しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
地下室には、ランプの小さな唸りと、遠くで水滴が落ちる音だけが響いている。
梨花は木刀を握ったまま、菊池を見ていた。
斬るでもなく、完全に下ろすでもなく、中途半端な高さで止めた木刀だけが、今の自分の迷いそのものみたいで気に食わない。
やがて、梨花は小さく息を吐いた。
「……分かった」
自分でも意外なくらい、声は落ち着いていた。
「あんたが誰にも手を出さないなら、わたしからは手を出さない」
グールでも、人でも、その中途半端な何かでも。
こいつが「本だけ読んでいる限り」は、今ここで決着をつける理由はない。
「でも」
木刀の切っ先を、ほんの少しだけ持ち上げる。
そのまま、まっすぐ菊池の胸に向ける。
「もし人に害を出したら、その時はわたしが斬る。その覚悟はしときなさい」
脅しでも、ポーズでもない。
安生家の長女としての、本気の宣言だ。
菊池は、その言葉をまっすぐ受け止めた。
しばし梨花を見つめ、それから、ゆっくりと頭を下げる。
「……はい。その時は、安生さんにお願いしたい」
「お願い、ね」
「ええ。どうせ誰かに斬られるのなら、戦い方を知っている人に斬ってもらいたいですから」
乾いた冗談めいた口ぶりだったが、その目には、変な取り繕いはなかった。
自分の行く末を、もうずっと前にどこかへ置いてきてしまった人間の目だ。
梨花は、ふっと木刀を肩へ担ぎ直す。
「……じゃあ、とりあえず今は保留。保留期間中にヘマしたら、そのときは即アウト」
「心得ました」
菊池は、まるで図書館の利用規約でも聞かされているみたいな顔で頷いた。
「じゃ、条件追加」
少しだけ張り詰めていた空気が緩んだタイミングで、梨花は思い出したように指を一本立てた。
「図書館の新刊を独り占めするのは禁止」
「はい?」
今度は、さすがの菊池も目を瞬かせる。
「あんた、あれでしょ。こっそり人気どころの新刊とか、マイナーな専門書とか、いい感じに借りていくタイプでしょ。
いつも“貸出中”で腹立つやつ」
「心外ですね……と言いたいところですが、否定しづらいのが辛いところです」
眼鏡の奥で、ほんの少しだけ目が泳いだ。
図星らしい。
「だから、こうしよう」
梨花は机の上から、空いているメモ用紙を一枚つまみ上げた。
傍らに転がっていたボールペンを掴み、さらさらと何かを書く。
「“おすすめリスト”」
「おすすめ……?」
「そう。あんたが読み終わった本の中で、“これはいい”ってやつを、タイトルと一言コメント付きで書いておくの。
で、それをある棚の間に挟んでおく。分かる人にしか分からない、ひみつの交換ノートみたいな感じで」
「交換……?」
「わたしも、気に入った本があったらそこに足してく。
“安生梨花より:これは筋肉の描写がすごい”とか、“主人公のメンタルがゴリラ”とか」
「最後のは、若干読む人を選びそうですね」
菊池の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
地下の空気が、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
「それなら、新刊の予約状況をチェックする手間も省けますね。
私が先に読んだものをリストにしておけば、あなたは“当たり”だけ狙って読める」
「そうそう。あんたのレビューが役に立たなかったら、わたしがここに文句言いに来るし」
「それは……プレッシャーがすごいですね」
少し大袈裟に肩をすくめてみせたあと、菊池はメモ用紙を両手で受け取り、丁寧に折り畳んだ。
「……でも、それは、楽しそうですね」
「でしょ」
梨花は、ようやく心からの笑みを浮かべた。
「怪異だろうが何だろうが、本の趣味が合うなら、読書仲間くらいにはなってあげてもいいわよ」
「光栄です。怪異冥利に尽きます」
冗談とも本気ともつかない返しに、梨花は「何それ」と呆れたように笑う。
そのやりとりを、桜竜樹は壁にもたれかかったまま眺めていた。
「――はいはい。いい感じにまとまったところで、一言だけオジサンから」
竜樹が手を叩いて、話を締めにかかる。
「安生梨花。これで、お前もこの街の“本の守り人”の一人ってことでいいな」
「は? 何そのダサい肩書き」
「ダサいけど、意外と重要なんだよ。
怪異を見つけて、すぐ殴るだけの守り人はもう足りてる」
竜樹は、指を二本立てる。
「人の世になじんでる怪異を見つけたら――
まず観察。
次に対話。
それでも駄目なやつだけ殴れ。覚えとけ」
「……最初からそれ教えろ」
「言ったって、お前ここまで来ただろ。結果オーライだ」
軽口の裏に、ほんの少しだけ本気が混じっている。
安生道場方式から、NSS方式への“アップデート”を押しつけてくるような感覚。
梨花は、ぼやきながらもその言葉を頭の中に刻みつけた。
「じゃ、今日はここまで。
安生、お前は地上に戻ったら、いつも通り“何もありませんでした”の顔してろ。
菊池、お前は――延滞するなよ」
「しませんよ。そこだけは、あなた方より遵法精神が強いつもりです」
「はいはい、頼もしいこって」
適当なやりとりを最後に、竜樹は梨花に階段の方を顎で示した。
梨花は木刀を背に回し、地下室を振り返る。
「……じゃあ」
菊池に向かって、ほんの少しだけ顎を上げる。
「新刊の感想、楽しみにしとくから」
「善処します」
再び頭を下げる菊池を残し、梨花は石の階段を上っていった。
背後で、ラムプの光がゆっくりと遠ざかっていく。
数日後の、月明かりの晩。
麓山神社の境内は、相変わらず静かだった。
昼間の喧騒も、夕方の通り抜ける人影も消え、今はただ、虫の声と風の音だけが、広い空間を満たしている。
石段を上りきったところで、梨花は立ち止まった。
見慣れた社殿、祠、石灯籠。
どこかに監視カメラがあるかもしれないが、目に見える範囲には誰もいない。
――けれど、よく目を凝らせば。
参道脇の、あの一角。
砂利の下から、ごくごく弱い光が滲むように漏れていた。
ランプのオレンジ色が、土と石を透かして、ほんのわずかに表面を照らしている。
耳を澄ませば、風とは違う、かすかな音が聞こえる。
……ペラ。
……ペラリ。
ページをめくる、乾いた紙の音。
地下から届くにはあまりにも小さな音なのに、梨花の耳には、妙にはっきり届いた。
「……本当に、読んでるだけなんだから」
呆れたように、小さくため息をつく。
でも、そのため息は、あの日地下で聞いた「いっそ人間をやめた男」の生き方に対する、ささやかな了承でもあった。
梨花はリュックを下ろし、中から分厚い文庫本を一冊取り出した。
郡山市立図書館のラベルが貼られた、貸出中の本だ。
石段の端に腰を下ろし、ページを開く。
月明かりと、境内の隅に設置された小さな照明だけが、文字を照らしてくれる。
上から読者。
地下にも読者。
間に挟まれた土と石を、本のページのように思いながら、梨花は静かに文字を追い始めた。
風が吹く。
神社の木々がざわりと揺れ、どこかの家の犬が遠くで吠える。
それでもここだけは、時間がゆっくりと流れているように感じられた。
(……“本の守り人”、ね)
竜樹のふざけた肩書きを思い出し、梨花は苦笑する。
(まあ、怪異だろうと人だろうと、本をちゃんと返すやつの味方ってことで)
ページをめくる指が、同じリズムで動く。
地上と地下で、二つの読書の音が、ささやかに重なった。
――「月明かりの晩、麓山神社で本を読む眼鏡のグールがいる」
そんな噂が、いつか郡山の怪談として、どこかの誰かの口からこぼれるかもしれない。
そのときはきっと、誰も知らないところで、もう一人の“本の守り人”が、少しだけ肩を震わせて笑っているのだろう。