なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

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悪意の火

 

 

/*/ 人類の枝と幹 /*/

 

 

 地方都市の国立大学、その一角にある講義棟の小さなホール。

 夜の公開講座としては、思ったより人が集まっていた。

 

 壇上には、少しよれたジャケット姿の男――三森啓司。

 スクリーンの横に立ち、手元のレーザーポインタを弄びながら、ゆっくりと口を開く。

 

「多くの学者が、何十年も人類の起源を追いかけてきました。

 ……にもかかわらず、“決定版”と言える答えはいまだに出ていない」

 

 前列で腕を組んで座っている白髪の紳士――伊集院謙吾は、静かに頷いた。

 すでに何度も聞いた話だが、親友の語り口は何度聞いても飽きない。

 

「その理由のひとつは、イメージの問題なんです」

 

 啓司は、スクリーンに映した系統樹の図を指さした。

 一番下に猿人、そこから枝分かれするいくつもの線。そして一番上に、「現生人類」と書かれた太い一本の枝。

 

「いまの人類学者の多くは、心のどこかでこう考えている。

 “ある日、一種類の猿人が生まれ、そこから枝分かれしていき、そのうちの一本だけが現代まで生き残って我々になった”――と」

 

 彼は肩をすくめる。

 

「ダーウィン以来の進化の“教科書的な描き方”ですね。一本の幹から伸びる枝が、どんどん分かれていく図。

 もちろん、あれは分かりやすい。しかし、実際の進化は、あそこまで単純じゃない」

 

 スクリーンが切り替わる。

 ネアンデルタール人、クロマニョン人、そのほか聞き慣れない原人たちの名称が並ぶスライド。

 

「“新しい人類が見つかった”というニュースは、もう珍しくもありません。

 皆さんも、ネアンデルタール人やクロマニョン人の名前くらいはご存じでしょう。

 ……そしてそれ以外にも、世界中で“人類の祖先かもしれない原人”の痕跡が、山ほど見つかっている」

 

 そこで一度、啓司は聴衆を見渡した。

 

「さて。ここでひとつ、考えてみてください。

 これらすべての原人は完全に絶滅し、“唯一の一本の枝”だけが奇跡的に生き残って我々になった――

 そう考えるのは、少し“出来すぎている”と思いませんか?」

 

 会場の何人かが、顔を見合わせる。

 その反応を見て、啓司は薄く笑った。

 

「私の持論は、こうです」

 

 スクリーンの図が、別の形に切り替わる。

 枝分かれした系統樹が、あるところでまた絡まり合い、太い幹のような塊になっている。

 

「複数の原人種が、互いに混ざり合い続けてきた結果が、私たち現生人類なのだ、という考え方。

 枝が分かれて終わりではなく、どこかでまた合流して太い幹を形成する。

 その“混血のプロセス”は、今もなお続いている」

 

 ゆっくりと、言葉を選びながら続ける。

 

「混ざり合うことが究極まで進めば、今、私たちが“人種”と呼んでいる区別も、やがては意味を失うでしょう。

 これは、決して珍しい説ではない。似たことを言う学者は他にもいます。

 ですが――私はこれを、“ただの考え方”で終わらせたくなかった」

 

 そこで、啓司は壇上の机に置いてあった古い革の書類かばんを開いた。

 

「だからこそ、私は証拠を集め続けてきたのです。

 各地で見つかる原人の骨格――特に、手の骨。

 それから、現代人のレントゲン写真。高校時代の知人である医師の協力も得て、何千枚という資料に目を通しました」

 

 最前列で聞いていた学生が、思わず小声で「え、そんなのアリなんだ」と呟く。

 謙吾は、口元をわずかに引き攣らせながらも黙って聞いていた。倫理的にはグレーだが、彼の親友らしい。

 

「その結果――私は“あるタイプの古代人の骨格的特徴”が、今も現代人の中に薄く、しかし確かに残っていることを突き止めました。

 そのひとつが、ノルウェー北部、ハンメルフェスト近郊の七十五万年前の地層から出土した原人の一群です」

 

 スクリーンに、ハンメルフェストの地図と採掘現場の写真が映る。

 

「今日は、その決定的な証拠のひとつをお見せしましょう」

 

 啓司は、かばんの中から大判の封筒を取り出した。

 会場の空気が、わずかに前のめりになる。

 

「これは、ある患者の手のレントゲン写真と、その先行人類と目される原人の骨格写真を――」

 

 封筒の口に指をかけ、中から大きなフィルムを引き出そうとした、その瞬間だった。

 

 

 /*/ 火の塊 /*/

 

 

 何の前触れもなく、空気がひりついた。

 

 視界の上の方で、何かがちらりと揺らめいたように見えた――

 と、観察眼の鋭い者だけが気づいただろう。

 

 天井のあたりに、赤橙に燃えさかる、ポリバケツほどの大きさの火の塊が浮かんでいたのだ。

 

 それが、迷いなく一直線に――三森啓司めがけて落ちてくる。

 

「――っ!」

 

 次の瞬間、啓司の身体が炎に包まれた。

 

 バネ仕掛けの人形のように、椅子から跳ね起きる。

 立ち上がったその姿勢のまま、全身を焼かれながら、絶叫が講義室に響き渡った。

 

 炎は、ただの火事の火ではなかった。

 燃え広がるのは、なぜか啓司の体のまわりだけ。

 耳をつんざくような熱気は、数メートル離れた席の学生の髪を焦がすほどなのに、壁や机にはまったく燃え移らない。

 

「三森先生!?」

 

 叫び声。椅子が倒れる音。逃げ出そうとする気配。

 

 そのカオスの中で、ひとりだけ――

 最前列に座っていた伊集院謙吾は、まったく別のものを見ていた。

 

 炎の塊の“中心”に、歪んだ何かの顔のようなものが一瞬だけ浮かび上がる。

 目も鼻も定かではない。ただ、そこには意思があった。

 

「……火の精、か」

 

 謙吾は、低く呟くと同時に立ち上がった。

 胸ポケットから、細いペンのようなものを抜き取る。

 

 そのペン先で、空中に素早く記号を描いた。

 

 誰にも読めない線と円。

 それは、紙ではなく、“見えない膜”の上に刻まれたように、じわじわと赤く輝き出す。

 

「――退け」

 

 小さく、しかしはっきりとした言葉。

 

 次の瞬間、啓司を包んでいた炎の外縁が、弾かれたように弾け飛んだ。

 火の塊が、一瞬だけ膨張し、それからぎゅっと縮む。

 

 山火事の煙の中で獣が吠えるような、耳の奥を引っかく悲鳴。

 炎は、啓司の身体から離れ、天井近くまで舞い上がると――

 まるで見えない穴に吸い込まれるように、跡形もなく消えた。

 

 残されたのは、焼け焦げた臭いと、立ち尽くす啓司だけ。

 

 ――そして。

 

 信じられないことに、その衣服にはすすが付いているだけで、肌はほとんど無傷だった。

 

「三森先生!」

 

 学生たちが駆け寄ろうとするより早く、謙吾が壇上に飛び乗った。

 自分のジャケットを脱いで、啓司の肩に掛ける。

 

「啓司、無事か!?」

 

「あ、ああ……」

 

 啓司は、乱れた息を整えながら、眼鏡を押さえた。

 レンズにはすすが付いているが、その目はしっかりしている。

 

「今のは……やはり 火の精霊だな。

 上から落ちてくるのが、ぎりぎり見えた」

 

 声はかすれているが、その口調には冷静さが戻りつつあった。

 

「どうやら、私の発表を世に出されたくない魔術師がどこかにいるようだ」

 

 謙吾が、すっと目を細める。

 

「心当たりは?」

 

「一人だけ、思い当たるがね……」

 

 啓司は、焦げた床を見下ろしながら、口の端をわずかに歪めた。

 

「このキャンパスに着く前から、“夜に呼び出した火の精”を仕込んでおくくらいのことは、あの女ならやるだろう」

 

 その名を、この場で口にすることはしなかった。

 だが、伊集院謙吾には十分だった。

 

 ――小西須美。

 

 そう心の中で呼びながら、彼は静かに周囲に「落ち着きなさい」と声をかけた。

 

「講義は中断する。消防と警備を呼ぶから、君たちは職員の指示に従って外へ。

 ここは私と三森先生に任せなさい」

 

 学生たちがざわめきながらも出口へ向かう中、

 壇上の二人だけは、別世界の会話を続けていた。

 

「しかし、よくもまあ、あの程度の火の精で済ませてくれたな」

 

 啓司が、自嘲気味に笑う。

 

「証拠は燃やしたかったが、君を消すつもりはなかったのかもしれん。

 あるいは――」

 

 謙吾は、天井を一瞥した。

 

「君が“簡単には燃えない”体質だと、先方が知っているのかもしれんね」

 

「それは怖いことを言う」

 

 そう言いながらも、啓司の目の奥には、どこか研究者特有の好奇心がちらついていた。

 

「ともあれ。

 ハンメルフェストの原人の話は、ますます面倒な連中の目を引きつけているようだ」

 

「君の研究が、“あちら側”にも届き始めた証拠だよ」

 

 謙吾は、小さく息を吐いた。

 

「……玲子くんには、まだこの話はしないんだろう?」

 

「もちろん。あの子には、もう少し“普通の高校生活”を送らせてやりたいからね」

 

 そう答えた三森啓司の姿は――

 ついさっき全身を炎に包まれていたとは、とても思えないほど、いつも通りだった。

 

 ただその背中には、ほんの少しだけ、煤の色が残っていた。

 それが、これから彼と周囲の者たちが踏み込んでいく夜の濃さを、ささやかに予告しているようでもあった。

 

 

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