観音ヘアピンが見えてきた。
地元のローディなら誰もが知っている、最後の難所。
ガードレールが大きく弧を描いて、山肌に貼り付くように折り返している。
(ここ曲がれば、あと数百メートル)
頭では分かっているのに、脚はすでに限界に近かった。
呼吸は火がついたみたいに熱く、肺の中が焼けるようだ。
そして、そのカーブの手前で――世界が、完全に「歪んだ」。
戊辰戦争の斜面。
湖底都市の沈んだ街並み。
霊山の坑道の断面。
三つの景色が、観音ヘアピンの上で完全に重なった。
右側の崖下を見れば、暗い湖水の底に沈む家々が見える。
そのさらに下に、別の海の黒い亀裂が口を開けていた。
左側の山側を見れば、坑道を走る錆びたレールが、ガードレールの内側にぴったりと沿って走っている。
ミ=ゴの機械とも臓器ともつかない装置が、岩の影でじっと回転していた。
その上に、戊辰戦争の斜面がかぶさる。
土塁、銃声、叫び声。雪と泥と血の色。
時間も、空間も、季節も、全部ごちゃ混ぜになって、ただ「ここ」という一点に押し込められている。
カーブの内側。
青見の進路のど真ん中に、それぞれの世界から人影がにじみ出てきた。
あの少年兵。
湖面で手を伸ばしたまま沈んでいく人影。
坑道の隅でうずくまり、頭を抱えている誰か。
三つの影が、まるで透けたフィルムみたいに重なって、青見の前に立ちはだかる。
止まってくれ。
声は聞こえない。
けれど、その輪郭が、そう訴えているように見えた。
ハンドルを握る手に、自然と力が入る。
指先が、ブレーキレバーを探っていた。
(……ここで、止まって、手を伸ばせば)
少年兵の腕を掴むことができるかもしれない。
沈んでいく誰かを引き上げられるかもしれない。
坑道でうずくまる背中に、声をかけられるかもしれない。
そんな考えが、一瞬、頭をよぎる。
同時に、脚から力が抜けそうになる。
止まる。
足を地面につく。
自転車を降りる。
それは、ものすごく自然な選択肢に思えた。
――だが、その「自然さ」に、かすかな違和感が引っかかった。
(……ああ、そうか)
青見は、自分の胸の中で何かが冷えるのを感じた。
これは、「かわいそうだから助けてやりたい」という気持ちだけじゃない。
むしろその裏側にある、
こっちにおいで。
ここで足を止めろ。
一緒にここにいてくれ。
そんな、ぬるりとした引力のほうが、強く働いている。
夢の重力。
死んだものたちの「続きたかった時間」、
届かなかった祈り、
言葉にならなかった後悔。
それらが一塊になって、ここで「止まる」ことを選ばせようとしている。
(ここでブレーキ握ったら――たぶん、戻れない)
直感だった。
喉の奥がからからに乾く。
心臓がうるさい。
脚は悲鳴を上げている。
それでも、ペダルはまだ回っていた。
視界の隅に、別の夜がよぎる。
闇を呼ぶメロディの夜。
体育館の屋根の上で聞いた、あっち側の音。
真紅の戦慄が押し寄せてきた、あの瞬間。
剣を振るった夜。
全部まとめて、胸の奥のどこかに沈んでいたはずのものが、今、息を吹き返すように浮かんでくる。
誰かの声ではなく、自分で自分に言い聞かせるように、言葉が浮かんだ。
勇気=災厄を狩る幻想の剣。
それは、昔どこかで誰かが口にした言葉。
全部を失ったときに残る、ただひとつのはじまりの力。
災厄のほうへ一歩踏み出すための、見えない刃。
(なら――)
青見は、ハンドルを握る手をぎゅっと締めた。
これは剣だ。
ドロップハンドルは柄。
ペダルは踏み込み。
フォークの先から、前輪よりもっと先まで伸びているラインが、自分の一太刀。
(ここを駆け上がることが、オレなりの一振りだ)
ブレーキレバーから指を離す。
代わりに、ダンシングに移るために、腰を上げた。
立ちこぎ。
ペダルに体重を預ける。
ハンドルを左右に振る。
上半身の重さを全部、前に進む力に変えていく。
「おおおっ……!」
喉の奥から、声とも唸りともつかない音が漏れた。
その瞬間だった。
観音ヘアピンの中に充満していた幻が、一気に「斬り払われた」ように薄まった。
少年兵の影が、ハンドルの先から吹き飛ばされる。
彼は、銃を胸に抱えたまま、ゆっくりと背筋を伸ばした。
敬礼。
それに似た動きで、軽く手を上げると、笑ったような気配を残して、風に溶ける。
湖底都市の街並みが、前輪の通った軌跡を境に、波紋を広げながら沈んでいく。
沈んだ鳥居も、石の階段も、暗い水の奥へと引き込まれて見えなくなる。
坑道の奥でこちらを伺っていた何かが、すっと身を引いた。
ミ=ゴの影が、「観察対象変更」とでも言いたげに、視線を別の方向へ逸らす。
櫃石から吹き上がっていた夢の噴煙が、青見の通ったラインを境に、峠の向こう側へ押し戻されていく。
まるで、一本の刃で霧を断ち切ったかのように。
観音ヘアピンを抜けたときには、もう、周囲の景色はほとんど元に戻っていた。
勾配はまだきつい。
脚は悲鳴を上げ続けている。
心拍は限界に近い。
それでも、あのごちゃ混ぜのカオスは、もう追いかけてこない。
(……あと、ちょっとだ)
ハンドルを握り直し、ふたたびサドルに腰を落とす。
視線の先に、峠の頂上の標識が見えた。
残り、百メートル。
五十。
二十。
最後の数メートルは、ほとんど気合だけだった。
そして。
フロントタイヤが、頂上の白線をまたいだ。
サイクルコンピュータを止める余裕もなく、その場で足をつく。
クリートがペダルから外れる、乾いた音がやけに大きく響いた。
息が、喉の奥でひゅうひゅう鳴る。
肺が、火を噴いたみたいに痛い。
それでも、空気は冷たかった。
汗まみれの身体に、峠の風がひやりとまとわりついてくる。
ふと顔を上げると、頭上には当たり前の六月の空があった。
遠くで、ツツジの朱色が薄く見える。
戊辰戦争の銃声も、湖底都市の泡も、坑道の金属音も、どこにもない。
(……生きてるな)
青見は、自分の胸に手を当てた。
鼓動は、乱れてはいるが、確かにここにある。
さっきまで滲んでいた「向こう側」の気配は、後ろの斜面のほうへ遠ざかっていた。
ロードバイクのトップチューブに片手を乗せて、ようやく、深く息を吐く。
「……一本、入ったろ」
誰にともなく呟いた独り言が、峠の風に攫われていった。