カーブをひとつ曲がるたびに、峠は別の顔を見せてきた。
さっきの土塁と軍旗は消えたはずなのに、次のカーブでまた、違う景色が上からかぶさってくる。
退却する兵の列。
山道の片側いっぱいに人が詰め込まれ、靴音と荒い息が重なり合っていた。
肩に担いだ銃、布の包み、血のにじんだ包帯。
誰かが倒れ、誰かが無言でその身体を引きずっていく。
ロードバイクで上っている青見のほうが、よほど息が整っているように思えるくらい、彼らの呼吸は乱れていた。
瞬きをすると、その列はツツジと若木に溶けて消える。
だが、次のカーブを回った瞬間には、別の断片が目の前に滑り込んできた。
茶屋だっただろう場所。
今はただの路肩の広いカーブにしか見えないそこが、一瞬だけ、柱と屋根、そして布をかけた簡易の仕切りを持つ建物に変わる。
野戦病院代わりにされた茶屋。
畳の上にずらりと寝かされた兵士たち。
白いはずの包帯が、どこもかしこも黒ずんだ赤に染まっている。
誰かがうわ言を言い、誰かが黙ったまま天井のない空を見つめている。
茶屋の奥で、誰かが手ぬぐいで顔を覆っていた。
声にならない悲鳴のような息がもれる。
(見せんなよ、そんなもんを)
ハンドルの上で指に力が入る。
だが、ペダルは止めない。
踏む。引き上げる。吸う。吐く。
またカーブ。
そこだけ、季節が壊れていた。
六月のはずなのに、視界の中の峠道には雪が積もっている。
白く固まった路面を、擦り切れた草鞋が滑る。
吐く息が白い。木の枝にも白いものがまとわりついている。
雪の中での銃撃戦。
白い斜面に、黒い影が点々と転がっている。
銃口の閃光が、やけにゆっくり見える。
音だけが遅れて腹に届く。
現実の路面には、もちろん雪なんてない。
アスファルトは乾いていて、タイヤはちゃんとグリップしている。
それでも、ほんの一瞬、前輪が雪を踏んだような錯覚があって、背筋がひやりとした。
そのときだった。
斜面の隅。
倒れ込むみたいに座り込んでいる少年兵と、目が合った。
軍服は大人用なのか、肩が合っていない。
まだ青い顔。自分たちと同じくらいの年齢。
銃を抱えた腕には、血のついた包帯。
助けてくれ、と叫ぶでもなく。
怨嗟の目を向けてくるでもなく。
ただ、じっとこちらを見る目。
見届けろ。
言葉にならない何かが、視線の奥から突き刺さってくるようだった。
次の瞬間、少年兵の姿はツツジに溶けた。
六月の峠道だけが残る。
息が、少しだけ荒くなっていた。
脚の筋肉だけじゃなく、頭の中までじんじんする感じ。
(やめろっての……)
愚痴るように心の中で吐き捨てる。
けれど、ペダルは止めない。
止めたら、そこに足を取られる気がした。
吸う。二拍。吐く。二拍。
剣道の稽古で身体に叩き込まれた呼吸に、足の回転を合わせる。
心拍がリズムを刻む。
コンピュータの数字が視界の端でゆらめく。
今、ここを上っている自分の身体感覚だけを、必死で握りしめるように。
カーブをさらに二つ、三つ。
標高が上がるにつれ、ツツジの数が減り、木々の間から湖面が見え隠れするようになってきた。
やがて、左側の視界に、さっき下から見上げた神社の屋根がちらりと見える高さまで来る。
(このヘアピン曲がった先が、中腹か)
そう思った瞬間、足元の感覚が、またおかしくなった。
道路のアスファルトが、一瞬、「水面」に見えた。
黒くて、深くて、底の見えない水の色。
路面の白線が、波紋にゆらぐ光の筋に変わる。
ペダルを止めたら、そのまま沈む。
本能がそう告げて、思わず太ももに力を込める。
振動はいつもの路面だ。
タイヤは確かにアスファルトを噛んでいる。
なのに、視界の中では、前輪の先に広がるものが「湖」になっていた。
そっと、視線だけを落とす。
落とした瞬間、胸がぎゅっと縮まる。
道路が、ない。
そこには、湖底の町が沈んでいた。
石造りの建物の屋根が、暗い水の底に並んでいる。
窓ガラスは割れ、扉は外れて、魚一匹すらいない。
街灯のような柱が、ゆらゆらと水の中で揺れていた。
そのすぐそばに、小さな鳥居がひとつ、根こそぎのまま沈んでいる。
自分が走っているはずの峠道が、その湖の上に薄く貼り付けられたフィルムみたいに存在している。
同時に、視界の別のレイヤーが、上から差し込んできた。
山の横腹を、乱暴に切り取ったみたいな断面。
そこには、坑道が蜂の巣のように走っている。
霊山の中だろうか。
岩肌をくり抜いたトンネルが、幾本も上下左右に伸びている。
その内部には、金属とも肉ともつかない機械がずらりと並び、薄暗い光を放っていた。
天井近くには、透明な容器がいくつも吊られている。
脳だけが収められた缶。
空洞化した人間の頭蓋骨。
何かが蠢いている気配はあるのに、その本体だけがこちらからは見えない。
湖底都市と、山腹の坑道。
ふたつの異常な光景が、透視図を乱暴に重ねたみたいに、青見の視界を占める。
そのどちらもが、今自分の走っている峠道と、「同じ場所」にあるような、奇妙な感覚。
(ふざけんなよ……)
荒くなりかけた呼吸を、意識して整える。
吸って、二拍。吐いて、二拍。
ペダルを回す。ハンドルを握る。
手のひらに伝わる振動は、確かに現実のものだ。
タイヤがアスファルトを噛む音。
チェーンがスプロケットをなめらかに移動する感触。
汗がヘルメットの縁からこぼれ落ちるぬるりとした感覚。
ひとつひとつを確認するように、身体の外側から内側へ意識を戻していく。
視界の中の湖底都市は、それでも消えない。
坑道の断面も、少しも薄れない。
ただ、その上に「今ここにいる自分」の感覚を、無理やり貼り付ける。
(オレは溺れてない。落ちてもいない。山の中腹を自転車で上ってるだけだ)
言葉にして自分に叩き込む。
足の筋肉が焼けるように熱い。
肺がきしむ。
けれど、その痛みがかえってありがたかった。
少なくともそれは、戊辰戦争の誰かでも、湖底都市の亡霊でも、坑道の住人のものでもない。
今、この瞬間だけは、自分だけのものだと思えたからだ。