◆ 翌朝・ボート遊びの前に ◆
朝。
湖畔の空気は、夜よりもずっと冷たくて、澄んでいた。
「さみぃ……」
タープの下でストレッチをしながら、惣一郎が肩をすくめる。
「でも気持ちいいね」
彩女は、ジャージの上着のファスナーを喉元まで上げて、湖を見た。
水面は、信じられないくらい穏やかだ。
昨日、夕暮れに見た“黒い穴”みたいな印象は、すっかり薄まっている。
「朝ごはん食べたら、ボート行くぞー」
クーラーボックスの前で、胆がパンと手を叩いた。
「さっき管理人さんに確認した。手漕ぎボートとペダルボート、両方空いてる」
「やった!」
ルテアと友香のテンションが一気に上がる。
紙皿の上では、ホットサンドとスクランブルエッグ、簡易スープ。
英と愛香が早起きして準備した、“武闘派合宿にしてはちゃんとした朝食”だ。
「――あ、それと」
紙コップのコーヒーを持った桜が、声のトーンだけ少し変えた。
「ボートの前に、大事な話な」
全員が自然と顔を上げる。
「先週、この湖で湖水浴客が一人、行方不明になってる。
新聞にも出たから、知ってるやつもいるかもしれんが」
「あ……ニュースで見ました」
玲子が、小さく頷いた。
「まだ見つかってないんですよね……?」
「そうだ。だから管理側もピリピリしてる」
桜は、湖の方を顎で示した。
「遊泳区域から外れた場所に行かないこと。
ボートで沖に出るときは、必ずライフジャケット着用。
揺らして遊ばない。立ち上がらない。ふざけて突き落とさない」
「惣一郎」
彩女と愛香の視線が、同時に惣一郎に刺さる。
「なんで名指し!?」
「心当たりがあるからでしょ」
英がさらりと言った。
「ここの湖は、天気が急変すると、沖の方が一気に荒れることもあります。
“いつも通り”のつもりで油断しないこと」
「はーい」
全員の返事がぞろぞろと続く。
――その横で、愛香は、ほんの少しだけ目を細めた。
(やっぱり、先週の“あれ”のニュース、ここでも共有されてるんだ)
テレビで見た、アナウンサーの顔とテロップを思い出す。
「〇〇県猪苗代湖 湖水浴中の男性いまだ行方不明」といった見出し。
(まぁ、行方“不明”っていうか……)
湖の底の、さらに下。
あのクラックが“息を吸った”タイミングと、時期が重なっていた。
水の向こうの別の海――
ETO系の“テーブル”に、ぽとりと落ちたお客さんのひとり。
そしてクラックが今度は“吐き出した”とき、
その遺体は、はるか遠く、イギリスのどこかの湖で見つかっている。
そこではまた別の形で、ニュースになっている。
けれど、それは――ほんとうに「また別の話」だった。
(……あっちのテーブルも、忙しいよねぇ)
愛香は、内心でだけ苦笑する。
猪苗代湖のETO系は、伊集院貴也の“取引相手”でもある。
魔術の材料、情報、あるいはもっと抽象的な“味”のやり取り。
直接会うことは滅多にないけれど、
伊集院家の食卓には、ときどき「向こうの海の話」が上る。
(だから、あんまり刺激しない方がいいんだよね。本当に)
あっち側の“得意先”を荒らすのは、客としても、ちょっとマナー違反だ。
(惣くんの分は、絶対渡さないけどね)
そこだけは、話が別だ。
◆ 湖へ・ボートの支度 ◆
朝食を終えると、全員で桟橋へ向かった。
岸には、白いペダルボートと、木製の手漕ぎボートがいくつか並んでいる。
「ペア決めようか」
英の提案で、あっという間に組み合わせが決まっていく。
・手漕ぎボート1:青見&彩女
・手漕ぎボート2:惣一郎&愛香
・ペダルボート:友香&ルテア
・もう一艘にユイリィ&玲子+カー(真ん中でお座り)
・胆と桜、勇吾と英は、監視兼ねて交代で岸とボートを行き来する。
「カー、絶対飛び込むなよ? ボートから」
「わふっ!」
「今の返事、絶対分かってないよね」
玲子が苦笑する。
全員、ライフジャケットをきっちり締める。
桜が一人一人確認してから、順番にボートへ。
その様子を眺めながら、愛香は、すこしだけ湖の方へ意識を伸ばした。
(……おはようございます)
言葉にならないレベルの“挨拶”を、湖底のもっと下へ送る。
ETO-系の存在たちは、
クジラより少し小さい“何か”として、別の海でゆっくり漂っている。
ここから分かるのは、ただの温度みたいな気配だけ。
(昨日の夜、ちょこっと影を齧ったけど……怒ってはいなさそう)
胃の奥の方で、ささやかに残る“後味”を確かめる。
粘っこいけど、静か。
満腹まではいかないけど、少なくとも「狩りに出るテンション」ではない。
(相変わらず、“水死の瞬間の味”にしか興味ないって感じだなぁ)
彼らにとって、人の肉体そのものは、それほど重要じゃない。
落ちてきた“恐怖と絶望”だけを、長い時間をかけて丁寧に舐める。
だからこそ――
こちらからわざわざ刺激する必要なんて、どこにもない。
(今日は、“こっちのテーブル”の日。
向こうのテーブルは、遠くから眺めてるくらいで丁度いいや)
「愛香ー!」
惣一郎の声に、はっと顔を上げる。
「こっちこっち! ボート流される前に乗って!」
「はーい」
小走りで桟橋へ向かい、
ギシ、と揺れたボートに慎重に足を乗せる。
「よし、乗れた」
「よし、漕ぐぞ!」
「お願いしまーす、船頭さん」
惣一郎が嬉々としてオールを握り、湖面を押し出す。
ボートは、すうっと岸から離れていった。
◆ 湖の上の“二つのテーブル” ◆
湖の上は、思っていたよりも静かだった。
桟橋から少し離れるだけで、
岸辺のざわめきが遠くなり、波の音とオールの水をかく音だけが耳に残る。
「おー、思ったより進むな」
惣一郎が、ちょっと得意げな顔をする。
「惣くん、あんまり張り切って沖行かないでね。怒られちゃうから」
「分かってるって。ほら、あっちのブイまでな」
管理区域を示す黄色いブイが、一定間隔で並んでいる。
その線の向こう側――
昨日、夜に“星を映さない黒い部分”が見えた辺りは、
今はただの穏やかな水面にしか見えない。
(……薄まってる)
愛香は、波の模様の中に、ほんのわずかな“濃さ”を見分けた。
底のクラックは、今は“息を吐き終えた”あとの静かなタイミング。
さっき飲み込んだ遺体を、ずっと遠くの別の湖へ送りつけて、
満足している頃合い。
ETOの“テーブル”は、今は向こうで静かに食事中。
こっちのテーブルまで手を伸ばしてくる気配は、ほとんどない。
(よしよし)
愛香は、ボートのへりに肘をかけて、わざと明るい声を出した。
「惣くん、あっち見て。青見くんと彩女ちゃん」
「どれどれ」
少し離れたところを、もう一艘の手漕ぎボートが進んでいる。
青見が器用に片手オールで方向を変えながら、
彩女が水面を覗き込んだり、足をちゃぷちゃぷさせたり。
「リア充ボートだ……」
「うちらもリア充だよ?」
「……そうだな!」
惣一郎の顔が、また分かりやすく明るくなる。
(うんうん。その顔を守るのが、わたしの仕事だからね)
湖の上に、二つのテーブルが並んでいるイメージを思い浮かべる。
ひとつは、ボートと笑い声と、ジュースとお菓子の乗った、
普通の高校生たちのテーブル。
もうひとつは、
ずっと深いところで、何億年も前から続いている、
影と水と古い意識たちのテーブル。
その二つが、クラックを通して、
ときどき“料理”だけやり取りすることがある。
伊集院貴也は、そこにしたたかに割り込んで、自分の分を確保する。
愛香は、その残り香を嗅ぎつけながら、
(惣くんの分は、絶対、うちのテーブル直行だから)
と心に決めている。
「愛香?」
「なぁに?」
「なんか、また難しい顔してた」
「してないよ?」
「してた」
じーっと見てくる惣一郎に、愛香はくすっと笑う。
「じゃあ惣くん。あのブイまで競争ね」
「お、いいぞ!」
「負けた方が、帰ったあとに氷室くんの宿題プリント手伝う係」
「やべぇガチの罰ゲームだ!」
惣一郎が一気にオールを漕ぎ出す。
ボートは、ちゃぷんちゃぷんと水を蹴りながら、
朝の湖面を進んでいった。
そのずっと下――
別のテーブルの客たちは、人間たちの騒ぎを、
遠くのざわめきとして聞き流しているだけだった。