/*/ 安生道場・夕方 /*/
号令とともに、その日の稽古が締めくくられた。
「礼!」
一斉に頭を下げる門下生たち。
畳に手をつく音と、汗のにおい。しばらくしてから、ざっ、と立ち上がる足音が続く。
「じゃあ、今日はここまで。道場の片づけして帰れよー」
胆の声に、「はいっ!」と返事が揃う。
竹刀袋を抱えた中学生たちが、名残惜しそうに雑談しながら引き上げていき、やがて道場には安生家の気配だけが残った。
竹刀立てを整理していた胆の背中に、すっと影が落ちる。
「――バカ兄」
「なんだよ、いきなり物騒な呼び方すんな」
振り返るより早く、腕を組んだ梨花がずい、と詰め寄ってきた。
道着の袖をたくしあげたまま、いつもより目が鋭い。
「なぜNSSに就職しなかった」
「は?」
竹刀袋を持ち上げた状態で固まる胆。
「うらの警備員のことか? 常駐の方な」
「そう。桜さんのポジション。なんでそこに収まってないのか、妹としては非常に疑問なんだけど」
「お前なぁ……」
胆は、がしがしと頭をかきながら苦笑した。
「……あれな、天涯孤独か傭兵上がりとかじゃないと、選考で落とされるんだよ」
「え?」
梨花の眉がぴくりと跳ねる。
「死にやすいからだよ。現場によっちゃ、それなりに。
で、死んだ時に騒ぐ遺族がいると、あとあと色々とめんどくさいから“ダメ”とか、そういう世界」
淡々とした説明のなかに、わずかな苦味がある。
NSSの裏側の仕事が、決して“きれいごと”だけではないことを、胆もそれなりに知っているのだろう。
「……ち」
梨花は小さく舌を打つように、視線をそらした。
「いまなら、あんまり騒がないのに」
「おいおい」
さすがに兄としてツッコまずにはいられない。
「“あんまり”ってなんだ。“全然”でもアウトだからな?
妹が自分の兄の死亡に無反応とか、そっちの方がホラーだわ」
「お線香くらいは、ちゃんとあげますよ?」
「フォローになってねぇ!」
そこへ、雑巾をしぼっていた友香が、にゅっと顔を出す。
「それより査定どうだったの?」
「何の話だよ」
「桜さんの、だよ。今日お弁当持ってったんでしょ?」
当然と言わんばかりに、妹たちの視線が一斉に梨花へ向く。
道場の端でモップをかけていたユイリィとルテアまで、ぴたりと動きを止めた。
「――天涯孤独、倹約家、貯金と投資、酒・ギャンブルの匂いなし」
梨花は、指を一本ずつ折りながら、事務的な口調で読み上げる。
「素晴らしい。継続的に査定する価値がある」
「出た、“継続的に”」
友香がげんなりした顔でため息をついた。
「この前も言ってたよね。“一回のデータじゃ傾向が読めないから”って」
「当たり前でしょ。人となりは短期じゃ判断しきれないわ。
最低でも三ヶ月は、生活パターンと金銭感覚と人間関係のデータが必要」
「用語が怖いんだってば!」
「本当にやるんですね……」
ユイリィが、畳の端に正座したまま、小さく肩をすくめる。
「うん。あの長女、本気だからね……」
「うわぁ……」
ルテアは、どこか楽しそうに、しかしドン引きも混ざった声を漏らした。
「攻城戦モードの梨花、久々に見た」
「失礼ね。攻城戦じゃないってば。
双方の将来のための、まじめな査定と検討よ」
「言い換えても怖いからね、それ」
友香のツッコミが、がらんとした道場に響く。
「でもま、桜さんなら、うちに混じっても違和感なさそうではあるよな」
竹刀袋を肩に担ぎながら、胆がぽつりとこぼした。
「真面目で、無駄遣いしなくて、仕事はきっちりやって……。
お前らみたいな騒がしいのにも、わりと耐性ありそうだし」
「そこ、大事な加点ポイントですね」
梨花が真顔でうなずく。
「あとで、おじいちゃんの評価も聞いておかないと。現場指導者からのフィードバックは重要だわ」
「じいさんまで巻き込むのかよ……」
胆が頭を抱える横で、ユイリィとルテアがひそひそと囁きあう。
「これ、近い将来、“家族会議”コースありますね」
「あるね。議題《桜竜樹さんをどう扱うか》」
「タイトルやめろ、ホラー感増すから!」
そのタイミングで、道場の入り口から李の咳払いが聞こえた。
「お前たち、人の評価をする前に、自分の立ち居振る舞いも見直さんかのう」
「「「「はい(……はい)」」」」
一斉に背筋を伸ばす四姉妹と胆。
しかし、その目の奥では――長女による“継続的査定プロジェクト”のチェックリストが、静かに、しかし確実に増えていくのだった。
/*/ 常駐警備員詰所・放課後 /*/
夕方の見回りを終え、校内が少しずつ静かになっていく時間帯。
詰所の窓から見えるグラウンドには、部活の生徒がぱらぱらと残っているだけで、さっきまでの喧騒は嘘のようだ。
桜竜樹は、制服姿の生徒たちが校門を抜けていくのを確認しながら、マグカップのコーヒーをひと口あおる。
インスタントだが、飲み慣れた苦みが、ようやく一息つける時間だと知らせてくれる。
「よっす」
ノックもそこそこに、がっしりした影が詰所に入ってきた。
安生胆。道場帰りらしく、ジャージ姿に汗の名残りを引きずっている。
「おう、胆か。どうした」
竜樹が椅子を回転させて向き直ると、胆は頭をかきながら、なんとも言えない顔で口を開いた。
「……うちの妹が査定とか言ってすまねぇな」
「ああ?」
一瞬きょとんとしたあと、「やっぱりか」とでも言うように、竜樹は苦笑した。
「なんか様子が変だと思ったら、そういうことか。
兄として釘を刺しに来たのか」
「ん、まあ、な」
どうにも歯切れが悪い返事に、竜樹が片眉を上げる。
「歯切れが悪いな」
「なんか妙な感じでな」
胆は詰所の壁にもたれ、腕を組んだ。
いつもなら道場での技術論か、最近の物騒な噂話をするテンションの男が、今日はどこか落ち着かない。
「家族仲が悪いわけじゃねぇんだ。ただ……“査定”とか“将来設計”とか言い出すとさ」
胆は、視線を天井に泳がせながらため息をつく。
「こっちが置いてかれてる感じがしてよ。
気付いたら、妹の方が一歩先で現実見てる、みたいな」
その言い方に、竜樹は少しだけ目を細めた。
「はは、なるほどな」
コーヒーをもう一口あおってから、軽い調子で続ける。
「心配しなくても、梨花ちゃんから誘惑してこない限りは大丈夫だ」
「そこは危ないのかよ」
即ツッコミ。詰所に低い笑いが漏れる。
「現実問題としてな」
竜樹は、窓の外をちらりと見ながら、淡々と言葉を継いだ。
「あのぐらいの身長で美人さんは滅多にいないんだぞ。
顔が整ってて、身体も鍛えてて、立ち姿もきれいでさ。
“道場主の孫娘”って肩書き抜きにしても、普通に目を引くレベルだ」
「……まあ、それは否定しねぇけどよ」
兄としては複雑そうな顔で、胆が鼻を鳴らす。
「こっちは、あいつが寝癖つけてジャージでゴロゴロしてるところも知ってるからな。
なんか、そう言われるとむず痒いわ」
「それはそれ、これはこれだ」
竜樹は、カップをテーブルに置いて肩をすくめた。
「あんまり背が小さいと、なんか悪い事してるみたいじゃないか」
「……ああ」
胆は、変に納得したようにうなずく。
「まあ、学生のうちは論外だしな。
こっちは“護る側”だ。変な目で見ること自体アウト、ってのはわかってる」
「そこは線引きしてる。職業柄な」
竜樹の声に、ほんの少しだけ硬さが混じる。
「俺の事情は、こないだ梨花ちゃんにも少し話したが――天涯孤独で、行き先によっちゃ、長く続くかどうかもわからん仕事だ。
そういう立場で、軽い気持ちで誰かの人生に踏み込むつもりはない」
「……そういうの、ちゃんと考えてんだな」
「一応な」
照れくさそうに頭をかきながらも、その瞳は穏やかだ。
「だから、釘を刺しに来たってんなら、安心しろ。
こっちから動くつもりは今んとこない」
「“今んとこ”って付け足すなよ」
「保険は大事だろ?」
ニヤリと笑ってから、竜樹は少しだけ真面目な顔に戻った。
「もし、本気で口説きに行く時が――将来、もし来るとしてだぞ?」
「お、おう?」
「その時は、その前にちゃんとお前にも筋を通す。
道場主と親父さんにも話を通して、正面から来る」
「……お前なぁ」
胆は、思わず笑いながら、ため息をひとつ吐いた。
「そんなことまで言われたら、逆に何も言えねぇだろ」
「男同士の約束ってやつだ」
竜樹が、軽く拳を突き出す。
胆も苦笑しながら、その拳に自分の拳をこつんと合わせた。
「……ま、とりあえず今は、“査定されてる側”って自覚だけは持っといてくれや」
「そっちはそっちで怖いな。
NSSの採用試験よりプレッシャーあるぞ」
「だろうな。うちの長女、本気で見極めにかかってるからな」
胆が肩をすくめると、詰所の外で、部活帰りの生徒たちの笑い声がかすかに聞こえた。
窓越しに見える夕焼けは、校舎の影を長く伸ばしている。
「しかし、お前が『天涯孤独の身です』って言った時さ」
「ん?」
「うちの長女、“ポイント高い……”って顔してたぞ」
「そこの基準がよくわからんな……」
「“うちの家族ごと背負ってもらう前提で見てるから、遺産トラブルの心配が少ない”とか、そういう発想だと思う」
「やめろ。妙にリアルな話をするな」
ふたりの笑い声が、静かになりはじめた校舎の奥で、低く響く。
安生家の“攻城戦”と、常駐警備員の“職業倫理”。
そのあいだで、男たちなりのラインの引き方が、ゆっくりと、しかし確実に形になりつつあった。
/*/ 安生家・夜のリビング /*/
夕食も片づけも風呂も終わって、安生家の一番ゆるい時間がやってきていた。
リビングのテレビでは、芸人が全力で変顔をしているバラエティ番組が流れている。
ソファには、制服からジャージに着替えた梨花が、猫のように丸くなってスマホをいじっていた。膝にはクッション、足元には脱ぎっぱなしのスリッパ。
そこへ、ダイニングの方から、どすどす、と大きな足音。
「……なにか御用ですか、バカ兄」
視線だけ上げて言うと、椅子の背に腕を引っかけていた胆が、ちょっとだけ気まずそうな顔をして近づいてきた。
「御用とか言うなよ」
そう言いつつ、テレビのリモコンを手に取って、ボリュームを一段下げる。
その動作に、なんとなく“ちょっと真面目な話するぞ”感がにじむ。
「一応、話はしてきたけれど……あんまり査定とか言って困らすなよ」
ぽん、と軽く爆弾を置くように言われて、梨花の指がぴたりと止まった。
「バカ兄にしては行動が早いですね」
ゆっくりと上体を起こし、ソファの背にもたれて、じとっと兄を見上げる。
「言ってしまったんですか。そうですか」
「“しまった”って言い方やめろ」
胆は額を押さえながら、ソファの肘掛けにどかっと腰を下ろした。
「向こう、ちょっと苦笑いしてたぞ。“ああ、そういうことか”って顔してた」
「隠すつもりもありませんし、別にやましいこともしてません」
「“査定”って言われて平然としてられるやつ、そうそういねぇからな?」
梨花は、ふふんと肩をすくめる。
「で、桜さんはなんと?」
「“梨花ちゃんから誘惑してこない限りは大丈夫だ”ってさ」
「……なるほど。では、こちら側の問題ですね」
「違う違う違う、なんでそこを前向きに捉えるんだよ!」
慌てて手を振る胆を見て、梨花は少しだけ目を細めた。
「冗談ですよ。――半分くらいは」
「半分が本気ってのが一番怖ぇんだよ、お前は」
テレビの中で笑い声が爆発するのと、胆のため息が重なる。
「……困らせるつもりは、ないですよ」
梨花が、ふっと視線を落とした。
「ただ、真面目に決めたいだけです。
こっち、“天涯孤独”どころか、巻き込まれる人間、多いですから」
道場、祖父、両親、妹たち。
そして、逢瀬学園とNSS。それら全部を背負って生きている自覚は、長女なりにある。
「こっちが適当に選んだ結果で、家族ごと巻き込むのは嫌なんです。
だから、“査定”は必要です」
「……理屈は、わかる」
胆は頭をかきながら、ぽつりと言った。
「でもな。条件ばっか先に積み上げてくとよ、肝心なとこ見落とすぞ」
「肝心なところ?」
「お前、自分でちゃんと言葉にしてねぇだろ。“好きかどうか”ってやつ」
梨花の喉が、かすかに鳴った。
「査定項目に、感情も含まれてますから」
そっけない返事をしつつも、耳たぶがほんのり赤くなっている。
「そこを一番重くするかどうかは、まだ検討中ですけど」
「重くしとけ。絶対だ」
胆は即答した。
「天涯孤独だの貯金だの投資だの、酒ギャンブルなしだの――
そういうのは“結婚したあとに感謝するポイント”であって、“好きになる理由”のメインじゃねぇからな」
「……バカ兄のくせに、いいこと言いますね」
「誰がバカ兄だ」
「バカ兄です」
いつものやり取りに戻りかけて、ふと、梨花が小さく笑う。
「――でも、そうですね。
“うちの胃袋を預けてもいいかどうか”だけじゃなくて」
ポン、と自分の胸に手を当てる。
「“ここ”を預けてもいいかどうかも、ちゃんと見ないといけませんね」
「最初からそう言え」
胆が、どこかほっとしたように息を吐いた、そのとき。
ダイニングテーブルの向こうから、紙のこすれる音と、妙な気配。
「……あのさ」
胆が目だけそちらに向ける。
宿題をしていたはずの三人の妹――友香、ユイリィ、ルテアが、ノートの影から半分だけ顔を出していた。
「聞いてないフリしてたけど、けっこう丸聞こえなんだよね、この距離」
「恋バナだ恋バナだ~」
「“査定項目に感情を含めるか検討中”ってセリフ、名言としてメモしました」
「やめろ三人ともぉ!」
顔を真っ赤にして立ち上がる梨花と、頭を抱える胆。
安生家の夜は、今日も平和で、そして少しだけ騒がしい。
長女の“攻城戦”も、兄のささやかな心配も、全部ひっくるめて――ここが、彼らの「生活圏」なのだった。