「もともと、私はただの本好きな会社員でした」
菊池は、机の端に腰を下ろしながら話し始めた。
地下のランプの光が、彼の顔の陰影をくっきりと浮かび上がらせる。
「情報システム系の会社に勤めて、日々、数字とエラーとに追い回されて。
息抜きといえば、帰りに本屋か図書館に寄って、本を抱えて帰ることくらい」
「よくある、社畜ってやつね」
梨花がぽつりと挟む。
「ええ、まあ。私自身は"そこそこうまくやっているつもり"でしたよ。
でも、ある時ふと気づくんです。――"うまくやっているフリ"しかしていなかった、と」
家と会社の往復。
同僚との会話は、仕事と天気の話だけ。
家族と過ごす時間は、疲れでほとんど空っぽ。
「人間関係も、世間も、いつの間にか全部"ノイズ"にしか聞こえなくなっていきました。
上司の小言も、親の期待も、近所の噂も……全部、同じ音量で頭の中で鳴り続ける。
鬱陶しくて、耳を塞ぎたくなるのに、塞いだら"社会人失格"になる気がして」
苦笑とも、うめきともつかない息が漏れる。
「そうやっているうちに、会社に行けなくなりました。
最初は有給、そのうち病欠、そして、長期の休職。――ありがちですね」
梨花は黙って聞いていた。
こういう話は、安生家にも道場にも、あまり縁がない。
問題があれば殴り合って汗を流し、それでどうにかしてきた家だ。
「家にいる時間が増えても、状況は別に良くなりませんでした。
家族からすれば、"働いていたはずの人間"が突然穴を開けたわけです。心配と、苛立ちと、戸惑い。
それらが全部、ごちゃ混ぜになった視線で見られるのは……正直、堪えました」
「……だから、引きこもった?」
「ええ。本に、ですね」
菊池は、机の上の一冊に指先を滑らせる。
「ここにあるようなものを、山ほど積み上げて。現実の方を積み上げるのは諦めて、紙の世界にだけ逃げ込んだ。
仕事も、連絡も、全部後回しにして。
気づいたら、家族との会話も、ほとんどなくなっていました」
梨花は、わずかに眉をひそめた。
「自分から壊しておいて、"壊れました"って顔しないでよね」
「おっしゃる通りです」
あっさりと肯定されて、逆に言葉を失う。
「家族に迷惑をかけ続けて、何かを変える勇気も出せず。
義務も責任も、"そのうち"という曖昧な箱に押し込んで。
気づいたら、自分の人生が、自分の手から完全に滑り落ちていた」
少しの間、沈黙が落ちる。
地下室のどこかで、水滴がぽとりと落ちた音がした。
「そんなときに、出会ってしまったんですよ。――古い魔術書に」
梨花の目が、わずかに鋭くなる。
「魔術書?」
「ええ。もともと幻想文学やオカルト本が好きだったので、その延長で手に取ったんでしょうね。
"本物"かどうかも分からない儀式の記述を読んで……」
そこで、菊池は一度言葉を切った。
わざとらしく内容をぼかすわけではなく、その記憶そのものが、どこか遠くの出来事のように見えるのだろう。
「――"人間をやめる方法"が、そこには書かれていたように思いました」
ように思いました。
はっきりと「書かれていた」とは言わない。
それが、かろうじて残った理性の最後の抵抗だったのかもしれない。
「いっそ、人間でいるのをやめてしまえれば。
世間の目も、家族の期待も、上司の評価も、全部関係なくなる。
代わりに、なにか別の"存在理由"を手に入れられるかもしれない」
「だから、自分に呪いをかけた?」
「ええ。……バカでしょう?」
自嘲の笑みが、口元に浮かぶ。
「今となっては、心底そう思います。
あれは逃げでした。
逃げることしか考えられなくなった末に選んだ、最悪の手段です」
その先の細かい手順は語られない。
ただ、「結果」として、彼はこうしてここにいる。
「気がついたときには、もう"人間としての私"は死んでいました。
肉体も、名前も、戸籍も。
残っていたのは、飢えた肉体と、本にしがみつこうとする意識だけ」
梨花は、木刀を握る手に力を込めた。
「……人、喰った?」
真正面からの問い。
菊池は、目を閉じて、首を横に振る。
「いいえ。そこだけが、私のささやかな自慢です」
その言葉に、嘘は混じっていなかった。
「最初のうちは、飢えを抑えるのに必死でしたが……
運良く、そう長く彷徨わずにNSSに見つけられました」
「運がいい、ね」
「ええ。野良のままだったら、あなたのお父上か、お祖父様あたりに斬られて終わっていたでしょうね」
菊池は、どこか安堵したような顔で言う。
「NSSに捕獲されてから、いくつかの"テスト"がありました。
人間を見せられても、襲わないか。
飢えた状態で、別の選択肢を提示されたとき、どうするか」
それは決して「優しい」テストではなかったはずだ。
けれど、彼はそれをくぐり抜けた。
「その結果、私は"管理可能な怪異"として分類されました。
人間を襲わず、条件を守るなら、生かしておく価値がある――と」
「その条件が、"人間社会に紛れないこと""人を襲わないこと""情報提供"」
梨花が、竜樹の説明をなぞる。
「そうです。そして、私はもう一つだけ条件を出しました」
菊池は、机の上の一冊にそっと手を置いた。
「――本を読むことだけは、許してほしい、と」
ランプの光が、レンズの奥の瞳に反射する。
「人間だった頃、私は本を"逃げ場"としてしか使えませんでした。
現実から目を背けるための、都合のいい壁。
でも、こうなってしまった今、せめてその逃げ場に"向き合う場所"として向き合いたかった」
「意味、分かんない」
「でしょうね」
少しだけ、肩の力の抜けた笑みがこぼれる。
「だから、私はこうして地下に居座ることを許されました。
代わりに、
・市の処理場から回される"燃やされるはずだったもの"で飢えを満たすこと。
・地上の人間には手を出さないこと。
・図書館で本を借りる時は、人間の姿を保つこと。
・そして、時々、こうしてNSSの人間の質問に答えること」
菊池は、両手を広げて見せる。
「結果として、"本だけ読んでいる怪異"がひとり、四十九囲区の地下に生まれたわけです」
「それで、あんたは満足なわけ?」
梨花の声には、まだ棘が残っていた。
「家族に迷惑をかけたまま、逃げるように死んで。
人間やめて、地下で本読んでるだけの生活を、"これでいいや"って顔して続けてるのが」
菊池はしばらく黙っていた。
返す言葉を探しているのではなく、その感情をそのまま受け止めているように見える沈黙だった。
「満足、ではありません」
やがて、静かに答える。
「ただ――これが、"これ以上、誰にも迷惑をかけずに済む形"だと、今はそう思っているだけです」
「それって、"もう何もしない"って決めたってことじゃない」
「ええ。そうかもしれない」
逃げ続けた末に、ようやくたどり着いた「行き止まり」。
そこに座り込んで、ページだけめくっている。
「人間に戻るつもりは?」
「戻れませんよ」
即答だった。
「これは、そういう呪いです。自分で自分にかけてしまった。
今さら"やっぱり人間がいいです"と言っても、誰もその願いを叶えてはくれない」
その言葉には、悲しみではなく、諦めと自覚が混ざっていた。
「だからこそ、せめて――この姿で、何か意味のあることをしたいとは思っています。
本を読むことも、情報を渡すことも、その一部になり得るなら」
「情報?」
梨花が首をかしげると、菊池は周囲の壁を指差した。
「ここからは、いろいろなものが見えるんですよ。
地中を流れる"何か"の動きも。
四十九囲区の地下を這い回る、別の怪異の気配も。
時には、あなた方人間が知らない"異常"の兆しも」
そこで、竜樹が口を挟む。
「こいつは、地下からの"センサー"でもある。
だからこそ、NSSとしてもそう簡単に捨てられないってわけだ」
「……利用価値があるから、生かしてるってこと?」
「酷い言い方をすれば、そうだな」
竜樹はあっさり認めた。
「でも、利用されてるのはNSSの方でもある。
脅威を減らすために、あえて"人の世になじんだ怪異"を残してるんだ」
梨花は、息を吐いた。
頭の中の「白」と「黒」が、がりがりと噛み合う音がする。
どちらともつかない灰色が、じわじわと視界に滲み込んでくるようだった。
目の前には、
自分で人間をやめ、グールになり、今は地下で本を読んでいる男がいる。
怪異としては、致命的なほど"やる気がない"。
人としては、致命的なほど"逃げてきた"。
そのどちらもが真実で、どちらもが間違っている。
(……こんなやつまで、斬るべき"敵"ってことにしないと、わたしは安生でいられないの?)
言葉にならない問いが、胸の奥でうずく。
木刀を握る手が、ゆっくりと強張りを失っていくのを、梨花自身が一番よく感じていた。
しばしの沈黙のあと、梨花はふっと視線を横にそらした。
机の上には、市立図書館のラベルが貼られた本が何冊も積まれている。
貸出票の紙には、見慣れた図書館のスタンプと、返却期限の赤い文字。
「……それにしても」
梨花は、そのうち一冊の端を指で弾きながら言った。
「よくもまあ、堂々と図書館の本を借りてこれるわね。住民票も無い、死亡扱いなんでしょ?」
「ええ」
菊池はあっさり頷く。
「本を買うお金も、住民票もないのでね」
乾いた冗談みたいに聞こえたが、その実情は笑えない。
彼は指先で自分の胸ポケットを軽く叩いた。
「人間の姿のまま、まだ“行方不明”になる前に作った図書カードが一枚。
あとは、NSSの人間に住所確認の目をつぶってもらっているだけです。
形の上では、まだ“郡山のどこかで生きているはずの市民”ですから」
「ズルじゃん」
「そうですね。かなり、ズルい」
否定はしない。
眼鏡の奥の目は、自分自身を責める色と、それでも手放せないものを見つめる執着の色が、奇妙なバランスで混じっていた。
「だからこそ、せめて――図書館との約束だけは守っています」
菊池は、机の端に積まれた本の束を指先で揃えながら続ける。
「借りる冊数も、期間も、きちんと守る。
延滞はしない。傷つけない。汚さない。
貸出票のスタンプが押されて、返却日までに戻ってくる限り、図書館にとって私は“ただの利用者”です」
「それで、“世界との繋がり”のつもり?」
「はい」
即答だった。
「もう職場も、家族も、近所付き合いも、全部失いました。
戸籍の上ではまだどこかにいることになっていても、実際には“どこにも属していない”。
そんな私が唯一、名前を呼ばれ、カードを差し出し、貸出を受けられる場所が――あそこなんですよ」
“郡山市立図書館”という、何の変哲もない公共施設。
誰でも入れて、誰でも本を借りられる場所。
その窓口で、「菊池哲夫さんですね」と名前を確認される。
「それが、残された最後の“公共圏”であり、世界との細い糸です。
借りた本を返しに行く限り、私は“どこかにいる誰か”として扱われる。
その距離感が、今の私にはちょうどいい」
「……」
梨花は唇を噛んだ。
なんとなく分かってしまう自分が腹立たしい。
安生家は、うるさいほどに「場所」がある家だ。
道場も、家族も、学校も、カフェテリアも。
どこへ行っても、誰かが名前を呼び、用事を振ってくる。
そこを全部、自分から手放した人間の感覚は、想像の外だ。
「家族に迷惑をかけたまま逃げたくせに」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「呑気に本を読んでるだけなの?」
地下の空気が、ピンと張りつめる。
竜樹がちらりと横目で梨花を見たが、すぐに黙り込んだ。止めるつもりはないらしい。
菊池は、その言葉から目をそらさなかった。
「……呑気に、というのは、違うかもしれませんが」
少しだけ考える素振りを見せてから、静かに続ける。
「おっしゃる通りです。私は家族に迷惑をかけたまま逃げました。
彼らの前から“消える”という、最悪の形で」
否定も、弁解もしない。
そのまま飲み込んで、喉を通していく。
「だから、今さら何かを取り繕おうとも思っていません。
償いなんて、大それた言葉を使う資格もないでしょう」
「じゃあ、何」
梨花は、木刀の柄を握り直した。
「地下に潜って、本だけ読んでるのが、“せめてもの反省”?」
「……せめてこれ以上、誰にも迷惑をかけないで済むように、ですね」
菊池は、目を伏せて微かに笑った。
「家族にも。
街にも。
あなた方のように、わざわざ命をかけて戦っている人間たちにも」
その笑いは、楽しげでも、救済を求めるものでもない。
ただ、居場所を失った人間が最後に選んだ「穴ぐら」の中で、どうにか自分を許そうとする者の笑いだ。
「ここで静かに本を読んでいる限り、私は誰の邪魔にもならない。
飢えは、NSSが回してくれる“処理すべきもの”で満たす。
人間を喰わない。
地上に出て暴れない。
それだけが、私に残された“償いにもならない償い”です」
梨花は、鼻で短く息を吐いた。
「甘すぎ」
「ええ。甘いですとも」
菊池はあっさり認め、そしてようやく、少しだけ梨花から視線を外した。
机の上の本へと、指先を伸ばす。
「でも、人間だった頃の私は、その甘さすら選べませんでした。
逃げたいとも言えず、謝りたいとも言えず。
何も決めないまま、流されるように、ただ日々を消費していた」
ページの角を撫でる指は、怪異のものにしては驚くほど柔らかい。
「今の私は、自分の意思で“ここ”を選んでいます。
それが、逃げであることも、自己満足であることも理解した上で」
「それを、生きてるって言えるの?」
梨花の問いは、今度は真っ直ぐだった。
怒りや侮蔑だけじゃない。
そこには、自分自身にも向けられた疑問が混じっている。
戦うために鍛えて、守るために動いて。
それが“生きている”ことなのか。
怪異と人間の境界の話をしながら、話題はいつのまにか「生き方」の話になっていた。
「さあ」
菊池は、ほんの少しだけ首をかしげた。
「正直なところ、私にも分かりません。
すでに一度死んだ身ですからね。
こうして本を読んでいる時間が、“生”なのか、“死にそこねた余白”なのか」
そして、口元に乾いた笑みを浮かべる。
「ただ、死んだ時よりはずっと、“本を読んでいる”ぶんマシですよ」
あまりにも、ささやかな基準だった。
英雄譚にもならないし、贖罪譚としても薄すぎる。
けれど、だからこそ、それは妙にリアルだった。
梨花は、返す言葉を見つけられなかった。
木刀を握る手が、知らないうちに力を抜いている。
地下室の天井近くで、ランプの光がわずかに揺れる。
古本の紙の匂いと、冷たい土の匂い。
その真ん中で交わされた、たった数行のやり取り。
――それを、生きていると言えるのか。
その問いは、グールだけに向けられたものではなかった。
安生梨花自身にも、四十九囲区に生きる全ての“人と怪異”にも、等しく突きつけられる問いとして、静かに地下の空気に沈んでいった。