図書館の不思議な利用者
夕方のカフェテリアは、いつもほどよくにぎやかだ。
授業終わりの生徒たちがトレーを手に行列をつくり、揚げたてのポテトの匂いと、油を切る音が重なっている。
「いらっしゃいませー。ハンバーグセット一つ。……はい、飲み物はオレンジですね」
カウンター越しに、安生梨花は手際よくトレーを滑らせた。
慣れた動きでお釣りを渡し、笑顔を添える。営業スマイルはもう板についていて、クラスメイトからも「マジ店員」とからかわれるほどだ。
――けれど、レジの中身を頭の中でざっと計算しても、その数字が自分の本棚を増やしてくれる未来は、どう考えても見えてこない。
(文庫一冊千円弱。月に何冊読んでる? ……そりゃ無理だわ)
接客の合間、ふとそんな現実的な計算が頭をよぎる。
安生道場の看板姉妹としての顔に、カフェテリアの看板ウェイトレスとしての顔。稽古も学校もバイトも、全部こなすのは嫌いじゃない。むしろ性に合っている。
ただ――。
(本だけは、妥協したくないのよね)
閉店時間が近づき、客足が落ち着いてくると、梨花はレジを締め、同僚と軽く会釈を交わしてバックヤードに下がる。
エプロンを外し、制服のリボンを締め直して、ロッカーからキャンバス地のトートバッグを引っ張り出した。中には、今読みかけの分厚い小説と、返却期限が迫った新書が二冊。
腕時計に目をやる。
郡山市立図書館の閉館までは、まだ一時間ちょっと。
(……間に合う。今日、返して次、二冊はいける)
学校図書館は、カフェテリアのピークと見事に閉館時間がかぶっている。
日が暮れてから自由になる梨花にとって、本当に使えるのは、市立図書館だけだった。
校舎を抜けて外に出ると、夕風が汗ばんだ首筋を撫でていく。
西の空に沈みかけた太陽が、グラウンドと校舎の輪郭を朱く縁取り、その向こうに、街のビル群と、ぽつんと緑の塊になった麓山の木々が見えた。
梨花は早足で校門を出て、バス通りから一本外れた歩道を図書館へと急いだ。
郡山市立図書館は、ガラス張りのファサードが印象的な、少し古風で少し近代的な建物だ。
自動ドアをくぐると、紙とインクと、人の気配が混ざり合った独特の空気が鼻をくすぐる。
受付に返却本を出しながら、梨花はふ、と視線を巡らせた。
何度も通ううちに、ここには「おなじみの顔」が何人かいることに気づいている。
小学生の親子、資格試験のテキストを睨んでいるサラリーマン風の男性、新聞コーナーに陣取るお年寄り……。
その中に、もう一人。
(今日も、いる)
窓際の机。
いつも決まってその席に座っている男が、今日も背中を丸めて本を読んでいた。
年の頃は三十代の後半から、四十に差し掛かるくらいか。
地味なグレーのジャンパーに、色褪せたジーンズ。やせぎすで、肩のあたりがどこか頼りない。
髪は伸びすぎでも短すぎでもない、中途半端な長さで、寝癖をなんとか押さえ込んだように見える。
何より目につくのは、その「生気の薄さ」だった。
動きが少ないのではない。ページをめくる指はしっかりしているし、視線も文字を追っている。
ただ、そこに「生活」の匂いが薄い。仕事帰りの疲れ方とも、学生の勉強疲れとも違う、色の抜けた静けさが、男の周囲だけ空気を変えていた。
(また、あの人)
梨花は返却手続きを終えると、何気ない顔で新刊コーナーへ向かった。足取りは自然だが、意識の端で男の動きを捉え続ける。
数日、数週間と通ううちに、彼がいつも同じ時間帯に現れることに気づいた。
午後六時前後に入口をくぐり、棚を見てまわる時間は短い。
最終的に二冊から四冊ほど抱えて貸出カウンターへ向かい、そのまま長居はせずに建物を出ていく。
そのパターンが、ほとんど狂いなく繰り返されていた。
(仕事帰りって感じでもないし……あの時間に毎日? いや、毎日ではないけど)
その日も同じ時間、男は席を立ち、腕の中に数冊の本を抱えて貸出カウンターへ歩いていった。
梨花は、あくまで偶然を装ってそのすぐ後ろに並ぶ。
「貸出ですね。カードをお願いします」
受付の職員がそう言うと、男は財布から一枚のカードを取り出し、無言で差し出した。
職員がバーコードを読み取る間、カードはカウンターの端に伏せたまま置かれる。
その端から、名前の書かれた欄が、ほんの少しだけこちらに向かって開いていた。
梨花は、無意識を装って視線を落とす。
――菊池 哲夫。
(……キクチ、テツオ)
平凡といえば平凡な名前。
けれど、一度意識すると、図書館の空気の中でその文字だけが妙に浮き上がって見えた。
貸出手続きが終わり、男――菊池は軽く会釈をしてカウンターを離れる。
梨花は自分の番が来ると、何食わぬ顔で借りたい本を二冊差し出した。
「こちら返却ですね。新しい貸出が二冊。期限は……」
事務的な説明を聞き流しながら、梨花は心の片隅でカウンター脇の自動ドアに意識を飛ばす。
透明な扉の向こうを、灰色のジャンパーが横切った。
図書館を出た菊池は、建物横の横断歩道を渡り、街灯に照らされた遊歩道を進んでいく。
梨花は少し時間を置いてから、後を追うように建物を出た。
(別に、ストーカーするつもりじゃないけど)
自分で自分に言い訳しながら、梨花は歩幅を少しだけ狭める。
夜風は昼間より冷たく、仕事で火照った身体にはむしろ心地いい。
図書館の隣には、小高い丘のように盛り上がった緑地がある。
その中腹に、古い石段が続く神社――麓山神社が佇んでいた。
道路から続く参道を、菊池は迷いなく登っていく。
街灯の届かない石段は、木々の影が濃く落ちていて、彼の背中はすぐに暗がりに溶けた。
(……神社? この時間にお参りってわけでもないわよね)
梨花も、少し距離を空けて石段を登る。
足元の砂利がわずかに鳴り、その音がやけに大きく響いて聞こえた。
石段を登りきると、小さな境内が広がっている。
社殿と、その左右に並ぶ小さな祠。
夜の闇がゆるく降りていて、人気はない。風鈴のようなものがどこかでチリ、と鳴った。
――だが、そこに菊池の姿はなかった。
「……え?」
梨花は思わず声を漏らす。
境内は広くない。
駆け足で一周すれば、一分もかからない程度の広さだ。
社殿の裏手に回っても、木々の影があるだけで、人影は見当たらない。
境内の端に近づくと、そこから先はぽっかりと闇に沈む崖だった。
街の明かりが遠く下に瞬いているのが見える。だが、降りるための階段も、遊歩道も、ここからは続いていない。
今の時間帯に、音も立てずここから崖を降りられる人間がいるとすれば、それは人間ではない。
(……いや、さすがに)
一度大きく息を吐き、梨花は足元と周囲をもう一度見直した。
社殿の影、小さな祠、その裏側。
人一人隠れられそうな場所は、全部目でさらう。
それでも、どこにも「さっきまで一緒に石段を登っていた男」の痕跡はなかった。
風が一度、ひゅうと吹き抜ける。
境内に立つ木々がざわりと揺れ、葉の擦れる音が、ざらりとした不穏さを帯びて耳に残った。
(……普通じゃない)
背筋に、細い氷柱をなぞられたような感覚が走る。
安生道場で育った身体は、目に見えない「何か」の揺らぎに敏感だった。
父・龍が酒の席で語っていた話。祖父・李が、稽古の合間にぽつりと漏らした昔話。
――人の世に紛れ込むものたち。
――気配だけ残して、ふっと消えるやつら。
それらが脳裏に重なっていく。
(怪異、かもしれない)
胸の中で、ひとつ言葉が形になった。
梨花は境内の真ん中に立ち、夜の空気を吸い込む。
鼻の奥に、土と木と石の匂い。それに混じって、どこか古い紙のような、乾いた匂いが微かに漂った気がした。
(人の世に紛れ込む怪異なら、放っといたら誰かが被害にあうかもしれない)
安生家の長女として、道場主の孫として。
そして何より、自分自身の性分として。
「……放置は、できないな」
小さく呟いた声は、夜気に溶けて消えた。
梨花は一度だけ境内を振り返り、石段を下りていく。
その背中にはもう、客あしらいの営業スマイルはなく、獲物を見定めた武術家の冷静な光が宿っていた。