なんちゃってクトゥルフ小説   作:ぶーく・ぶくぶく

238 / 240


 

 

 その頃、峠の斜面のずっと下――

 風神と雨神の社のさらに裏手に、櫃石は黙って座り込んでいた。

 

 表面はただの岩だ。

 けれど、その内部は、とうの昔に「ただの石」ではなくなっている。

 

 戊辰戦争でここを越えられずに死んだ者たちの意識。

 湖で浮かばないまま沈んでいった人間たちの記憶。

 山で行方不明になりながら、最後に空へ投げかけた祈り。

 毎年毎年、風神と雨神に向けて繰り返された、雨乞いと豊作祈願。

 そして、霊山の坑道に残された、「人ではない思考」の残響。

 

 そういったものが、長い時間をかけて少しずつ、この石の下に沈殿してきた。

 

 本来なら、それをゆっくり「沈めて」いく存在がいる。

 湖の底の向こう側にいる、古きものたち。

 彼らは、死者と祈りの残りかすを、弱い夢に変えて、深く、深く沈めていく役目を負わされている。

 

 だが、この日は違った。

 

 山ツツジの満開。

 風神・雨神への参詣。

 戊辰戦争の旧跡巡りのツアーバス。

 湖の事故の報道を見てやってきた物好きな観光客。

 

 いろんな「記憶」と「祈り」と「恐怖」が、いつも以上の勢いで櫃石の下に流れ込んできた。

 

 櫃石の中に溜め込まれていたものが、ゆっくりと満杯になる。

 古きものが、静かにそれを沈めようとするたびに、新しい夢と怨念が上から注ぎ込まれてくる。

 

 やがて、限界が来た。

 

 古きものの「バッファ」が、悲鳴を上げる。

 溜め込んだ夢の水面が、櫃石の内側で波打ち、せり上がる。

 

 あふれた。

 

 戊辰戦争の死者の意識。

 湖の底で止まった時計。

 遭難者が最後に見た空の輪郭。

 風神と雨神に向けた願掛け。

 坑道の奥で今も回り続ける、異様な思考の欠片。

 

 それらがごっちゃに混ざって、峠一帯を満たす「夢の洪水」となって、現実の表面へと染み出していく。

 

 ちょうどその一帯に、ロードバイクで突っ込んでいく馬鹿が、ひとり。

 

 青見だった。

 

 

 ◇

 

 

 ペダルが、急に重くなった。

 

 勾配がきつくなった、というだけの重さじゃない。

 さっきまでとギアは変えていない。脚の回転も、それほど落としていない。

 

 にもかかわらず、一踏みごとに、何かが足首に絡みついてくる感触があった。

 

(……なんだ、これ)

 

 重い。

 ただ重いんじゃない。「前に行こうとするほど、後ろから引っ張られる」重さだ。

 

 池の底の泥。

 雪解けでぬかるんだ山道。

 膝まで水に漬かりながら歩くあの感覚が、全部まとめて足首に絡みついてくる。

 

 進もうとすると、そのぶんだけ夢と怨念が足をつかむ。

 振りほどこうとペダルに力を込めた瞬間、耳の中身が、完全なカオスになった。

 

 戊辰戦争の銃声。

 湖底都市のどこかで泡が弾ける音。

 坑道の奥から響いてくる、金属同士が擦れ合う高い音と、人の声とも機械音ともつかない未知の言語。

 

 全部が一度に、全方向から押し寄せてくる。

 

「っ、くそ……!」

 

 思わず悪態が漏れる。

 

 その瞬間、前輪の感触が変わった。

 

 アスファルトのざらつきではない。

 ぐじゅ、とした柔らかさ。

 泥と血の混ざったぬかるみに、細いタイヤが半分沈み込んだような感触。

 

 視界の中の路面が、一瞬で色を変える。

 灰色の舗装路が、暗い土と赤黒い水たまりだらけの道に変わっていた。

 

(まずい――)

 

 ハンドルを立て直そうとした、その次の瞬間。

 

 ぬかるみの道が弾けて、岩だらけの坂に変わる。

 粗い礫がむき出しになった、坑道の床。

 その真ん中に、錆びたトロッコのレールが、ぐにゃぐにゃと蛇のように伸びている。

 

 前輪が、そのレールの隙間に捕まりかけた。

 

 ハンドルがぐらり、と左右に振れる。

 体重が内側に傾き、ロードバイクが倒れかける。

 

(落ちる――)

 

 その一瞬、「落車する」という現実的な危険と、「どこか別のレイヤーに滑り落ちる」という、説明できない恐怖が、ごちゃ混ぜになって頭を殴った。

 

 反射的に、身体が動く。

 

 ペダルに力を込める。

 ハンドルを外側へ切る。

 車体を起こす。

 

 スリップしかけた前輪が、ぎりぎりのところでグリップを取り戻した。

 

 視界の底で、ぬかるみの道と坑道のレールが、紙を破るみたいに裂けていく。

 その裏から、元のアスファルトの路面が、じわじわと浮かび上がってきた。

 

 息が荒い。

 脚は焼けるように痛い。

 心臓は喉から飛び出しそうだ。

 

 それでも、青見はペダルを止めなかった。

 

(ここで止まったら、持っていかれる)

 

 直感だった。

 

 剣道場で、相手の「殺しに来る間合い」に踏み込んでしまったときの、あの感覚。

 半歩でも下がったら、その瞬間に斬られる。

 なら、前へ出て打ち込むしかない。

 

 今、自分の周りに渦巻いているものが、何であれ。

 

(下がったら、あっち側の重みに押し潰される)

 

 そう思った。

 

 だから、前に出る。

 ペダルを回す。

 足を止めない。

 

 吸う。二拍。吐く。二拍。

 呼吸と、ケイデンスと、心拍をひとつにまとめる。

 

 目の端で、戊辰戦争の断片がまたよぎる。

 湖底都市の街灯が瞬く。

 坑道の奥で、何かがこちらを見ている気配がする。

 

 全部、無視する。

 

 自分の前にあるのは、ただの峠道だ。

 勾配と、カーブと、ガードレール。

 それ以外は、全部「向こう側」。

 

(オレは、まだこっちだ)

 

 ハンドルを握り直し、歯を食いしばる。

 

 夢と怨念の洪水が、櫃石からあふれ、峠一帯を満たしていく。

 その中を、ロードバイクの細いタイヤが、たった一本の線を引くように、前へ前へと進んでいった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。