/*/ ツツジの峠へ /*/
その土曜の午後、思ったより時間はあっさり溶けていった。
朝は安生道場でいつもの稽古。
家に戻れば、買い出しの荷物持ちと、ちょっとした力仕事。
時計を見たときには、すでに午後三時をまわっていた。
(午前中に出るつもりだったんだけどな)
冷蔵庫のスポドリをボトルに詰め、ジェルを二つポケットにねじ込む。
ヘルメットをかぶり、グローブをはめて玄関を出る頃には、日差しはだいぶ傾きかけていた。
郡山の市街地を抜け、緩い上りをこなしていく。
田んぼの向こうに、目的の山の稜線が見えた。
麓の駐車スペースに着いたときには、もう観光バスの姿はなかった。
普通車が数台。子どもを連れた家族連れが、ツツジの写真を撮り終えて帰り支度をしている。
斜面一面に、山ツツジの朱色が灯っていた。
夕方の光を受けて、少しだけ赤みが深くなって見える。
「……きれいだな」
つい、声に出ていた。
ロードをラックにもたせかけ、軽くストレッチをする。
ふと視線を上げると、峠道の途中に小さな鳥居が見えた。
風神と雨神を祀るという、あの小さな社だ。
石段の上、拝殿の前には、まだ新しい榊が供えられている。
太い注連縄は締め直され、紙垂が風に揺れた。ついさっきまで、人が手を合わせていた気配が残っている。
社殿のさらに奥。
木立の影に、四角い岩がひっそりと置かれていた。
低い石垣に囲まれ、細い注連縄だけが張られている。
それが「櫃石」と呼ばれているなど、青見は知らない。
ただ、あそこは「畑に勝手に入るな」みたいな、触れちゃいけない空気があるな、くらいにしか思わなかった。
自転車にまたがり、サイクルコンピュータのスタートボタンを押す。
「一本だけ上って、暗くなる前に帰るか」
自分に言い聞かせるように呟いて、ペダルを踏み出した。
タイヤがアスファルトを噛む感触が、足元から伝わってくる。
まだ勾配は緩い。インナーに落とすほどでもなく、リズムよく回していける斜度だ。
ツツジの朱色が、少しずつ視界の下へ流れていく。
山の匂い。土と草と、わずかな排気ガス。
胸いっぱいにそれを吸い込みながら、ケイデンスを一定に保つ。
やがて、道は本格的な上りに入った。
カーブをひとつ曲がるごとに、勾配がじわじわときつくなる。
インナーロー。ケイデンス九十前後。
太ももの内側に、じわ、と熱が上がってくる。
(ここから先が、だるいんだよな)
そんなことを思った、そのときだった。
ドン――。
耳のすぐ横で、重い音がした。
心臓の鼓動でも、車のドアが閉まる音でもない。
空気そのものが押し出されるような、低くて腹に響く衝撃。
(雷……?)
反射的に空を見上げる。
だが、頭上の雲はまだ薄く、夕方の光を透かしているだけだ。
風が一陣、斜面を駆けおりてきた。
その風の中に、焦げた木と、火薬のような匂いが混じる。
「……は?」
思わず、ハンドルにかけた手に力が入る。
視界の端に、奇妙なものが映った。
山道の脇。ツツジの株の向こうに、土を盛り上げた低い壁が見える。
崩れかけた土塁。その向こうで、破れた布きれが、ありもしない風にはためいていた。
白地に、かすれた文字。
軍旗だ、と気付いたのは、一瞬遅れてからだ。
その手前には、古い軍服姿の男たちが、こちらに背を向けて歩いていた。
肩を落とし、銃を担ぎ、泥に足を取られながら。
――瞬きをした。
次の瞬間には、ツツジと斜面とガードレールだけが残っている。
(ハンガーノック、にしちゃ早すぎだろ)
昼飯はちゃんと食べた。
ここに来る前に、コンビニでゼリーも一本飲んでいる。
手先の冷えもない。頭がぼんやりしているわけでもない。
なのに、耳の奥では、さっきの「ドン」という音の余韻がまだ震えていた。
下の方から、エンジン音が近づいてくる。
普通車が一台、ゆっくりと峠道を登ってくる音だ。
……のはずだった。
そのエンジン音の上から、別の音がかぶさってくる。
馬のいななき。
車輪が泥をはねる音。
遠くで連続して鳴る銃声と、怒鳴り声。
現代の車が走る音に、「別の時代の音」が薄く上書きされている。
(マジで勘弁してくれ)
ペダルを止めそうになる。
だが、足を止めた瞬間、背中のあたりから何かがじわりと迫ってくる気配がして、青見は慌てて踏み直した。
(止まるな。回せ)
安生胆の声が頭の中で蘇る。
『坂で止まったら、心折れんのは脚じゃなくて頭だぞ。回し続けてる限り、まだ行ける』
(そうだ。止まったら、多分、そっち側に持っていかれる)
理由は分からない。
でも、本能がそう告げていた。
大きく、ひとつ息を吸う。
剣道の試合前、中心線を見据えながら、打ち込むタイミングを測るときの呼吸。
腹の底に空気を落とし、吐き出す拍を決める、あの感覚。
(吸って、二拍。吐いて、二拍)
心拍のリズムと、ペダルの回転数を、呼吸に合わせていく。
吸う。吸って――吐く。
踏む。引き上げる。
呼吸と足の回転を、一本の線に通すみたいに。
ケイデンスメーターの数字が、ふたたび八十台に落ち着いた。
耳の奥で鳴っていた砲声と叫び声が、ノイズみたいに遠ざかる。
代わりに、自分の荒い息づかいと、チェーンが回る音、タイヤが路面を噛むざらついた感触が戻ってきた。
(今のオレは、ここを走ってるだけだ。峠を上ってる。それだけだ)
心の中で、何度も言い聞かせる。
さっきまで土塁があったはずの場所には、ツツジと若い木があるだけだ。
破れた軍旗も、兵士の列も、どこにも見えない。
それでも、風の向こう側に、さっきまで別の時間が確かにあった、そんな残り香だけが、しつこく張り付いていた。