◆ 湖の上の影 ◆
黄色いブイの列が近づいたころ、風向きが少し変わった。
「おー、ちょっと波出てきた?」
惣一郎が、オールを漕ぎながら首をかしげる。
湖面に、さざ波が立つ。
さっきまで鏡みたいだった水は、細かい皺をまとい始めていた。
「これくらいなら、まだ大丈夫だよ」
愛香はそう言って笑った。
でも、笑顔の奥のどこかで、別の層を見ている。
(……クラックの呼吸、終わりかけ)
さっきまで遠くでうたた寝していた誰かが、
ひとつ長く息を吐いて、また沈んでいくような感覚。
湖底よりもっと下の、別の海。
そこから立ちのぼっていた影の香りが、少しずつ薄まっていく。
ボートのすぐ下を、なにかがぬるりと横切った気配がした。
人間の目には、ただの濃い水の揺らぎ。
けれど愛香には、一瞬だけ、音も色も持たない「目線」が上をかすめたのが分かった。
(見てるだけ、ね)
彼女は、そっと視線を落として、
自分の足元にまとわりつこうとした名残を指先で摘まむ。
舌の奥で、影の欠片をひとつだけ噛み砕く。
(……朝ごはんのあとに食べるもんじゃない味)
心の中でだけ、げんなりした顔をする。
それでも、ボートの周囲の水は、さっきより軽くなった。
「惣くん、そろそろ戻ろうか」
「え、もう? 今ノってきたところなんだけど」
「帰りも漕ぐんだよ? 帰りの分の元気も残しとかなきゃ」
「ぐっ、現実的……」
惣一郎が、名残惜しそうにブイの手前でオールの向きを変える。
少し離れたところでは、青見と彩女のボートも向きを変えていた。
向こうも、桜が岸から手を振って合図したらしい。
「そっち大丈夫かー?」
惣一郎が叫ぶと、青見が片手を上げて返した。
「平気。そっちは惣、落としてないか?」
「落とすか!」
やり取りはいつもの調子で。
湖の上だけ見れば、どこにでもある夏休みの光景だった。
真下の黒い喉が、今は静かに閉じていると知っているのは、
この場でたった二人だけだった。
◆ 不穏なものを背に ◆
岸が近づくにつれ、ボートの揺れも小さくなっていく。
「はー、楽しかった!」
桟橋の端で、友香が大きく伸びをした。
「ペダル、思ったよりキツかった……」
「それ、後半サボってたからでしょ」
ルテアが笑いながら肩を小突く。
ペダルボート組も、無事に戻ってきている。
ユイリィと玲子のボートは、最後までカーが身を乗り出しそうになるのを止めるのに苦労したらしい。
「カー、飛び込まなくてえらかったね」
玲子が頭を撫でると、カーは誇らしげにしっぽを振る。
「全員、生存確認っと」
桜が、わざとらしく出席を取るみたいに声を上げた。
「溺れたやつ、落ちたやつ、オールだけ沈めたやつはいないな?」
「いませーん!」
全員の声が揃う。
そのやり取りを聞きながら、愛香はこっそり湖の方を振り返った。
朝の光の中、
さっきまで自分たちのボートがいたあたりに、
ほんのわずか、色の違う帯が走っているように見える。
(……お腹いっぱいなら、今日はおとなしくしててね)
誰にも聞こえない声で、そう念じる。
水面は、何も答えない。
ただ、遠くの方で、
白い小さな波がいくつか並んで打ち寄せて、消えた。
手の形に見えなくもないけれど、
それを指摘する人間は、この場にはいなかった。
◆ 何も知らない夏休み ◆
「いやー、でもさ」
ハイエースに戻る道すがら、惣一郎が満足そうに言った。
「ボートも湖も、普通にめちゃくちゃ楽しかったな」
「普通に、ね」
英が少し笑う。
「普通に、って一番贅沢な感想だと思いますけど」
「そう?」
「そうですよ。何も起きなかった、ってことですから」
英の言葉に、梨花がゆっくり頷いた。
「怪我もなく、事故もなく、
“ちょっと怖い噂がある湖でボート遊びしてきました”って話だけ持って帰れるのが、一番いいわ」
「怖い噂?」
ルテアが、興味津々で食いつく。
「ねぇねぇ、昨日本気で怖い話しなかったじゃん。ここって、なんかあるんでしょ?」
「あるけど、あるからこそ言わないの」
梨花がさらりと言う。
「気付かずに楽しんで帰った方が、湖もきっと機嫌がいいわよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
その会話を、少し後ろから聞きながら、青見は空を見上げた。
昼の太陽はもう高い。
湖の色も、いつもの観光ポスターみたいな青に戻っている。
(昨夜の、星を映さないとこも)
あの黒い部分も、今は見えない。
何かの気配があったことだけは、
体のどこかが覚えているけれど――
(今は、いいか)
心の中で、そう切り替える。
隣で、彩女がコンビニおにぎりの袋を開けながら言った。
「ね、帰りにソフトクリーム食べて帰ろ。湖のとこに売店あったじゃん」
「いいねそれ!」
「キャンプ締めのソフト、いいじゃん」
「トイレ寄ってからな」
わいわいと進路が決まっていく。
湖の上で、何がこちらを見ていたのか。
湖の底の先に、何が口を開けているのか。
それを知らないまま、
「楽しかったね」と笑っていられる今は、確かに祝福された時間だった。
ハイエースのエンジンがかかるころ、
猪苗代湖の水面は、また少しだけ光を変えた。
遠く、沖合のとある一点で、
星を映さない色が、ほんの一瞬、呼吸するみたいに揺らぐ。
けれど、それを見た者は誰もいない。
逢瀬学園キャンプ組は、
何も起きなかった夏の思い出をひとつ増やして、
賑やかに、湖畔を後にした。