なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

222 / 240
湖の影

 

 

◆ 湖の上の影 ◆

 

 

 黄色いブイの列が近づいたころ、風向きが少し変わった。

 

「おー、ちょっと波出てきた?」

 

 惣一郎が、オールを漕ぎながら首をかしげる。

 

 湖面に、さざ波が立つ。

 さっきまで鏡みたいだった水は、細かい皺をまとい始めていた。

 

「これくらいなら、まだ大丈夫だよ」

 

 愛香はそう言って笑った。

 

 でも、笑顔の奥のどこかで、別の層を見ている。

 

(……クラックの呼吸、終わりかけ)

 

 さっきまで遠くでうたた寝していた誰かが、

 ひとつ長く息を吐いて、また沈んでいくような感覚。

 

 湖底よりもっと下の、別の海。

 そこから立ちのぼっていた影の香りが、少しずつ薄まっていく。

 

 ボートのすぐ下を、なにかがぬるりと横切った気配がした。

 

 人間の目には、ただの濃い水の揺らぎ。

 けれど愛香には、一瞬だけ、音も色も持たない「目線」が上をかすめたのが分かった。

 

(見てるだけ、ね)

 

 彼女は、そっと視線を落として、

 自分の足元にまとわりつこうとした名残を指先で摘まむ。

 

 舌の奥で、影の欠片をひとつだけ噛み砕く。

 

(……朝ごはんのあとに食べるもんじゃない味)

 

 心の中でだけ、げんなりした顔をする。

 

 それでも、ボートの周囲の水は、さっきより軽くなった。

 

「惣くん、そろそろ戻ろうか」

 

「え、もう? 今ノってきたところなんだけど」

 

「帰りも漕ぐんだよ? 帰りの分の元気も残しとかなきゃ」

 

「ぐっ、現実的……」

 

 惣一郎が、名残惜しそうにブイの手前でオールの向きを変える。

 

 少し離れたところでは、青見と彩女のボートも向きを変えていた。

 向こうも、桜が岸から手を振って合図したらしい。

 

「そっち大丈夫かー?」

 

 惣一郎が叫ぶと、青見が片手を上げて返した。

 

「平気。そっちは惣、落としてないか?」

 

「落とすか!」

 

 やり取りはいつもの調子で。

 湖の上だけ見れば、どこにでもある夏休みの光景だった。

 

 真下の黒い喉が、今は静かに閉じていると知っているのは、

 この場でたった二人だけだった。

 

 

◆ 不穏なものを背に ◆

 

 

 岸が近づくにつれ、ボートの揺れも小さくなっていく。

 

「はー、楽しかった!」

 

 桟橋の端で、友香が大きく伸びをした。

 

「ペダル、思ったよりキツかった……」

 

「それ、後半サボってたからでしょ」

 

 ルテアが笑いながら肩を小突く。

 

 ペダルボート組も、無事に戻ってきている。

 ユイリィと玲子のボートは、最後までカーが身を乗り出しそうになるのを止めるのに苦労したらしい。

 

「カー、飛び込まなくてえらかったね」

 

 玲子が頭を撫でると、カーは誇らしげにしっぽを振る。

 

「全員、生存確認っと」

 

 桜が、わざとらしく出席を取るみたいに声を上げた。

 

「溺れたやつ、落ちたやつ、オールだけ沈めたやつはいないな?」

 

「いませーん!」

 

 全員の声が揃う。

 

 そのやり取りを聞きながら、愛香はこっそり湖の方を振り返った。

 

 朝の光の中、

 さっきまで自分たちのボートがいたあたりに、

 ほんのわずか、色の違う帯が走っているように見える。

 

(……お腹いっぱいなら、今日はおとなしくしててね)

 

 誰にも聞こえない声で、そう念じる。

 

 水面は、何も答えない。

 

 ただ、遠くの方で、

 白い小さな波がいくつか並んで打ち寄せて、消えた。

 

 手の形に見えなくもないけれど、

 それを指摘する人間は、この場にはいなかった。

 

 

◆ 何も知らない夏休み ◆

 

 

「いやー、でもさ」

 

 ハイエースに戻る道すがら、惣一郎が満足そうに言った。

 

「ボートも湖も、普通にめちゃくちゃ楽しかったな」

 

「普通に、ね」

 

 英が少し笑う。

 

「普通に、って一番贅沢な感想だと思いますけど」

 

「そう?」

 

「そうですよ。何も起きなかった、ってことですから」

 

 英の言葉に、梨花がゆっくり頷いた。

 

「怪我もなく、事故もなく、

 “ちょっと怖い噂がある湖でボート遊びしてきました”って話だけ持って帰れるのが、一番いいわ」

 

「怖い噂?」

 

 ルテアが、興味津々で食いつく。

 

「ねぇねぇ、昨日本気で怖い話しなかったじゃん。ここって、なんかあるんでしょ?」

 

「あるけど、あるからこそ言わないの」

 

 梨花がさらりと言う。

 

「気付かずに楽しんで帰った方が、湖もきっと機嫌がいいわよ」

 

「そういうもん?」

 

「そういうもん」

 

 その会話を、少し後ろから聞きながら、青見は空を見上げた。

 

 昼の太陽はもう高い。

 湖の色も、いつもの観光ポスターみたいな青に戻っている。

 

(昨夜の、星を映さないとこも)

 

 あの黒い部分も、今は見えない。

 

 何かの気配があったことだけは、

 体のどこかが覚えているけれど――

 

(今は、いいか)

 

 心の中で、そう切り替える。

 

 隣で、彩女がコンビニおにぎりの袋を開けながら言った。

 

「ね、帰りにソフトクリーム食べて帰ろ。湖のとこに売店あったじゃん」

 

「いいねそれ!」

 

「キャンプ締めのソフト、いいじゃん」

 

「トイレ寄ってからな」

 

 わいわいと進路が決まっていく。

 

 湖の上で、何がこちらを見ていたのか。

 湖の底の先に、何が口を開けているのか。

 

 それを知らないまま、

 「楽しかったね」と笑っていられる今は、確かに祝福された時間だった。

 

 ハイエースのエンジンがかかるころ、

 猪苗代湖の水面は、また少しだけ光を変えた。

 

 遠く、沖合のとある一点で、

 星を映さない色が、ほんの一瞬、呼吸するみたいに揺らぐ。

 

 けれど、それを見た者は誰もいない。

 

 逢瀬学園キャンプ組は、

 何も起きなかった夏の思い出をひとつ増やして、

 賑やかに、湖畔を後にした。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。