◆ 峠の頂上・静まる風 ◆
どれくらい、その場に突っ立っていたか分からない。
青見は、ようやくハンドルから手を離すと、その場でペダルを後ろに回し、バイクを脇のガードレールに立てかけた。
脚が、まだびりびり震えている。
心臓は、胸の中で勝手に暴れていた。
路肩のコンクリートに、どさっと腰を下ろす。
耳の中はうるさいのに、峠の上の空気は驚くほど静かだった。
さっきまでの銃声も、泡の弾ける音も、金属の擦れ合う高音もない。
六月の夕暮れ。
ツツジの朱色が、斜陽に照らされて少しオレンジに寄っている。
ただの、山の上の夕方だ。
(……生きてる。ちゃんと)
胸に手を当てる。
どくどく、と速いリズムで打つ心拍。
脚の震え。太ももの張り。汗でべたつくジャージ。
全部、それなりに不快で、それなりに当たり前の感覚だ。
こういうのを、きっと「生きてる証拠」って言うのだろうと、妙に他人事みたいに思う。
ふと視線を上げると、少し離れたところに小さな社が見えた。
峠の神社。
風神と雨神の祠。
鈴がひとつ、軒先からぶら下がっている。
その鈴が、ふいに、ちり、と小さく鳴った。
風は吹いていない。
木の葉は動かず、ツツジも静かにそこにあるだけだ。
鈴だけが、一度だけ、短く揺れた。
「……了解、ってか」
青見は、思わずそう呟いた。
風神と雨神からの「分かったよ」と、
櫃石の下にいる何かからの「処理完了」の合図。
そう勝手に解釈するには、充分なくらい、タイミングが出来すぎていた。
「こっち側に残った一人分くらい、引き受けてやるよ。みたいな顔して」
誰に言うでもなく笑って、ぐいっと立ち上がる。
ボトルの水をひと口だけ飲んで、口をすすいだ。
汗だらけの顔を腕で拭い、サイクルコンピュータを再び動かす。
「……下りは、集中しろよ、オレ」
そう言い聞かせて、クリートをペダルにはめた。
◆ 下りと現実への帰還 ◆
下りは、何事もなかった。
タイヤが拾うのは、アスファルトの継ぎ目だけ。
耳に入るのは、風切り音と、自分のブレーキの音だけ。
さっきまでの異常が、本当にさっきのことだったのか、疑いたくなるくらい、静かな下り坂だった。
ただ、一つだけ。
観音ヘアピンを少し下った先のカーブで、路肩のツツジの根元に、何かが引っかかっているのが見えた。
古びた軍帽。
色は褪せ、つばの部分は破れている。
でも、その形は、教科書や資料で見た戊辰戦争の帽子に、どこか似ていた。
減速して、ほんの一瞬だけ、そこに目をやる。
触れはしない。
ただ、ハンドル越しに、軽く頭を下げる。
「悪いな。肩貸すのは、今日はここまでだ」
そう心の中でだけ呟いて、そのまま通り過ぎた。
峠道が終わり、街の灯りが近づいてくる。
コンビニの看板が見えるあたりまで下りてきたところで、ポケットの中のスマホが震いた。
信号待ちで止まり、片手だけグローブを外して画面を見る。
門脇からだった。
《お前、今日あの峠走ってただろ》
開口一番がそれだ。
《何で分かるんですか》
そう返すと、すぐに既読が付き、スタンプ代わりの文章が飛んできた。
《オカ研のセンサー一式が、さっきピーク叩き出したんだわ。
共鳴波形が例年の一・五倍。
おまけに人間一人分の運動エネルギーが、そのまま楔になってる》
《日本語でお願いします》
そう打ちながら、苦笑する。
少し間を置いて、門脇から追撃。
《まぁ、後日聞き取りするからよろしくな。
生きて帰ってきたなら、今日のところはオマケ》
スマホをポケットに戻したところで、今度は別の通知が入った。
愛香から。
《さっき、坂のほうから戻ってきてたって聞いたんだけど、ロードで出てた?》
《ちょっとキツい坂だった》
簡単に返す。
すぐに
《無理しすぎないでね。惣くんとゲームする体力残しといてよ》
と返ってきて、少し笑ってしまう。
さらにもう一件。
彩女から。
《今、帰り? ランじゃなくてロード?》
《峠一本だけ。ちょっと変な日だった》
指が一瞬止まる。
余計なことを書きかけて、消す。
《山ツツジ、まだギリギリ綺麗だった》
そう打ち直すと、
《写真撮っときなさいよ。そういうとこマメにしなさいよ》
という返事が返ってきた。
赤信号が青に変わる。
スマホをしまい、ペダルに足を乗せる。
(……うん。やっぱ、こっち側だ)
車列の隙間を縫いながら、青見は、さっき峠で感じた「向こう側」の重さを、もう一度胸の奥で押し返した。
◆ オカ研・Case-TOGE 更新 ◆
数日後。
逢瀬学園・旧校舎の一角。
オカルト研究会の部室には、いつものように紙と電子機器と、お菓子の袋が散乱していた。
門脇は、その真ん中でノートパソコンを開きながら、紙ファイルに何かを書き足している。
ファイルの背には、《Case-TOGE:峠共鳴域》と手書きのラベル。
「今年の峠、やっぱ出力高かったよなぁ……」
ぶつぶつ言いながら、キーボードを叩く。
画面には、波形のグラフと、日時と場所を示すログ。
その隣に、彼のメモが増えていく。
・今年度、古きもの側の処理負荷が例年比一・五倍。
・戊辰戦争由来の残響+湖底由来の夢+霊山側レイヤーが同時にピーク。
・そのタイミングで、峠共鳴域を人間一名が通過。
「で、その人間一名が、よりにもよってうちの二年C組の剣道バカなわけで」
口ではそう言いながら、ペンを止めない。
・高校生ロード乗り一名、運動エネルギーにより「楔」として機能。
・通過時刻以降、戊辰戦争関連の残響レベルが一段階減衰。
・湖底都市レイヤーおよび霊山ミ=ゴ坑道レイヤーも、「観察モード」に移行。
「力技でぶち抜いていくの、マジでやめてほしいんだけどなぁ……」
笑っているのか、呆れているのか分からない顔で、門脇はため息をついた。
紙ファイルのほうにも、ざかざかと走り書きをする。
その余白に、ふとペン先が止まった。
「ま、でも……」
小さく呟いてから、新しい行を作る。
東青見=「勇気の剣」系統のハブとして機能している疑い 要観察
少し考えたあと、「勇気の剣」の部分に二重線を引いて、別の書き方を付け足す。
東青見=災厄に対して前へ踏み込む傾向あり(幻想の剣モチーフ) 要観察
「こんなもんか」
最後にページを閉じ、ファイルを棚に戻す。
オカ研の部室の窓の外では、いつものように校庭の声が響いていた。
◆ 峠と、その向こう側 ◆
峠の櫃石は、その後しばらく静かだった。
一度に吐き出せなかった祈りや怨念を、ある程度外へ流したことで、中の水位が少し下がったのだろう。
風神と雨神への参詣は、来年も再来年も続くだろうが、今日のようなピークは、しばらく訪れない。
だが、何十年かに一度、あるいはもっと長い周期で、また同じような「満杯」がやってくるだろうという予感だけは、峠の空気にうっすらと残っていた。
霊山の坑道の奥。
ミ=ゴたちの装置のひとつに、その日のログが保存されている。
人間・若年個体・地上種。
夢の共鳴を、車輪付きの運動器具により局所的に破断。
観察対象として興味深し。
彼らにとっては、それくらいのメモでしかない。
だが、その「興味深し」の一言が、いつか別の形でこの世界に影を落とすことになるのかもしれない。
その頃、東青見本人はというと――
「お前、また峠行ってたの?」
「脚つくるのにちょうどいいんだよ」
「ほどほどにしなさいよ。こっちは夏までに、水着のライン気にしてんのに」
「それはそれで、ほどほどにしてくれ」
そんな他愛もない会話を、教室で繰り返している。
峠で一度だけ抜いた「一太刀」のことは、胸の奥のかなり深いところに、ひっそり沈めたまま。
勇気=災厄を狩る幻想の剣。
その言葉の重さを、本当の意味で理解するのは、きっとまだ先のことだ。