/*/ 放課後・図書室でのスカウト /*/
チャイムが鳴り終わって、しばらく経った頃。
逢瀬学園の図書室は、いつものように静かだった。ページをめくる音と、ペンがノートを走る音が、控えめに重なり合う。
そこに――場違いなほど、畳の匂いがする男が一人。
「……失礼しまーす」
道着姿のまま、竹刀袋だけは廊下の棚に立て掛けてきたらしく、肩はすっきりしているが、上はがっつり剣道着。胸には「斎藤」の刺繍。
「斎藤くん、また道着で来たの?」
カウンターの奥から顔を出したのは、図書委員の女子だった。三つ編みのメガネ、いかにも“図書室の人”という雰囲気だが、口調は柔らかい。
「一応、剣道部が生きてる証として」
「看板代わりなの? ここ」
「着替えてから来ると、閉館ギリギリになるんだよな。
それで“今日は貸出終わりました”ってなると、俺の心が死ぬ」
「心は守りに来てるんだ」
図書委員はくすくす笑いながら、貸出カードの束を揃えた。
「でも、助かるよ。
“あ、まだ剣道部あったんだ”って思ってくれる子、たまにいるし」
「ああ、2年、生きてるの俺一人だっけ?」
「そう。
名簿上は東くんもいるけどね、“東青見”」
「東は大会の時しか来ないからな」
斎藤は、本棚のSPORTSコーナーに向かいながら、肩を竦める。
「それ良いの?」
「毎日来られたら、俺が死ぬ」
「そこかー」
図書委員は、納得なのか呆れなのか分からない声を出した。
「でも、斎藤くんさ。
そうやってコツコツ稽古して、ここで本借りてるの、私は結構好きだけどね」
「褒めてんのかそれ」
「褒めてる褒めてる。
なんか“ちゃんと道場と学校の両方で暮らしてる”って感じで」
斎藤は、スポーツ心理学だのトレーニング理論だのが並ぶ棚を眺めて、一冊を抜き取る。
『試合に挑むメンタルのつくりかた』
「……これ、俺に一番いらないやつだよな」
「闘争心ブースト本だね」
「勝ちたいとかあんまり思ってないし。
負けたくない相手はいるけどさ、“勝利”ってより“怪我せず帰りたい”の方が強いし」
「じゃあ、それは棚に戻して……」
図書委員がくすっと笑って、隣の棚を指さす。
「こっち。“剣道の形”とか“基本技術の磨き方”とか。
斎藤くん、こういうの好きでしょ?」
「……分かってんな」
言いながら、素直にそちらへ移動する。
数分後、“剣道の基礎鍛錬”と“体幹トレーニング入門”の二冊を抱えて戻ってきた斎藤を見て、図書委員は「やっぱり」と頷いた。
「でしょー?」
「なんだろうな。
試合の本より、“正しい素振り一万回”とか書いてある方が落ち着くんだよ」
「斎藤くん、めちゃくちゃ“寡黙な武人タイプ”みたいなこと言ってるけど、中身は“生存志向の小市民”なんだよね」
「否定できねぇ」
二人して笑って、貸出カウンターに本を置く。
図書委員がバーコードを読み取っていると、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そう言えば。
3年の高山先輩が探してたよ」
「部長が?」
「うん。
“斎藤見なかったか”って、今日の昼もここ寄ってた。
なんか、話があるっぽかったよ」
「マジかよ……」
斎藤が思わず天井を仰いだ、そのとき。
「――おい、ここにいたか、斎藤」
図書室の入り口から、低い声が響いた。
剣道部主将・高山直哉。
部活帰りなのか、こちらも道着姿で、竹刀袋を肩に担いでいる。
「うわ、本人来た」
図書委員が小声でつぶやく。
「図書室で大声はダメです」
「あ、悪い」
高山は素直に声量を落とし、静かな歩調でカウンターに近づいてきた。
「ここならいると思ったんだよな。
放課後、“道着で本借りてく二年”なんて、お前くらいだし」
「なんかすみません」
「褒めてるんだよ」
高山は、竹刀袋を壁に立てかけて、斎藤の前に立つ。
「――で、本題だ」
「はい」
嫌な予感しかしない声のトーンに、斎藤の背筋が自然と伸びる。
「斎藤、お前が次の部長だ」
「……は?」
一拍置いて、ようやく意味が頭に入る。
「えー、マジですか。勘弁して下さいよ」
反射的に声を上げると、図書室の奥から「シーッ」という誰かの制止が飛んできた。慌てて音量を落とす。
「無理ですよ俺。
試合とか向いてないし、闘争心ないし、東にシバかれる役だし」
「自分で言うな」
高山は、少しだけ口元を緩めた。
「1年にやらすわけにも行かないだろう」
「いやでも、1年にも結構ちゃんとしたやついますよ。
声でかいのとか、“俺がエースになります!”って言ってるのとか」
「あいつらは、“自分のこと”しか見えてない」
高山の声が、ほんの少しだけ厳しくなる。
「お前は、道場でも試合場でも、
“誰がどこで何してるか”見てるだろ」
「そんなこと……」
言いかけて、斎藤は黙った。
試合よりも稽古が好きな自分。
打ち合うより、誰かのフォームを見て「あ、ここ危ないな」と思ってしまう自分。
それを、“闘争心がないだけだ”と片づけていたが――
高山は、違う言い方をしてくる。
「俺が引退したら、
東は、ほぼ確実に“大会ピンポイント要員”になる。
毎日部を回すのは、お前しかいない」
「いや、でも――」
「“勝ちたいだけのやつ”は、部員の心折ることもある。
“負けたくないだけのやつ”は、自分が折れる」
高山は、少しだけ視線を落とした。
「お前みたいに、“続けたいからコツコツやるやつ”が、
実は一番“部の空気”に向いてるんだよ」
図書委員が、カウンターの内側でじっと二人を見ている。
斎藤は、貸出カウンターに置かれた二冊の本に目を落とした。
“基礎鍛錬”
“体幹トレーニング”
勝ち方じゃなく、続け方の本。
「……図書室で、そんな真面目なこと言うの、反則だな」
「ここが一番、お前の“地元”だろ」
高山は、少しだけいたずらっぽい目をした。
「もちろん、“やれ”と強制はしない。
明日までに返事くれ」
そう言って、竹刀袋を肩に担ぎ直す。
「東には俺から話しておく。
“斎藤を潰すな、育てろ”ってな」
「プレッシャーのかけ方やべぇ……」
ぼやく斎藤を残して、主将は静かに図書室を出ていった。
ドアが閉まって、再び静寂が戻る。
「……ねえ」
カウンターの向こうから、図書委員がそっと声をかける。
「私、斎藤くんが部長でも、全然変じゃないと思うよ」
「図書委員にまでそう言われると、逃げ道なくなるんだけど」
「部長になったら、剣道の棚もっと充実させてって、さりげなくお願いするね」
「利権かよ」
笑いながら、斎藤は貸出端末のサイン欄に学籍番号を書き込む。
レシートのような紙がぴっと出てきて、図書委員がそれを渡す。
「――明日、ちゃんと悩んでから返事しなよ」
「はいはい」
斎藤は、本を小脇に抱えながら、
いつもより少しだけ重くなった道着の袖を気にした。
(部長、ねぇ……)
闘争心の弱い、自称“シバかれ役”の剣士は、
図書室と道場、そのどちらにも足を掛けたまま、
ゆっくりと図書室を後にしたのだった。