◆ 夜の湖畔・星を映さない場所 ◆
花火が終わるころには、空はすっかり夜の色になっていた。
キャンプ場の明かりから少し離れた湖岸に、レジャーシートを一枚。
そこに、ごろんごろんと全員が好き勝手に寝転がる。
「おー、見える見える。天の川」
惣一郎が両手を広げて、頭上の白い帯を指さした。
「低地のわりにはよく見えますね。湖面が余計な光を吸ってくれてるのかも」
玲子が、少し嬉しそうに解説する。
「で、あっちが夏の大三角で――」
「デネブとベガとアルタイルだっけ?」
「そうです。さっきも言ったじゃないですか、惣くん」
「覚える気が薄いからね、惣くんは」
愛香が笑って、惣一郎の肩をつつく。
浴衣組は帯が崩れるのを嫌って、シートの端に正座や横座り。
甚平組は遠慮なく仰向けになって、星をただ見上げていた。
湖は、すぐそこだ。
昼間はきらきらと光を跳ね返していた水面が、今は闇に溶けている。
(綺麗だな)
青見は、ゆっくりと息を吐く。
頭上の白い帯。
遠くの山の稜線。
岸辺に寄っては返す、ささやかな波の音。
――ふと、視線を横に滑らせたとき。
違和感が、そこにあった。
湖面が、星を映さない。
全部じゃない。
ほんの一部分。
風で揺れる反射の隙間でもない、妙に“輪郭のはっきりした黒さ”が、そこにあった。
(……ん?)
目を凝らす。
波紋のパターンからして、ただの影にしては“動き方”が不自然だ。
風向きとも合っていないし、雲の影ならもっと大きく、ゆっくり流れていくはずだ。
その黒い楕円だけが、
周りの水面とは別世界のものみたいに、星のきらめきを拒んでいた。
(……嫌な感じだな)
胸の奥が、わずかに冷たくなる。
あの夏の日に味わった、“真紅の戦慄”――
皮膚の内側から、焼き針みたいに突き上げてきた、鋭くて直線的な恐怖とは違う。
これはもっと、粘っこい。
じわじわと、足首から絡んでくるような、湿った気配。
(こっちは……音だな)
耳を澄ます。
湖の波音の向こう側で、何かがこすれるような、ひずんだ和音の名残を、背骨が拾っている。
“闇を呼ぶメロディ”のときに聞いたものとも違う。
あれは明確に「歌」だった。
旋律があって、意志があって、“呼んでいる相手”がいた。
今、湖面の向こうから漏れてくるのは――もっと曖昧だ。
意志というほど固まっていない、にごったハミングみたいなもの。
けれど、直感は告げていた。
(同じだ。“あっち側”の音だ)
分類は違っても、出自は同じ方向。
こっちの世界じゃない方角から、ちょっとだけはみ出してきた“何か”の気配。
「……青見?」
隣から、小さな声がした。
振り向くと、彩女が首だけこちらに傾けている。
「どうしたの。変な顔してる」
「いや、ちょっと」
一瞬だけ迷ってから、青見は肩をすくめた。
「波、見てた」
「波?」
「……なんか、あそこだけ、星映してなくね」
あえて軽く言ったつもりだったが、彩女の目がすっと細くなる。
「どこ?」
その視線を追うように、彩女も湖面を見やる。
――彼女にも、“それ”は見えた。
「……気持ち悪」
ぽつり、と漏らす。
その瞬間、湖面をなでていた風の向きが、ほんの少しだけ変わった気がした。
◇
同じころ。
愛香は、皆と少しだけ離れた場所に座っていた。
湖と、星と、友達たちを、まとめて視界に収められるポジション。
(……うん)
夜の湖の匂いを、鼻からではなく、「違うところ」から吸い込む。
湖の底から、すこしずつ上がってきている“味”があった。
人間が感じるには薄すぎる。
けれど、彼女にとっては充分すぎるくらいにはっきりとした、異物のフレーバー。
(ETO系、か……)
舌の上で、分類するみたいに転がす。
ざらつく金属っぽさ。
ぬるりとした泥の粘度。
そこに、低く響くような位相の揺れ。
共通規格のマークみたいに、「ああ、こっち側じゃないね」と分かる印がある。
(同じテーブルに座ってる、お行儀の悪いお客さん……くらい、かな)
テーブル――それは、世界。
今、この湖のテーブルには、人間たちが座っている。
BBQして、花火して、星を見て、笑っている客たち。
そこへ、向こう側から、勝手に水面をつついてくる“別口”がいる。
(テーブルひっくり返されると困るんだけど)
やれやれ、と心の中で肩をすくめる。
ETO系は、嫌いというほどではない。
ただ、マナーが悪い。
皿の境目を平気で跨いでくるし、他人のグラスに勝手に指を突っ込んでくる。
放っておけば、そのうちテーブルクロスごと持って行こうとさえする。
(惣くんの分は、絶対渡さないけどね)
ちらり、と横目で惣一郎を見る。
甚平の帯が少し緩んで、首の後ろが無防備に出ている。
そこに宿っている“成長分”は、彼女だけのものだ。
(……あれは、わたしのご飯)
柔らかく微笑みながら、湖面へ視線を戻す。
星を映さない黒い楕円。
そこから、もやもやと、薄い影が水面近くに浮かび上がっている。
愛香は、そっと片手を膝の上に置いた。
指先が、何もない空気をすくう。
人間の目には見えない、“もうひとつの層”から、
湖面近くにまとわりついていた影だけを、ひとかけら、指先でつまみ上げる。
(いただきます)
口には出さない。
代わりに、心の内側でだけ、ちいさな祈りみたいに言葉を置く。
影は、舌の上で一瞬だけ形を持つ。
粘っこいのに、すぐほどける。
ぬるいのに、奥の方で冷たい。
(あー……やっぱりINA系。味、悪いなぁ)
顔には出さずに、心の中でお茶を飲んで口直しするイメージを足す。
完全には消さない。
そんなことをすれば、向こうから“おかわり”が来るだけだ。
だから、ほんの少しだけ食べて、薄めておく。
テーブルにこぼれたワインを、ナプキンでそっと押さえるくらいの加減で。
(はい、これでよし)
湖面の黒い部分は、じわじわと輪郭を曖昧にし始める。
星をはね返さない“穴”みたいだった場所に、
少しずつ、周囲の揺らぎが混ざり込んでいく。
「――愛香?」
背後から、惣一郎の声。
「んー?」
振り返ると、線香花火の束を両手に持った惣一郎が、微妙な顔をして立っていた。
「なんか、難しい顔してたからさ。お腹痛いのかと」
「ふふ」
愛香は、その心配にだけは素直に笑う。
「大丈夫だよ。
ちょっと“テーブルマナー悪いお客さん”がいるな、って思っただけ」
「は? なにそれ」
「ううん、なんでもない」
立ち上がって、惣一郎の隣に並ぶ。
湖の方を見ると、さっきよりもずっと自然な“暗さ”になっていた。
星の反射が、ところどころで揺れている。
(……このくらいなら、いい)
愛香は心の中で、そっと区切りをつけた。
ETO系は、まだ“こちら”を本気で見てはいない。
ただ、向こうのテーブルから、ちょっと匂いを嗅ぎに来ただけだ。
それなら――
彼女はそのたびに、すこしだけ“影”を齧って、テーブルを守り続けるだろう。
惣一郎の成長分を、誰にも渡さないと決めたみたいに。
「愛香?」
「なぁに?」
「ほら、あっちで玲子が“夏の大三角クイズ”始めてる。
お前、絶対間違える側だろ。参加してこいよ」
「ひどくない?」
文句を言いながらも、愛香は素直に惣一郎の腕に並んで歩き出した。
背後で、湖の波がひとつ、大きく岸に寄せては返す。
水面の黒さは、もうただの夜の色に紛れていた。