/*/ 安達家リビング・ソファ事件 /*/
「……はー、死ぬ……」
部活と安生道場のダブルヘッダーを終えた青見は、安達家のリビングのソファに沈んでいた。
シャワーも借りて、Tシャツとジャージというラフな格好。髪もまだ少しだけ湿っている。
テーブルの上には、彩女ママが出してくれたスポドリと、みかん。
隣では宿題を終えた彩女が、ストレッチ用のヨガマットを広げている。
「ほら、寝たら固まるよ。試合前にまたガッチガチになるよ?」
「……分かってるけどさぁ。動いたら死ぬ」
「ほら、ハム伸ばす。後ろ向いて。足出して」
有無を言わせず、彩女は青見の足を掴む。
片脚をソファの上に投げ出させて、膝を伸ばさせる。
「いってぇ……」
「ほら、もっと。あと五センチいける」
「鬼か」
「鬼だけど?」
軽口を叩きながら、彩女は自分もマットの上で前屈を始めた。
床にぺたんと胸がつくくらい柔らかい。
「はい次、開脚」
「もうやだ……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、青見は半分寝ぼけたまま、
ソファの上で足をゆるく開いて座りなおす。
「サボったら、明日のメニュー増やすからね」
「何様だよ……」
彩女は立ち上がると、青見の前に回り込んだ。
「はい、両手、あたしの腕掴んで」
「こう?」
青見が両手を伸ばして、彩女の手首を掴む。
そのまま引っ張らせて、上体を前に倒させるつもりらしい。
「そうそう。そのままゆっくり――」
その瞬間だった。
足元に置きっぱなしのストレッチポールを、彩女のかかとがつるんと踏んだ。
「わっ――」
「うおっ!?」
前に引っ張ろうとしていた手が、逆にぐいっと力をもらう形になって、
彩女の身体がそのまま前へ倒れ込む。
青見は反射的に受け止めようとして――
でも足は開脚中、体勢は中途半端、ソファは柔らかい。
結果。
「ちょっ、わっ、わわ――!」
彩女が青見の胸元にダイブする形で、ソファに二人まとめてひっくり返った。
ドスン、と鈍い音。
ソファがぎしっと鳴る。
「いってぇ……」
「ちょ、ちょっと待って、今のは違う、マジで違うから!」
気がつけば、彩女は青見の胸の上。
両手はしっかりTシャツを掴んでいて、顔の距離はやたらと近い。
おまけに、倒れ込んだ拍子に彩女のTシャツの裾がずり上がって、
鍛えたお腹が少し覗いている。
視線を逸らそうとして、逸らしきれない距離感。
「お、おい彩女。とりあえず、落ち着け」
「落ち着けるかバカ! なんであたしこんな体勢なのよ!」
「知らねぇよ! 物理法則だよ!」
わたわたと暴れかけた彩女の膝が、ソファの背もたれにぶつかる。
ぐらり、ともう一度バランスが崩れて、顔がぐっと近づいた。
「――っ」
息が触れそうな距離で、お互い固まる。
一拍。
二拍。
「……っっっ!!!」
先に限界がきたのは、彩女の方だった。
「ば、バカ青見のバカあああああ!!」
意味不明な叫びとともに、
思いっきり手をついて上体を起こし――
その勢いのまま、青見の胸にどすっと軽い正拳突きが入った。
「ぐふっ!?」
「なにその声!」
彩女は耳まで真っ赤になりながら飛び退き、
慌ててTシャツの裾を引っ張って整える。
「い、今のは違うからね!? ラッキーとかじゃないからね!?」
「誰も何も言ってねぇだろ……げほっ」
「言う前に潰しとくの!」
わめきながら、彩女はクッションを一個掴んで、ぽすぽすと青見の頭に投げつけた。
そのタイミングで――
「ただいまー……あら?」
玄関の方から、お母さんの声。
リビングのドアが開いて、買い物袋を下げた彩女ママが顔を出した。
そこには、ソファでぐったりしている青見と、
顔を真っ赤にしてクッションを両手に抱えた彩女の図。
「……うちの娘がなにかした?」
「いや、ちょっと物理法則にやられました」
「やってない! 物理法則のせいです!!」
主張が噛み合っているような、いないような。
彩女ママは一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。
「ま、どっちにしても、変なことしないならいいわよ。アイス食べる?」
「「食べます」」
ハモる返事に、今度こそママが声を立てて笑う。
さっきまで妙にドキドキしていた心臓の鼓動が、
少しだけ、いつもの「安達家リビングの音」に戻っていくのを、
青見はソファの上でぼんやり感じていた。