その頃、峠の斜面のずっと下――
風神と雨神の社のさらに裏手に、櫃石は黙って座り込んでいた。
表面はただの岩だ。
けれど、その内部は、とうの昔に「ただの石」ではなくなっている。
戊辰戦争でここを越えられずに死んだ者たちの意識。
湖で浮かばないまま沈んでいった人間たちの記憶。
山で行方不明になりながら、最後に空へ投げかけた祈り。
毎年毎年、風神と雨神に向けて繰り返された、雨乞いと豊作祈願。
そして、霊山の坑道に残された、「人ではない思考」の残響。
そういったものが、長い時間をかけて少しずつ、この石の下に沈殿してきた。
本来なら、それをゆっくり「沈めて」いく存在がいる。
湖の底の向こう側にいる、古きものたち。
彼らは、死者と祈りの残りかすを、弱い夢に変えて、深く、深く沈めていく役目を負わされている。
だが、この日は違った。
山ツツジの満開。
風神・雨神への参詣。
戊辰戦争の旧跡巡りのツアーバス。
湖の事故の報道を見てやってきた物好きな観光客。
いろんな「記憶」と「祈り」と「恐怖」が、いつも以上の勢いで櫃石の下に流れ込んできた。
櫃石の中に溜め込まれていたものが、ゆっくりと満杯になる。
古きものが、静かにそれを沈めようとするたびに、新しい夢と怨念が上から注ぎ込まれてくる。
やがて、限界が来た。
古きものの「バッファ」が、悲鳴を上げる。
溜め込んだ夢の水面が、櫃石の内側で波打ち、せり上がる。
あふれた。
戊辰戦争の死者の意識。
湖の底で止まった時計。
遭難者が最後に見た空の輪郭。
風神と雨神に向けた願掛け。
坑道の奥で今も回り続ける、異様な思考の欠片。
それらがごっちゃに混ざって、峠一帯を満たす「夢の洪水」となって、現実の表面へと染み出していく。
ちょうどその一帯に、ロードバイクで突っ込んでいく馬鹿が、ひとり。
青見だった。
◇
ペダルが、急に重くなった。
勾配がきつくなった、というだけの重さじゃない。
さっきまでとギアは変えていない。脚の回転も、それほど落としていない。
にもかかわらず、一踏みごとに、何かが足首に絡みついてくる感触があった。
(……なんだ、これ)
重い。
ただ重いんじゃない。「前に行こうとするほど、後ろから引っ張られる」重さだ。
池の底の泥。
雪解けでぬかるんだ山道。
膝まで水に漬かりながら歩くあの感覚が、全部まとめて足首に絡みついてくる。
進もうとすると、そのぶんだけ夢と怨念が足をつかむ。
振りほどこうとペダルに力を込めた瞬間、耳の中身が、完全なカオスになった。
戊辰戦争の銃声。
湖底都市のどこかで泡が弾ける音。
坑道の奥から響いてくる、金属同士が擦れ合う高い音と、人の声とも機械音ともつかない未知の言語。
全部が一度に、全方向から押し寄せてくる。
「っ、くそ……!」
思わず悪態が漏れる。
その瞬間、前輪の感触が変わった。
アスファルトのざらつきではない。
ぐじゅ、とした柔らかさ。
泥と血の混ざったぬかるみに、細いタイヤが半分沈み込んだような感触。
視界の中の路面が、一瞬で色を変える。
灰色の舗装路が、暗い土と赤黒い水たまりだらけの道に変わっていた。
(まずい――)
ハンドルを立て直そうとした、その次の瞬間。
ぬかるみの道が弾けて、岩だらけの坂に変わる。
粗い礫がむき出しになった、坑道の床。
その真ん中に、錆びたトロッコのレールが、ぐにゃぐにゃと蛇のように伸びている。
前輪が、そのレールの隙間に捕まりかけた。
ハンドルがぐらり、と左右に振れる。
体重が内側に傾き、ロードバイクが倒れかける。
(落ちる――)
その一瞬、「落車する」という現実的な危険と、「どこか別のレイヤーに滑り落ちる」という、説明できない恐怖が、ごちゃ混ぜになって頭を殴った。
反射的に、身体が動く。
ペダルに力を込める。
ハンドルを外側へ切る。
車体を起こす。
スリップしかけた前輪が、ぎりぎりのところでグリップを取り戻した。
視界の底で、ぬかるみの道と坑道のレールが、紙を破るみたいに裂けていく。
その裏から、元のアスファルトの路面が、じわじわと浮かび上がってきた。
息が荒い。
脚は焼けるように痛い。
心臓は喉から飛び出しそうだ。
それでも、青見はペダルを止めなかった。
(ここで止まったら、持っていかれる)
直感だった。
剣道場で、相手の「殺しに来る間合い」に踏み込んでしまったときの、あの感覚。
半歩でも下がったら、その瞬間に斬られる。
なら、前へ出て打ち込むしかない。
今、自分の周りに渦巻いているものが、何であれ。
(下がったら、あっち側の重みに押し潰される)
そう思った。
だから、前に出る。
ペダルを回す。
足を止めない。
吸う。二拍。吐く。二拍。
呼吸と、ケイデンスと、心拍をひとつにまとめる。
目の端で、戊辰戦争の断片がまたよぎる。
湖底都市の街灯が瞬く。
坑道の奥で、何かがこちらを見ている気配がする。
全部、無視する。
自分の前にあるのは、ただの峠道だ。
勾配と、カーブと、ガードレール。
それ以外は、全部「向こう側」。
(オレは、まだこっちだ)
ハンドルを握り直し、歯を食いしばる。
夢と怨念の洪水が、櫃石からあふれ、峠一帯を満たしていく。
その中を、ロードバイクの細いタイヤが、たった一本の線を引くように、前へ前へと進んでいった。