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/*/ 峠、行ってみるか /*/
その週の木曜、六時間目が終わったあとの二年C組。
チャイムが鳴って、ざわざわと帰り支度の音が広がる中、青見は自分の机でスマホのカレンダーを眺めていた。
「んー……」
今週の土曜に「剣道オフ」「安生道場:朝稽古のみ」の文字。
(午後、空いてるな)
道場の朝稽古に出て、昼飯食って――そこから丸々、ひとりの時間が空く。
(久しぶりに峠一本、ロードで上って脚作るか)
頭の中で、いつものヒルクライムコースの勾配と距離をざっと思い浮かべる。山ツツジがキレイな時期だというのも知っていた。
と、隣の席から身を乗り出してくる影がある。
「お、東くん。珍しく真面目そうな顔してるじゃん」
青山七海だ。ストロー刺さったままの紙パックのジュースを片手に、覗き込んでくる。
「いや、いつも真面目だろ」
「そういうことにしといてあげるよー。で? 土曜なんかあるの?」
「んー、昼から暇だからさ。峠までロードで行ってこようかなって」
「あー、あのツツジの峠?」
七海の目がちょっとだけ丸くなる。
「今週末、ちょうど見頃だってニュースになってたよ。観光客も多いんじゃない?」
「だから昼前には上りきって、さっさと帰ってこようかなって。暗くなる前には戻るし」
「ふーん……」
七海は、ストローをくるくる回しながら、何かを思い出すみたいに天井を見上げた。
「そういえばさー」
「ん?」
「その峠さ。六月のツツジの見頃と、山の風神・雨神の参詣が重なる日があってさ」
「参詣?」
「うん。毎年、地元の人が山の神社にお参りに行くんだって。雨乞いとか、風よけとか。うちのじいちゃんが前に言ってた」
「へぇ」
それくらいなら、どこにでもありそうな話だ。
だが七海の声色は、そこから少しだけ変わる。
「でさ、その日ってね」
わざとらしく周りを見回してから、声を落とす。
「峠で変なもの見た人の話が、毎年ちょこちょこ出るんだよね」
「出たよ」
後ろの席から惣一郎の声が飛んでくる。
「七海の“ちょこちょこ出る怪談”シリーズ」
「実際あるんだってば」
七海は笑いながら続ける。
「戊辰戦争の兵隊の列を見たー、とかさ」
「急にスケールが重いな」
「あと、夜に車で走ってた人が、“道の上に湖みたいなのが浮かんでた”って」
「それはもう普通に事故物件なんじゃ……」
惣一郎が顔をしかめる。
「ニュースにはならないけど、“友達の友達が見た”レベルの話は結構あるんだってさ」
「まぁ」
青見は、肩をすくめた。
「オレ昼間に行くし。ただの峠道だろ」
「そう言うと思ったよ」
七海は、にやりと笑って自分の席に戻ろう――としたところで、教室の後ろのドアがガラリと開いた。
「おーい、二年Cの諸君ー」
入ってきたのは、オカ研会長にしてゲーム同好会長、そして留年常連の門脇耕太だった。なぜか手にはファイルが一冊。
「なんで毎回うちのクラスに来るんですか、門脇先輩」
英が冷静に突っ込む。
「心のオアシスだからだよ、氷室くん。で――東」
「はい?」
いきなり名指しされて、青見は顔を上げる。
「お前さ、今週の土曜。ツツジの峠、行くつもりだろ」
「……なんで分かるんですか」
「俺の情報網をなめるんじゃない」
門脇は、どこまで本気か分からない顔でファイルを掲げてみせた。表紙には、手書きでタイトルがある。
《Case-TOGE:峠共鳴域》
「共鳴域て」
惣一郎が、わざとらしく肩をすくめる。
「また中二っぽい名前つけましたねぇ」
「事案の本質を端的に表しているのだよ、伊東くん」
門脇は勝手に前の方まで歩いてきて、青見の机にファイルを置いた。
「六月某日。山ツツジの満開と、風神・雨神への参詣行事が重なった夜。峠一帯で“時間と風景の混線”が観測される」
さらっと物騒なことを言う。
「戊辰戦争時の戦場の残像。湖底都市と思しき幻影。霊山方面の坑道断面――などなど。詳しくはファイル参照」
「いやいやいやいや」
青見は、とりあえずファイルをぱらぱらとめくってみる。
古い新聞のコピー、手書きの目撃談、地図のコピーに赤でぐるぐる書き込まれたメモ。
「どれも“夜の話”ですけどね」
英が横から覗き込んで言う。
「東くんが行くのは昼間でしょう?」
「そうそう」
七海もうなずく。
「ただの峠道だよ、昼は」
「まぁな」
門脇もそれは否定しなかった。
「昼はただの峠道。ロードバイクの練習には最高だ」
「ならいいじゃないですか」
「ただし」
門脇はそこで、わざと話を区切った。
「今年は、ツツジの見頃と参詣行事の日取りが、かなりガチで重なってる。オカ研としては“共鳴ボーナス年”認定だ」
「ボーナスって言い方やめてください」
「で、行事の片付けが終わって、峠がいちばん静かになるのが、だいたい夕方から夜にかけてだ」
門脇は、人差し指を立てて言う。
「東。行くなら行け。ただし、暗くなる前には山を下りろ。それだけ守れ」
「……」
青見はファイルから目を離し、窓の外をちらりと見る。
六月の光。少し湿った風。ツツジが咲いているであろう山の稜線。
「もともとそのつもりですよ」
肩の力を抜いて答える。
「朝稽古のあと、昼飯食って、峠一本だけ上って、暗くなる前に帰る。いつものパターンです」
「ならよし」
門脇は、あっさりうなずいた。
「ついでに、道中で何か“普通じゃないもの”を見たら、あとでオカ研にレポート出してくれると助かる」
「見ないで済むなら、それが一番なんですけど」
青見が苦笑すると、七海が「だよねー」と笑う。
「まぁ、“夜に行くわけじゃないし”ね」
「“ただの峠道”だしな」
惣一郎も、いつものノリでそう言った。
――ただ、その土曜日の赤い丸印が、きっちりと「行事の日」に重なっていることに気付くのは、もう少し後のことだった。