なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

221 / 240
ボート遊び

 

 

◆ 翌朝・ボート遊びの前に ◆

 

 

 朝。

 

 湖畔の空気は、夜よりもずっと冷たくて、澄んでいた。

 

「さみぃ……」

 

 タープの下でストレッチをしながら、惣一郎が肩をすくめる。

 

「でも気持ちいいね」

 

 彩女は、ジャージの上着のファスナーを喉元まで上げて、湖を見た。

 

 水面は、信じられないくらい穏やかだ。

 昨日、夕暮れに見た“黒い穴”みたいな印象は、すっかり薄まっている。

 

「朝ごはん食べたら、ボート行くぞー」

 

 クーラーボックスの前で、胆がパンと手を叩いた。

 

「さっき管理人さんに確認した。手漕ぎボートとペダルボート、両方空いてる」

 

「やった!」

 

 ルテアと友香のテンションが一気に上がる。

 

 紙皿の上では、ホットサンドとスクランブルエッグ、簡易スープ。

 英と愛香が早起きして準備した、“武闘派合宿にしてはちゃんとした朝食”だ。

 

「――あ、それと」

 

 紙コップのコーヒーを持った桜が、声のトーンだけ少し変えた。

 

「ボートの前に、大事な話な」

 

 全員が自然と顔を上げる。

 

「先週、この湖で湖水浴客が一人、行方不明になってる。

 新聞にも出たから、知ってるやつもいるかもしれんが」

 

「あ……ニュースで見ました」

 

 玲子が、小さく頷いた。

 

「まだ見つかってないんですよね……?」

 

「そうだ。だから管理側もピリピリしてる」

 

 桜は、湖の方を顎で示した。

 

「遊泳区域から外れた場所に行かないこと。

 ボートで沖に出るときは、必ずライフジャケット着用。

 揺らして遊ばない。立ち上がらない。ふざけて突き落とさない」

 

「惣一郎」

 

 彩女と愛香の視線が、同時に惣一郎に刺さる。

 

「なんで名指し!?」

 

「心当たりがあるからでしょ」

 

 英がさらりと言った。

 

「ここの湖は、天気が急変すると、沖の方が一気に荒れることもあります。

 “いつも通り”のつもりで油断しないこと」

 

「はーい」

 

 全員の返事がぞろぞろと続く。

 

 ――その横で、愛香は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

(やっぱり、先週の“あれ”のニュース、ここでも共有されてるんだ)

 

 テレビで見た、アナウンサーの顔とテロップを思い出す。

 「〇〇県猪苗代湖 湖水浴中の男性いまだ行方不明」といった見出し。

 

(まぁ、行方“不明”っていうか……)

 

 湖の底の、さらに下。

 あのクラックが“息を吸った”タイミングと、時期が重なっていた。

 

 水の向こうの別の海――

 ETO系の“テーブル”に、ぽとりと落ちたお客さんのひとり。

 

 そしてクラックが今度は“吐き出した”とき、

 その遺体は、はるか遠く、イギリスのどこかの湖で見つかっている。

 

 そこではまた別の形で、ニュースになっている。

 けれど、それは――ほんとうに「また別の話」だった。

 

(……あっちのテーブルも、忙しいよねぇ)

 

 愛香は、内心でだけ苦笑する。

 

 猪苗代湖のETO系は、伊集院貴也の“取引相手”でもある。

 

 魔術の材料、情報、あるいはもっと抽象的な“味”のやり取り。

 直接会うことは滅多にないけれど、

 伊集院家の食卓には、ときどき「向こうの海の話」が上る。

 

(だから、あんまり刺激しない方がいいんだよね。本当に)

 

 あっち側の“得意先”を荒らすのは、客としても、ちょっとマナー違反だ。

 

(惣くんの分は、絶対渡さないけどね)

 

 そこだけは、話が別だ。

 

 

◆ 湖へ・ボートの支度 ◆

 

 

 朝食を終えると、全員で桟橋へ向かった。

 

 岸には、白いペダルボートと、木製の手漕ぎボートがいくつか並んでいる。

 

「ペア決めようか」

 

 英の提案で、あっという間に組み合わせが決まっていく。

 

 ・手漕ぎボート1:青見&彩女

 ・手漕ぎボート2:惣一郎&愛香

 ・ペダルボート:友香&ルテア

 ・もう一艘にユイリィ&玲子+カー(真ん中でお座り)

 ・胆と桜、勇吾と英は、監視兼ねて交代で岸とボートを行き来する。

 

「カー、絶対飛び込むなよ? ボートから」

 

「わふっ!」

 

「今の返事、絶対分かってないよね」

 

 玲子が苦笑する。

 

 全員、ライフジャケットをきっちり締める。

 桜が一人一人確認してから、順番にボートへ。

 

 その様子を眺めながら、愛香は、すこしだけ湖の方へ意識を伸ばした。

 

(……おはようございます)

 

 言葉にならないレベルの“挨拶”を、湖底のもっと下へ送る。

 

 ETO-系の存在たちは、

 クジラより少し小さい“何か”として、別の海でゆっくり漂っている。

 

 ここから分かるのは、ただの温度みたいな気配だけ。

 

(昨日の夜、ちょこっと影を齧ったけど……怒ってはいなさそう)

 

 胃の奥の方で、ささやかに残る“後味”を確かめる。

 

 粘っこいけど、静か。

 満腹まではいかないけど、少なくとも「狩りに出るテンション」ではない。

 

(相変わらず、“水死の瞬間の味”にしか興味ないって感じだなぁ)

 

 彼らにとって、人の肉体そのものは、それほど重要じゃない。

 落ちてきた“恐怖と絶望”だけを、長い時間をかけて丁寧に舐める。

 

 だからこそ――

 こちらからわざわざ刺激する必要なんて、どこにもない。

 

(今日は、“こっちのテーブル”の日。

 向こうのテーブルは、遠くから眺めてるくらいで丁度いいや)

 

「愛香ー!」

 

 惣一郎の声に、はっと顔を上げる。

 

「こっちこっち! ボート流される前に乗って!」

 

「はーい」

 

 小走りで桟橋へ向かい、

 ギシ、と揺れたボートに慎重に足を乗せる。

 

「よし、乗れた」

 

「よし、漕ぐぞ!」

 

「お願いしまーす、船頭さん」

 

 惣一郎が嬉々としてオールを握り、湖面を押し出す。

 ボートは、すうっと岸から離れていった。

 

 

◆ 湖の上の“二つのテーブル” ◆

 

 

 湖の上は、思っていたよりも静かだった。

 

 桟橋から少し離れるだけで、

 岸辺のざわめきが遠くなり、波の音とオールの水をかく音だけが耳に残る。

 

「おー、思ったより進むな」

 

 惣一郎が、ちょっと得意げな顔をする。

 

「惣くん、あんまり張り切って沖行かないでね。怒られちゃうから」

 

「分かってるって。ほら、あっちのブイまでな」

 

 管理区域を示す黄色いブイが、一定間隔で並んでいる。

 

 その線の向こう側――

 昨日、夜に“星を映さない黒い部分”が見えた辺りは、

 今はただの穏やかな水面にしか見えない。

 

(……薄まってる)

 

 愛香は、波の模様の中に、ほんのわずかな“濃さ”を見分けた。

 

 底のクラックは、今は“息を吐き終えた”あとの静かなタイミング。

 さっき飲み込んだ遺体を、ずっと遠くの別の湖へ送りつけて、

 満足している頃合い。

 

 ETOの“テーブル”は、今は向こうで静かに食事中。

 こっちのテーブルまで手を伸ばしてくる気配は、ほとんどない。

 

(よしよし)

 

 愛香は、ボートのへりに肘をかけて、わざと明るい声を出した。

 

「惣くん、あっち見て。青見くんと彩女ちゃん」

 

「どれどれ」

 

 少し離れたところを、もう一艘の手漕ぎボートが進んでいる。

 

 青見が器用に片手オールで方向を変えながら、

 彩女が水面を覗き込んだり、足をちゃぷちゃぷさせたり。

 

「リア充ボートだ……」

 

「うちらもリア充だよ?」

 

「……そうだな!」

 

 惣一郎の顔が、また分かりやすく明るくなる。

 

(うんうん。その顔を守るのが、わたしの仕事だからね)

 

 湖の上に、二つのテーブルが並んでいるイメージを思い浮かべる。

 

 ひとつは、ボートと笑い声と、ジュースとお菓子の乗った、

 普通の高校生たちのテーブル。

 

 もうひとつは、

 ずっと深いところで、何億年も前から続いている、

 影と水と古い意識たちのテーブル。

 

 その二つが、クラックを通して、

 ときどき“料理”だけやり取りすることがある。

 

 伊集院貴也は、そこにしたたかに割り込んで、自分の分を確保する。

 愛香は、その残り香を嗅ぎつけながら、

 

(惣くんの分は、絶対、うちのテーブル直行だから)

 

 と心に決めている。

 

「愛香?」

 

「なぁに?」

 

「なんか、また難しい顔してた」

 

「してないよ?」

 

「してた」

 

 じーっと見てくる惣一郎に、愛香はくすっと笑う。

 

「じゃあ惣くん。あのブイまで競争ね」

 

「お、いいぞ!」

 

「負けた方が、帰ったあとに氷室くんの宿題プリント手伝う係」

 

「やべぇガチの罰ゲームだ!」

 

 惣一郎が一気にオールを漕ぎ出す。

 

 ボートは、ちゃぷんちゃぷんと水を蹴りながら、

 朝の湖面を進んでいった。

 

 そのずっと下――

 別のテーブルの客たちは、人間たちの騒ぎを、

 遠くのざわめきとして聞き流しているだけだった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。