平線の下。
久しぶりに食べた母さんの料理は――やっぱり、どうしようもなく美味しかった。
食後、リビングで珈琲を飲みながら、旅行の土産話に花が咲く。
母さんは「今度は彩女ちゃんと行ったら?」と茶化し、応えに詰まるオレを面白がりながら、カップを手にキッチンへお代わりを淹れに行った。
父さんとは進路の話になった。
「大学に進んで、父さんの後を継いでくれたら嬉しいな。……まあ、父さん個人の希望だけどな。他にやりたいことがあるなら、そっちを優先しろ」
父さんはそう言って笑った。
今の学力なら、どこの大学だって狙えるだろう。
けれど、あと二年弱で自分の進む道を決められるのかと思うと、不安が胸をよぎる。
趣味はいくつもある。だが「これで食っていく」と胸を張れるものは、まだ何一つない。
父さんみたいに「普通に仕事をする自分」が、どうしても想像できないのだ。
考え込んでいたオレがふと顔を上げたとき、キッチンから母さんが戻ってこないことに気づいた父さんが、声をかけようと口を開いた――その瞬間。
悲鳴。
ガラスが割れる音。
何かが倒れる鈍い音。
そして、それ以外の「何か」が混じった音が、キッチンから響いた。
「母さん!!」
血相を変えて父さんと一緒に駆け込んだキッチンで、オレが目にしたものは――
床に倒れた母さん。
その上に覆いかぶさる「何か」。
カエルの卵を思わせる、半透明でまだら模様の、ぶよぶよとした肉の塊。
熊のように大きな、かろうじて人型を保った“分からない”生き物。
背中や腹、腕の下からは鉤爪が突き出し、その腕を動かすたびに自分の脇腹を引き裂き、どろりとした半透明のピンク色の液体が傷口から零れ落ちる。
首や脚や股間には、二つ穴の開いた鼻のような器官が飛び出し、弾力のない半透明の肉は腐り落ちるようにところどころ崩れ、その隙間からは目玉のようなものが幾つもぶら下がっていた。
頭に当たる部分には何も無い。
代わりに肩口に左右非対称の巨大な肉コブが突き出ている。
その片方――左側の肉コブには、肉叩きでグズグズに柔らかくされた人間の顔が貼りつくようについていて、その鼻からは絶えず泡が噴き出し、ゆるんだ口からは涎を垂らしながら、意味を成さない言葉をぶつぶつと呟いていた。
全身の体毛の代わりに、細く針のような触手が何十本も疎らに伸びている。
その針のような触手で母さんの身体をずたずたに引き裂き、赤く濡れた一本一本の中を、母さんの血が「流れて」いく。
そいつは、まるでストローで啜るみたいに、命を吸っていた。
母さんの手足は、壊れた人形のように投げ出されていた。
こちらを向くはずのない首が不自然な角度で折れ曲がり、虚ろな瞳が、まっすぐオレだけを見ている。
――なんだろう?
これは、なんだ?
オレは、どうすればいい?
どん、と強く突き飛ばされた。
オレの身体は壁に叩きつけられ、息が詰まる。
振り返ると、そこには父さんがいた。
今まで一度も見たことがないほど強い意志を宿した、父さんの瞳。
「逃げろ」
たった一言。
母さんの血を全身に浴び、内側から赤く染まった怪物が、ゆっくりとこちらに身体を向ける。
オレに背を向け、真正面からそれと向き合う父さん。
大きな背中。
オレを育ててくれた、その背中。
父さんの背中が、怪物の姿をオレの視界から隠す。
父さんの背中が、オレの姿を怪物の視界から隠す。
オレは頷き、玄関へ駆け出した。
――どうしてだろう。
膝が震えて、脚がもつれる。何度も転びそうになる。
震える手でチェーンロックを外し、鍵を外す。
背後から、父さんの悲鳴。
柔らかいものを壁に叩きつけるような、嫌な音。
扉を開け、振り返る。
まだら模様の半透明の、皮膚の無い肉むき出しの腕。
その腕に壁へ押しつけられ、全身を針のような触手で穴だらけにされた父さんと、目が合った。
「……に…げ……ろ……」
喉かどこかに穴を空けられたのか、ひゅーひゅーと空気の漏れる音を立てながら、父さんは途切れ途切れに言う。
ひゅーひゅー、その音は冬の電線の唸りに似ていた。
オレは頷き、そのまま駆け出した。
――独りだった。
どうして走っているのだろう。
肺は鍛冶場のふいごみたいに、ぜいぜいと悲鳴を上げている。
わき腹が刺すように痛く、頭はくらくらと揺れている。
それでも走り続ける。
母さんの手足は、壊れた人形のように投げ出されていた。
こちらを向くはずのない首が、ありえない角度で曲がり、その虚ろな瞳は――確かにオレだけを見ていた。
これは、なんだろう?
半透明でまだらの、肉むき出しの腕。
壁に押し付けられた父さんの身体。
針のような触手に穴だらけにされた父さんと、最後に交わした視線。
「……逃……げ……ろ……」
ああ、そうか。
父さんが逃げろって言ったから。
だから、オレは走っているのか。
全身を啜り尽くした母さんの血で、内側から赤く染まった「何か」。
オレに背を向け、その怪物と対峙した父さんの背中。
あれが追いかけてくる。
だからオレは逃げる。
母さんみたいに壊されないように。
父さんみたいに、穴だけの人間にならないように。
父さんと母さんは?
明日になれば夏休み。親子三人の時間が始まるはずだった。
それまでに、走って逃げなくちゃ。
逃げる。逃げる。
逃げる。逃げる。
街灯が明るすぎる。
こんなに明るかったら、見つかってしまう。
石を投げつけると、ガラスが砕けて光は消えた。
逃げる。逃げる。
逃げる。逃げる。
コンビニが明るい。
こんなに明るくては、逃げ切れない。
石を投げつけてガラスを割る。
それでもまだ店内は完全には暗くならない。
店から店員と客が飛び出してくる。
――何?
駄目だ、こんなに明るくちゃ、逃げられない。
邪魔を、しないでくれ。
店員が持っていたホウキをひったくり、三人まとめて叩きのめす。
倒れてもまだ動こうとするから、何度も蹴り飛ばした。
店内に入り込み、天井の蛍光灯を手当たり次第に叩き割る。
陳列棚の照明も壊し、ブレーカーを落として看板の明かりも消す。
これで、大丈夫。
良かったね。
君たちも、あれに追いつかれずに済むかもしれない。
でも、オレはまだまだ走らなきゃならない。
逃げる。逃げる。
逃げる。逃げる。
道の向こうに、車が止まっている。
眩しいライトに照らされ、逆光の中に背の高い人影が立っていた。
――大きい。
あの化け物も大きかったから、きっと危ない。
別の道を選ぶ。
ごうごうと音を立てる肺。
痙攣する横隔膜を無理やり動かし、全身に酸素を押し込んで筋肉を動かす。
筋肉に溜まった乳酸がぷちぷちと音を立てているような気がするが、肺の唸りがうるさくてよく聞こえない。
ブロック塀に手をかけ、一気に飛び越える。
他人の家の庭を駆け抜ける。
(ごめんね。でも、オレが明日に行かないと、父さんと母さんは夏休みができないんだ)
もう一度、塀を飛び越えた先に――彼がいた。
服の上からでも分かる、鍛え抜かれた筋肉の筋。
刀のように研ぎ澄まされた長身。
百九十センチに迫る高身長のせいで、その身体のバランスは完璧に近い。人間というより彫像の理想像。古代ギリシャ人なら、迷わず「魔物を倒す英雄」のモデルに選ぶだろう。
短く刈り込まれた髪。
――でも、邪魔だ。
まだ手に握りしめていたホウキを大上段から振り下ろす。
落下の勢いに、壁を蹴った踏み込みを重ねる。
音の数倍の速さで振り下ろされた切っ先は、確かに彼の頭蓋を粉砕――
――するはずだった。空を切った。
どん、と鈍い衝撃。
懐深く踏み込んだ彼の拳が、正確にオレの水月を捉える。
明日は……まだ……。
どくん。
どくん。
どくん どくん どくん。
――場面が巻き戻る。
グレイシア・ベイから帰ってきたオレは、短いながらも夏休みを取った父さんが母さんと待つ別荘へ向かった。
年に何度も使わないのに別荘なんて……とオレは思っているけれど、父さん達にしてみれば日常から離れた場所でゆっくり過ごしたいのだろう。
洒落たペンション風の建物は母さんの趣味。
それほど大きくはないが、親子三人には十分な広さ。
別荘に着いたのはすでに夏の太陽も地平線の下へ沈んだ時間。
久しぶりの母さんの料理。
美味しかった。
リビングで珈琲を飲みながら、旅行の土産話に花を咲かせる。
母さんは「今度は彩女ちゃんと行ったら?」と笑い、オレが返事に詰まるのを見ながら、顔だけこちらに向けて、しかし背中をこちらに向けたままキッチンへと下がっていった。
父さんとは進路の話。
「大学に進んで父さんの後を継いでくれたら嬉しいな。……まあ、父さんのワガママだけど。他にやりたいことがあるなら、気にするなよ」
父さんは、ひゅーひゅーと笑った。
――ああ、父さん。
喉に穴が開いてる。
バンソウコで塞がないと。
今の学力なら、どこだって行ける。
けれど、今はまだ決められない。
あと二年弱で決められるだろうか。不安になる。
他にやりたいことがあるのかと聞かれれば――趣味はいくつもある。
でも、やっぱり答えに詰まってしまう。
父さんみたいに「普通に仕事をする自分」が、どうしても想像できないのだ。
考え込んでいたオレから視線を上げ、戻らない母さんに、穴だらけの父さんが声をかける。
ギクシャクと手足を動かしながら、母さんが戻ってくる。
――ああ、母さん。
首が折れているよ。
ギプスをつけて、ちゃんと治さないと。
二人とも、どうしてそんなに血まみれなんだろう。
オレのハンカチだけじゃ、とても止血しきれない。
救急箱から止血帯を全部使い切り、寝室からシーツを持ってきて、すべてが真っ赤に染まっても、血は止まらない。
「……二人とも、こんなになってどうするの? 今日から夏休みなんでしょう?」
ねぇ。
笑ってないで、答えてよ――。
もうこの時点でSAN値直葬されてるのでは……