「……“本を喰う怪異”? ふざけてるの?」
耳鳴りの残る地下室で、梨花は木刀を構えたまま、桜竜樹を睨みつけた。
冷たい岩肌、古本の匂い、机の横で息を荒げるグール。
どこをどう見ても、ここは「怪異の巣」でしかない。
「ここ、NSSの管轄の“監視対象怪異”の隠れ家だよ」
竜樹は、あっさりと言ってのけた。
拳銃をホルスターに戻し、代わりに懐中ライトの角度を変え、地下空間全体をゆるく照らす。
「初耳なんだけど」
「まあそうだろ。お前ら安生は、基本“動き出した脅威”をぶっ飛ばす役目だし。ここは、ぶっ飛ばさないで済んでるケースの方だ」
梨花の眉間に、深いしわが刻まれる。
「怪異を生かしておくなんて、危険を増やしてるだけじゃないの? 父さんたちが命懸けで退治してきた連中と、どこが違うの」
問い詰める声には、揺るぎない白黒が乗っていた。
危ないなら倒す。倒せるなら倒す。
安生道場の「答え」はいつも単純だ。単純でいるために、鍛え続けてきた。
竜樹は肩をすくめる。
「全部ぶっ潰せば楽なのは、こっちだって分かってるさ。怪異はゼロ、脅威もゼロ――って世界なら、管理の手間もかからない」
「じゃあ――」
「でも、街はそんなに単純じゃないんだよ、安生」
地下の空気が、わずかに重くなる。
竜樹の声が、さっきまでの軽さをほんの少しだけ失った。
「四十九囲区には、もうずっと前から“人の社会に組み込まれた怪異”がゴロゴロいる。店をやってるやつもいれば、工場で夜勤してるやつもいるし、学校の地下でねぐら作ってるやつもいる」
「……知ってる。じいちゃんたちの世代から、そういう話は聞いてる」
「だろ? そういう連中を、今さら片っ端から狩って回ったらどうなる?」
梨花は口をつぐむ。
脳裏に浮かぶのは、道場に出入りする「ちょっと普通じゃない客」たちの顔だ。
見なかったふりをして、安生家とNSSとでバランスを取っている相手。
「NSSとしては、線引きはひとつ。“人間社会にとって脅威かどうか”。それだけだ」
竜樹は指を一本立てる。
「こいつ――菊池哲夫は、確かに元は人間のグールだ。
けど、生前の未処理の遺体を勝手に掘り返してるわけじゃない」
視線だけで、机の後ろに身を潜めているグールを示す。
「今こいつが“喰ってる”のは、NSS経由で割り当ててる“処理が必要な遺体や死骸”だ。事故でどうにもならなかった動物とか、検体としての役目を終えたサンプルとか、焼却処分待ちのものとか、な」
ゲテモノの話をしているはずなのに、竜樹の口調は淡々としている。
「どうせ燃やすしかないものを、“人間に被害が出ない範囲で”片付けてもらってる。その代わり、
・人間に手を出さない
・人間社会に紛れ込まない
・必要なときは、地下から見える情報を提供する
――こういう契約で、生かしてる」
「……気持ち悪い」
梨花は、正直な感想をそのまま吐き出した。
「人間を喰ってないからセーフです、って話? そんな理屈、被害者が聞いて納得すると思う?」
「“被害者”が出ないように、管理してるんだよ」
竜樹はあくまで冷静だった。
「お前の父さんたちが、命懸けで退治してきた連中と、こいつの違いはひとつ。
向こうは“どこにも繋がってない野良の脅威”だった。
こいつは、“繋いじまえば脅威じゃなくなる”って判断された側ってだけだ」
「繋いで、生かして、その先に何が残るの」
「さあな。少なくとも、今は“本を読む以外に興味がない引きこもり怪異”っていう、NSS的には最高に扱いやすいタイプだ」
竜樹は、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「外に出て暴れる気配もない。
誰かを呪うでも、呼び込むでもない。
夜になったら図書館で本を借りて、ここで読む。それだけ」
「……っ」
梨花は言葉を失う。
理屈では分かる。
けれど、胸の中の「白か黒か」で世界を見てきた部分が、激しく反発していた。
「人の世になじんでる怪異まで狩って回ったら、逆にバランスが崩れる。
どいつもこいつも潜って隠れて、線引きも、管理もできなくなる。――だから、こうして“見える場所”で、繋いでおく」
竜樹は、懐中ライトを少し下げた。
「……で、だ。せっかくお前がここまで来たんだ。本人から話を聞いてみるか?」
そう言って、机の向こうに身を潜めているグールに視線を向ける。
「――起きろ、菊池。お客さんだ」
しばしの沈黙のあと。
机の陰から、灰色の指先がそっと出てきた。
それは机の端を掴み、ゆっくりと身を引き上げていく。
牙を覗かせた顔が現れ、眼鏡のレンズが、ランプの光を反射して白く光った。
「……はいはい。聞こえておりますよ、桜さん」
グールは、どこか疲れたような口調で答えた。
そして、梨花の方へと視線を向ける。
「先ほどは、手荒い歓迎をどうも」
「歓迎するつもりなんて一ミリもないんだけど」
梨花が低く返すと、グールは小さく肩をすくめた。
「では、もう少し“人間らしい”顔でご挨拶しましょうか」
そう言って、グールは目を閉じる。
次の瞬間――その肉体が、内側からわずかに脈打った。
灰色の肌に、薄く血色が差していく。
尖った顎のラインが丸みを帯び、牙が歯茎の中へ沈んでいく。
骨ばった頬に、うっすらと肉が戻り、瞼の周りの窪みが浅くなった。
骨格そのものが、音もなく組み換わっていくようだった。
人間から怪異へ、そして怪異から人間へ。
その境界線を、何度も行き来した結果として定着した、「もうひとつの形」。
やがて、そこに立っていたのは――図書館で何度も見かけた、あの男だった。
地味な服装、やせぎすの体つき、寝癖を押さえ込んだような髪。
そして、鼻先に乗った同じ眼鏡。
「……初めまして。菊池哲夫と申します。元・人間です」
彼は、礼儀正しく頭を下げた。
その仕草は、化け物のそれではなく、どこにでもいる「真面目な中年男性」のものだった。
梨花は、一瞬、言葉を失った。
さっきまで爪と牙を振り回していた存在と、この冴えない男が、頭の中でなかなか結びつかない。
「……安生梨花。逢瀬学園二年」
結局、名乗り返す声は、少しだけ遅れて出てきた。
グール――菊池は、くすりとも笑わなかった。ただ、静かに頷く。
「では、少しだけ昔話をしましょうか」
その声には、開き直りとも諦めともつかない、乾いた響きが混ざっていた。