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わたしは機嫌が悪い。
自分でも分かっている。顔に出ているし、声も尖っている。分かっているのに、抑えが利かない。
確認するほどの事じゃない――そう頭では分かってるのに、確認しないと今度は誰かに八つ当たりしてしまいそうで、それが怖い。
昨日、青見は学校をサボった。
それだけなら、まだ良い。風邪かもしれないし、サボりたい気分の日だって、人間ならある。
でも問題はそこから先だ。
家にもいない。スマホにかけても繋がらない。呼び出し音すら鳴らない、いきなり留守電に飛ぶ、あの嫌な無音。
画面に「接続できません」の文字が出るたびに、わたしの胸の中で何かがきしきしと音を立てて軋んだ。
イライラする。
理由の分かるイライラじゃない。怒りとも心配ともつかない、名前の付けられない感情が、胸の内側を爪でひっかくみたいに引っかいてくる。
「どうせまた、勝手にどこか行ってるんでしょ」
そう決めつけてしまえば少しは楽なのに、頭の片隅で、最悪の想像ばかりが膨らんでいく。
イライラして、イライラして、どうしようもなくて――結局、昨日は惣一郎に八つ当たりした。
夕飯の時、お母さんの何でもない一言に噛みついて、箸をテーブルに叩きつけるように置いて。それからの沈黙の重さが、今も喉の奥に引っかかっている。
悪いのは惣一郎じゃない。お母さんじゃない。分かってる。
分かってるのに、その優しい顔が妙に癪に障った。何も知らないみたいに、いつも通りでいられることが、羨ましくて、腹立たしくて。
昨日の放課後、結局わたしは、ひとりで墓地まで行ってみた。
あそこなら、青見がいるかもしれないと思ったから。あいつがよく、あの静かな場所で時間を潰しているのを知っていたから。
曇った空の下、人気のない道を、制服のスカートを気にしながら早足で歩いた。風が冷たくて、頬を撫でるたびに心まで薄く冷えていく気がした。
墓地の門をくぐると、ひんやりした空気が一段と濃くなる。
石碑の並ぶ細い道を、わたしは何度も見落としがないか確認しながら歩いた。
青見の姿は、どこにもない。
ベンチにも、階段にも、あいつがよく座っていたお気に入りの場所にも。
探せば探すほど、見つからないという事実だけがくっきりと浮かび上がってきて、足元の地面が、少しずつ不安定な泥に変わっていくような心地がした。
イライラして、グラグラして、同じトコをグルグル回る心。
「どうしていないの」「どこ行ったの」「なんで何も言わないの」
問いだけが増えていって、答えはひとつも見つからない。
それはもう、単なる機嫌の悪さなんかじゃなかった。
心配と不安が混ざり合って、どろどろした重たい塊になり、胸の真ん中に居座って動かない。息をするたび、その塊がじわりと膨らんで、喉元までせり上がってくる。
帰り道、スマホを何度も握り直した。
画面を見て、連絡先の名前をタップして、繋がらないコールを聞いて、ため息をついて――それを繰り返すたび、自分の中の何かが少しずつ擦り減っていく。
家に着く頃には、イライラと不安は区別がつかなくなっていた。
ただひとつ確かなのは、青見がいないという現実と、わたしがそれをどうすることもできないという無力さだけ。
だから、わたしは今日も機嫌が悪い。
誰かを傷つけないために確認しないといけない。
――ねえ、青見。
あんた、一体どこにいるの。
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昼休みが終わって、五時間目と六時間目の間の休み時間。
チャイムの余韻がまだ空気に残っていて、廊下には「次の授業だるい」とか「プリントどこやったっけ」なんて声が、ぼんやりと漂っている。
まだ教室に戻るには早いか――そう思って、わたしは窓の外を眺めながら、廊下をゆっくり歩いていた。その時だった。
『――一年C組、安達彩女さん。至急、理事長室まで来てください。繰り返します――一年C組、安達彩女さん……』
校内放送のスピーカーから、自分の名前がはっきりと響いた。
足が、ぴたりと止まる。
「……え?」
間抜けな声が口から漏れる。思わず周囲を見渡す。
廊下にいた何人かの生徒が、ちら、とこっちを振り向いた。
好奇と、少しの「何したの?」が混ざった視線。中には、ひそひそと耳打ちし合う子たちもいる。
(え、ちょっと待って。理事長室?)
胸の奥が、きゅっと冷たく縮む。
そこまで怒られるような事、した覚えはない。
遅刻もしてないし、テストでカンニングしたわけでもない。
この前、体育の時間にボールを思いっきり外して、男子の背中にぶつけたくらいだ。それで理事長室行きはさすがにないはず。
(理事長室って……そうだ、今の理事長、伊集院さんだ)
一昨年、前の理事長――白髪で、いかにも「学校の偉い人」という感じのあの老人から、職を譲り受けたばかりの若い理事長。
二十代。スーツを着ていても、どこか学生の延長みたいな雰囲気のある人。
伊東惣一郎の叔父であり、そして――
(青見の、後見人)
そこで、嫌な予感がした。
理由も根拠もない。ただ、「あの子のことだ」と、訳もなく思った。
さっきまでなんとなく眠たかった頭が、一瞬で冴え渡る。
胸の鼓動が早くなるのを感じながら、わたしは理事長室のある階へ向かう階段を上がった。
足音がやけに大きく響く。自分の足音なのに、少し遠くで誰かが走っているような、現実感の薄い響き方だった。
階段の踊り場で一度、深呼吸してみる。
肺いっぱいに冷たい空気を入れて、ゆっくり吐き出す。
それでも喉の奥のざらつきは全然消えてくれない。飲み込んでも飲み込んでも、心配と不安の塊だけがそこに残る。
理事長室の前に立つと、磨かれた木のドアに、金色のプレートが光っていた。
「理事長室」。
ピカピカに磨かれたその文字が、今はやけに圧迫感を持って迫ってくる。
ノックする指先が、ほんの少し震える。
コン、コン、と二度叩くと、中から落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
扉の取っ手が、手のひらの中で少し冷たかった。
扉を開けると、柔らかい照明に照らされた部屋の中に、伊集院貴也がいた。
黒髪をきちんと撫でつけ、紺色のスーツを着た、まだ若い男の人。
デスクには書類がきれいに並び、その横に、見慣れた旧理事長とのツーショット写真が額に入って立てられている。
壁際には本棚があって、難しそうな背表紙の横に、意外とポップなデザインのビジネス書なんかも混じっているのが見えた。
「失礼します……」
そう言って中に入ると、伊集院は椅子から立ち上がり、軽く会釈した。
その動作は丁寧だけど、どこかぎこちなくて、「若い理事長」という肩書きに、まだ少し慣れていないのかな、と一瞬どうでもいいことが頭をよぎる。
「来てくれてありがとう。安達彩女さん、だね」
「はい」
ドアを閉めた途端、室内がやけに静かに感じる。
外の廊下のざわめきが嘘みたいに遠のいて、時計の秒針の音が、やけに大きく耳に届いた。
「座っていいよ。そんなに緊張しなくて大丈夫だから」
ソファを手で示されて、わたしは素直に腰を下ろす。
クッションがふかふかで、身体が少し沈み込んだ。
落ち着くどころか、逆に余計に不安になる。こんな、来客用って感じのちゃんとしたソファに座らされるような話って、ろくな内容じゃない気がして。
(なんで、わざわざ理事長室なんだろ……本当に、何か悪いことしたっけ?)
頭の中で心当たりをかき集めてみるけれど、どうしても「理事長室レベル」の出来事には行きつかない。
昨日の自分の言動まで逆再生するみたいに思い返して、それでもやっぱり、思い当たる節はない。
そんなわたしの動揺を見透かしたように、伊集院は少しだけ申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「突然呼び出して驚かせてしまって、ごめんね。怖がらせるつもりはないんだ」
「い、いえ……」
声が少し上ずる。自分でも情けないと思うくらい、か細い声。
伊集院は一呼吸おいてから、ゆっくりと言葉を継いだ。
その仕草が、「これから大事なことを言う」という合図のように見えて、自然と背筋が伸びる。
「彩女くん」
そこで、ふっと表情が引き締まる。
さっきまでの柔らかい笑みが消えて、理事長としての顔――そんな風にしか形容できない、きちんとした真剣な表情がそこにあった。
その変化を見た瞬間、胸の奥の不安が、一気に形を持って押し寄せてくるのを感じた。
「青見くんのことなんだけれどね」
その名前が出た途端、心臓がどくん、と跳ねた。
指先の血の気が、一瞬で引いていく。
「――青見、が?」
自分でも驚くくらい、声がひっかかる。
伊集院は頷き、わたしをまっすぐ見つめた。
逃げ場を塞がれるような、でも突き放すのとは違う、静かな視線。
「青見くんは昨夜、交通事故にあってね」
言葉が、頭に入ってくるのに、数秒かかった。
「交通事故」という音だけが、何度も何度もこだまのように繰り返される。
意味がついてこない。ただ音だけが、耳の中で反響する。
「……え?」
間の抜けた声が、勝手に口から漏れた。
「今、病院で治療を受けている。怪我と、少し火傷もしているようなんだけれど……命に別状はない。そこは安心してほしい」
怪我。
火傷。
昨夜。
頭の中で単語がばらばらに浮かんでは、うまく繋がらない。
昨日の放課後の景色、夕方の墓地の冷たい空気、スマホの「接続できません」の画面――そういう断片的な記憶と、「交通事故」という言葉が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、気持ち悪い。
(……あいつ、学校サボって、スマホも繋がらなくて、家にもいなくて……)
昨日一日中、わたしをかき乱していた「不在」の理由が、今、ひどく乱暴な形で説明された気がした。
まるで、出来上がっていたジグソーパズルを、誰かが勝手に違う絵柄にすり替えたみたいな違和感。
伊集院は続ける。
「スマートフォンも壊れてしまったみたいでね。こちらからも連絡がつかなくて、きっと彩女くんも心配しているだろうと思って、学校の方から呼ばせてもらったんだ」
言われてみれば、その通りだ。
その通りなのに、心はまるで追いつけない。
昨日の自分が、頭の中でフラッシュバックする。
イライラして、惣一郎に八つ当たりして、墓地まで探しに行って――
見つからなくて、腹を立てて、心の中で「バカ」だの「心配かけんな」だのと、散々なことを思っていた自分。
(わたし、その間ずっと……)
どろり、と胸の中に罪悪感が流れ込んでくる。
あの時、吐き捨てるみたいに心の中で並べた悪態が、今になって全部、自分に向けて振り返ってくる。
テーブルの上で組んだ手に、力が入った。
指先が白くなるのが、自分でも分かる。爪が掌に食い込むくらい強く握りしめていないと、ここで涙がこぼれそうで。
「……それ、いつ……ですか。事故にあったの」
なんとか絞り出した声は、自分のものじゃないみたいに震えていた。
「昨夜だよ。詳しい場所や状況は、まだ警察も調査中なんだけれどね」
伊集院は慎重に言葉を選んでいるようだった。
その言い方が余計に、何か大事なことを隠しているような気がして、胸がざわつく。
(交通事故……本当に? 本当に、それだけ?)
理事長室の空気が、妙に重く感じられた。
さっきまで柔らかく見えていた照明が、今はどこか色を失って、鈍く黄ばんで見える。
伊集院の横顔には、わずかな陰りがあった。
「命に別状はない」と言ってくれたその口が、別の何かを飲み込んだように、一瞬だけ固くなったのを、わたしは見逃さなかった。
――もちろん、実際にはそれは「交通事故」なんかではなく、
三森玲子を巡る戦闘の末に負った負傷と火傷の治療であり、
この場で知らされているのは、あくまで表向きの説明に過ぎないのだが――
そんな真実を、今のわたしは知る由もない。
ただひたすら、胸の中に渦巻くのは、安堵と恐怖と、そして、どうしようもない後悔だった。
「よかった」と「怖い」と「ごめん」が、三つ巴になって暴れ回り、言葉にならないまま喉の奥でつかえている。