/*/ 安達家・トレーニング /*/
安達家のリビングには、まったりした時間が流れていた。
ローテーブルの上には、開きっぱなしの参考書とノート。
さっきまで「ここテスト出るって言ってたろ」「聞いてなかったし!」みたいなやり取りをしていたが、ひと区切りついて今は小休止中だ。
「……ふう。とりあえず今日の分は終わりってことでいいよな」
「そうね。頭から煙出そうだし」
彩女が大きく伸びをすると、Tシャツの裾から鍛えた腹筋がちらっと覗く。
青見はそれを見ないふりをして、こほんと咳払いした。
「で、ちょっと自慢していい?」
「なに急に。テストの点で自慢できるようになってから言いなさいよ」
「それはこれからだろ。……違うんだよ、体の方」
青見は立ち上がると、リビングの少し開けたスペースに移動した。
「安生道場でさ、バランスと柔軟のメニュー増やされてさ。
見てよ。I字バランスも出来るようになったんだ」
そう言って、ゆっくり右足を持ち上げる。
太ももからふくらはぎまで、筋肉のラインがぐっと伸びていく。
やがて、床とほぼ垂直――Iの字になるところまで脚を引き上げた。
「……おおー」
彩女は思わず感心の声を漏らした。
「ほら」
ぐらつきながらも、数秒はキープしてみせる。
「安生さんとこの地獄メニューのおかげでな。前は絶対無理だった」
「ふーん……」
ぱちぱちと素直に手を叩いてから、彩女はにやっと口角を上げた。
「でもまだ苦しそうね」
「は?」
「このぐらい、すっと出来ないかしら」
立ち上がると、彩女も同じ場所に立った。
「ちょ、何する気だよ」
「体操部・全国総合優勝ナメんなってところを、ちょっとね?」
軽く首を回し、足首を回し――
彩女は、すっと片足で立つと、呼吸を整えた。
「いくよ」
そこからの動きは、もはや“反則”の滑らかさだった。
床を押した片足が、迷いなく重心を取る。
もう片方の脚が、スカートの裾をさらりと持ち上げながら――
一気に、真上近くまで伸びる。
「ほら」
上体はほとんどぶれていない。
背筋も、軸足も、完璧に決まったI字。
スポットライトもないリビングなのに、その瞬間だけ舞台の上みたいに見えた。
「……いや、すごいな」
思わず見惚れ――
そこまで行ったところで、青見はふと“あるもの”に気付いてしまった。
白い布地。
スカートの中。
体操部用の、実用一点張りのスポーツ系だけど――
「…………」
顔が一瞬で熱くなる。
「どう? このぐらいすっと出来ないかしら」
彩女は余裕の笑みで、まだI字のまま。
真正面から、青見の視線を受け止めてくる。
「いや、その……」
目線を逸らしながら、青見は口ごもった。
「あ、彩女、その――
パンツが……」
言った瞬間。
彩女の動きが、ピタリと止まった。
「…………」
I字のまま、きゅっと目尻が吊り上がる。
次の瞬間。
「青見のスケベ!!!」
「おま――うわっ!?」
I字バランスから、そのまま蹴りに移行する奴があるか。
軸足が床を蹴り、伸びていた脚が、綺麗な弧を描いて――
ドゴッ。
「ぐえっ」
容赦ないミドルが青見の脇腹に決まり、その場にうずくまる。
「り、理不尽……」
「スカートでやったらそうなるに決まってるでしょ!
それを正面から指摘するとか、もうスケベ以外の何者でもないわ!」
「理不尽だろそれは!!」
二人でわあわあやっていると――
「ただいまー」
玄関のドアが開く音。
続いて、キッチン側からひょいっと顔を出したのは、エプロン姿の彩女ママだった。
「あら? 何してるの?」
「こ、これは、その――」
とっさに言葉に詰まる彩女。
「そう、青見が悪い!!」
「理不尽だって言ってんだろ!!」
叫びながらも、さっきの蹴りのダメージで、
まだ若干丸まっている青見。
そこへお父さんも、新聞を片手にリビングに顔を出した。
「ただいま。……騒がしいな」
「お父さん聞いて! 青見があたしのパンツ見た!」
「誤解を招く言い方やめろ!!」
話を聞いた両親は、一瞬だけ顔を見合わせ――
すぐに状況を読み取った。
「……I字バランス対決して、スカートでやって、ってところまではだいたい分かったわ」
「体操選手がスカートでI字をやる時点で、
ある程度のリスクは本人の責任だろうな」
「ちょ、お父さん!?」
彩女が抗議する。
彩女ママは、くすくす笑いながら青見の方を見た。
「青見くん、アホな娘でごめんなさいね」
「い、いえ……オレも、ちょっと正面から言うタイミングミスりました……」
「いい子ねぇ、素直に反省できる男子は貴重よ」
そう言って、冷蔵庫を開ける。
「アイス食べる? お詫びに」
「ちょっと待って、その“お詫び”の対象おかしくない!?」
「加害者側が一番騒いでどうする、彩女」
お父さんが、新聞を畳みながらぼそっと突っ込む。
「……というわけで、痛かったわね、青見くん」
「まあ、いつものことです……」
「慣れないで!」
彩女が即ツッコミを入れ、
リビングはいつもの安達家らしい賑やかさに包まれた。
テーブルには、勉強道具と、
その隣には、アイスのカップが並ぶ。
安達家は――
今日もだいたい、平和だった。