その次の夜。
安生梨花は、自室のクローゼットの奥から、稽古用の木刀を一本引っ張り出した。
普段は道場でしか使わないものだが、今日は制服の上から羽織ったジャージの裾に括りつける。
腰に当たる重みが、気持ちを切り替える合図になった。
もうひとつ、懐中電灯をトートバッグに滑り込ませる。
安生家の非常用に置いてある、やたらと光量のある本格派だ。
(本当は、父さんかじいちゃんに話してから動くべきなんだろうけど)
あの二人に相談すれば、即座に「大人の仕事」になる。
NSSと連携して包囲して、結界張って、なんやかんや――多分、それが正解だ。
けれど梨花は、あの境内で自分が嗅いだ匂いと、石の下に潜む気配を思い出し、唇を噛んだ。
(ここまで嗅ぎつけたのに、はいそうですかってバトンタッチは、性に合わない)
危険を承知で踏み込むかどうか――答えは、もう昨日の時点で出ていた。
夜の麓山神社は、前日と同じ静けさに包まれていた。
街灯の明かりが届かない石段を登ると、月だけが頼りになる。
境内に出ると、梨花は真っ先に例の参道脇へ向かった。
昼間に指でなぞった「四角い縁取り」の感触を思い出しながら、砂利の上にしゃがみ込む。
月の位置は、昨夜より少しだけ高い。
社殿の屋根から伸びる影が、地面の上でじわじわ形を変えていく。
(昨日は……このあたりで、あいつが立ち止まって)
梨花は自分の足を、その時見ていた位置と重ねるように、半歩ずつずらしていく。
影の濃さ、風の抜け方、肌に触れる冷気の流れ。
それらを、身体の感覚で微調整していく。
ほんの一瞬――足裏に伝わる地面の感触が、変わった。
砂利を通して、なめらかな石の感触が広がる。
同時に、昼間の何倍にも濃い「地下からの冷え」が、足首を撫でた。
「……ここ」
梨花は立ち上がり、一度深く息を吸い込んだ。
肺の中の空気を入れ替え、心拍を落ち着かせる。
次の瞬間。
地面の上に、黒い線が浮かび上がった。
砂利の隙間から、四角い縁取りがじわりとにじみ出る。
影が濃くなり、その中心が落とし穴のようにぽっかりと沈んだかと思うと――
そこには、昨夜一瞬だけ見たものと同じ「下へ続く石段」が現れていた。
月明かりが階段の縁を白く照らし、その先はすぐに闇に飲まれている。
冷たい風が、下からふわりと吹き上がった。
「……やっぱり、あった」
梨花は呟くと、バッグから懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。
強い白光が、石段の一段目、二段目をくっきりと浮かび上がらせる。
木刀の柄に軽く触れる。
深く、静かに呼吸を整える。
逃げ道の確認。
危険を感じたら、すぐに引き返すルートも想定しておく。
(行く)
迷いは、それきりだった。
梨花は足を、一段目に下ろした。
石の階段は、思った以上に長かった。
足音が、狭い空間でくぐもって響く。
下へ行くほど空気は冷え、湿り気が増していく。
やがて、土と石の匂いに、別の香りが混じり始めた。
――紙。
インク。
古本屋の奥に沈殿しているような、乾いたページの匂い。
(地下なのに、本の匂い……?)
懐中電灯の光が、階段の終わりを照らし出す。
最後の一段を下りると、そこには思いがけない光景が広がっていた。
天井は低く、壁はむき出しの岩。
洞窟のような空間のあちこちに、古い木箱や棚が据えられ、その上にはぎっしりと本が積まれている。
背表紙が日に焼け、紙は黄ばんでいる。
郷土資料のような古い冊子から、比較的新しい文庫本、新書まで――種類はバラバラだが、どれも丁寧に並べられていた。
中央には、粗末な木の机がひとつ。
その上にも、図書館の貸出票が貼られた本や、読みかけの文庫が山のように積まれている。
机の脇には、簡素な椅子。
その背後の天井からは、裸電球と、ランプのような魔術灯が下がっており、オレンジ色の柔らかな光を落としていた。
その椅子に――“それ”は座っていた。
痩せ細った灰色の腕。
指は不自然に長く、骨ばっていて、爪は鈍い鉤のように湾曲している。
袖口から覗くその手は、どう見ても人間のものではない。
肌は全体に灰色がかり、ところどころ土のようにひび割れている。
頬はこけ、顎は鋭く尖り、口元からは白い牙が覗いていた。
――だが、その鼻先には、見慣れたものが乗っている。
細い金属フレームの眼鏡。
レンズ越しに覗く瞳は、意外なほど澄んでいた。
“グール”は、机の上に広げた本に、細い指をそっと滑らせていた。
ページの端を摘まみ、慣れた動きでめくる。
その仕草は、ここまでの見た目を忘れさせるほど、静かで、慎重で――本を大事に扱う人間そのものだった。
梨花が一歩踏み出し、砂利を踏んだ足音が、地下室にコツ、と響いた。
その瞬間、グールはぴたりと動きを止めた。
椅子の背もたれがかすかに鳴り、細い肩がわずかに緊張する。
遅れて、ゆっくりと顔がこちらを向いた。
灰色の肌。
牙の覗く口元。
濁っていてもおかしくないその目は――しかし、驚きと警戒の色を宿し、はっきりと焦点を結んでいた。
「……来客とは、珍しい」
低く、かすれた声が、洞窟に滲んだ。
梨花は、反射的に木刀の柄を握りしめていた。
身体の奥で、道場で叩き込まれた「危険を察知したときの反応」が勝手に動く。
正面から見て分かる。
相手は完全に「人間の形をした何か」ではない。
肉体の密度、動き出しそうな筋肉の気配が、人間とは違う。
(危険)
頭で考えるより早く、骨のレベルでそう判断する。
次の瞬間には、梨花の足が床を蹴っていた。
木刀の切っ先が、一直線にグールの喉元を狙う。
速さと重さを乗せた真っ直ぐな突き。
避けるか、受けるか、どちらに転んでも相手の出方が読めるよう、余白を残した一撃だ。
だが、グールは予想よりも速かった。
椅子ごと弾かれるように後ろへ倒れ込み、身をひねる。
木刀はかろうじて肩口をかすめ、灰色の皮膚が裂けて黒ずんだ血が飛び散った。
「っ……!」
グールは呻き声を漏らしつつ、机を蹴って距離を取る。
倒れかけた本の山を、慌てて片腕で支えながら。
その様子を見て、梨花の中で、また別の警鐘が鳴る。
(本、守った? 今)
突き刺した先にあった本を庇うように、身体をねじった。
完全に“咄嗟の反応”だ。
しかし、判断は鈍らない。
怪異がどれだけ本を大事にしようと、爪と牙を持つ化け物であることに変わりはない。
「怪異なら、退治する」
短くそう告げて、梨花は二撃目に移った。
踏み込む。
横薙ぎの一閃――途中で軌道を変え、フェイントからの下段払い。
グールは柱代わりの岩に爪を叩きつけ、火花を散らしながらそれを受ける。
ぎちり、と嫌な音が響いた。
爪が石を抉り、木刀がわずかに軋む。
(馬鹿力……っ)
安生道場の男子でも、ここまで「生の腕力」任せに受け止める者はそう多くない。
だが、体勢は崩せている。
梨花はそのまま回し蹴りに繋ぎ、グールの脇腹に踵を叩き込んだ。
鈍い衝撃。
グールの身体が、棚に叩きつけられる。
古本が何冊も雪崩れ落ちた。
「本を……!」
掠れた悲鳴のような声が、思わぬ言葉を紡いだ。
「本を壊すなッ!」
次の瞬間、グールの動きが変わった。
梨花を押し返すのではなく、落ちてくる本と棚を庇うように腕を広げる。
その隙を、梨花は見逃さない。
木刀が、今度こそ顎のラインを狙って振り上げられた――はずだった。
だが、グールの首は異様に柔らかくしなり、間一髪で直撃を避ける。
頬の一部が裂け、牙が露わになる。
傷口から黒い血が流れたが、それはすぐに固まり、じわりと塞がっていく。
「……再生、するのかよ」
小さく舌打ち。
安生家の文脈で言えば、典型的な「死人系の怪異」。
殴れば動きは鈍るが、致命傷になりにくいタイプだ。
グールは荒い息を吐きながらも、本棚から身体を離さない。
梨花が一歩踏み込むと、そのたびに棚の前に回り込み、まるで盾のように自分の身体を差し出す。
「……お前、人間じゃないくせに、本の方が大事?」
思わず皮肉が漏れる。
グールは、血のにじんだ口元を釣り上げた。
牙のせいで笑っているのかどうか判別しにくいが、その目にははっきりとした感情が宿っていた。
「人間じゃないからだ。……私から、本を取り上げたら、何が残る」
それ以上の会話を許すつもりはない。
梨花は踏み込み直し、木刀を構えた。
その瞬間。
耳が、上からの異音を拾った。
――コツ、コツ、コツ。
階段を下りてくる、靴底の音。
次いで、低く、金属の部品が擦れるような音。
梨花が一瞬だけ視線を上げた、その時だった。
乾いた破裂音が、地下空間を揺らした。
石床に、火花と共に何かが弾ける。
遅れて、耳鳴りのような重い音圧が鼓膜を叩いた。
「っ……!」
思わず身をすくめた梨花の横で、グールが本棚の影に身を沈める。
粉塵がわずかに舞い、鉛の匂いが混ざった。
「そこまでだ、安生梨花」
聞き慣れた声。
階段口から、懐中電灯とは違う角度の光が差し込んでくる。
桜竜樹が、片手に拳銃、もう片方に懐中ライトを構えたまま、地下室へ降り立っていた。
銃口は、床に開いた小さな弾痕を指している。
明らかに、わざと「外した」一発だ。
「これは“任務外”だ。お前の出る幕じゃない」
竜樹はそう言うと、銃口をゆっくり下ろした。
その視線は、梨花と、その向こうのグールを順番になぞる。
「任務外? 冗談。そいつはグールでしょ。人間の皮を被って図書館を利用して、神社の地下に引きこもってる」
梨花は木刀を下ろさないまま、竜樹に詰め寄る。
額には汗がにじみ、肩で息をしているが、目の光は少しも鈍っていない。
「人間を喰う怪異を放置とか、ありえない」
「知ってるよ、そんなこと」
竜樹は肩をすくめた。
そして、ほんの少しだけ口元を歪める。
「そいつがグールなのも、ここに隠れて本を読んでるのも、人の皮を被って図書館を利用してるのも――最初に見つけたのは、俺たちNSSだ」
その言葉に、梨花の握る木刀に、力がこもる。
「……知ってて、何もしないの?」
「何もしてないわけじゃないさ」
竜樹は軽く銃口を上へ向け、安全装置をかけながら言った。
「いいか、安生。世の中にはな、“人を喰う怪異”と、“本を喰う怪異”がいるんだよ」
そう言って、彼は視線だけでグールを指す。
「そいつは、たまたま後者だったってだけの話だ」