/*/ 夜のグラウンド・鬼の走り方 /*/
夏の終わりの夜風が、ほんの少しだけ肌寒い。
照明の落とされたグラウンドは、月明かりだけが白線をぼんやり浮かび上がらせていた。
校舎の明かりもほとんど消えていて、ここだけが世界から切り離されたみたいに静かだ。
「……こんな時間になんです、理事長?」
トラック脇に立つ長身の影に向かって、青見――オレが問いかける。
月を背にした伊集院貴也は、いつものスーツ姿のまま、ネクタイだけを少し緩めていた。
「彩女くんに用があったのだが、一人では不安だろうからね。青見くんも呼んだのだよ」
「はぁ」
隣では、ジャージの上からパーカーを羽織った彩女が、腕を組んで小さく身を縮めている。
「夜のグラウンドに女子高生一人呼び出す理事長とか、普通にアウトだからね? 付き添い連れて来て正解だからね?」
「そういう言い方をすると、私が危ない人のようではないか」
伊集院は、少しだけ肩をすくめて笑った。
「さて――」
その笑みがすっと消え、眼差しが彩女に向く。
「安達ケ原の鬼として、覚醒してしまったわけだが」
その一言で、空気がわずかに冷えた気がした。
彩女が、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「……“してしまった”って言い方、ちょっと引っかかるんだけど」
「良い意味でも悪い意味でも、ということだよ」
伊集院は、グラウンドに一歩踏み出した。芝と土がかすかに鳴る。
「これから、怪異の面倒ごとに巻き込まれるだろうからね。
鬼としての力を、“使わないまま”でいると、いざという時に身体も心も壊れる」
そう言って、手を軽く広げる。
「だから、今日は“鬼の走り方”を教えておこうと思ってね」
「鬼ですか……」
彩女が、あたし、といつもの一人称で小さく呟く。
「人間と同じように走ってるだけでは、人間の範疇でしかない」
伊集院は、白線のスタート位置にしゃがみ込んだ。
スーツの裾を気にも留めないで、きれいなクラウチングの姿勢を取る。
「鬼には鬼の身体の使い方があるのだよ。
私は鬼ではないが、手本を見せることくらいはできる」
「いや、理事長が“鬼ではない”って言い切るのもどうかと思うんですけど」
オレがぼそっと言うと、彩女が「それな」と小声で返す。
伊集院は聞こえているのかいないのか、淡々と続けた。
「よく見ておきなさい。――特に、安達くん」
次の瞬間、彼は静かに息を吸い込んだ。
音もなく、重心がさらに低く落ちる。
スタートの合図もないまま――地面を撃つように、前足が伸びた。
ドン、ともダッ、ともつかない、短い音。
その一歩目からして、いつも見ている陸上部のスタートと“何か”が違った。
上体が起きない。
普通なら三歩、四歩で徐々に身体を起こしていくところを、
伊集院は、前傾姿勢のまま、地面に潜り込むみたいな角度で走り出した。
月明かりの下、影が地面に貼りつく。
足が“地面を蹴る”のではなく、“地面を掴んで引きずっている”ように見えた。
一歩ごとに、靴底が地面に牙を立てるみたいな、嫌に生々しい音がする。
トントン、と軽いステップではない。
ズッ、ズッ、と“地を噛む”音だ。
体はほとんど上下しない。
人間のランナーに必ずあるはずの“ピョンピョンした揺れ”が、そこにはなかった。
ただ前へ。
地面に縫い付けられたかのような低い姿勢のまま、加速だけが増えていく。
彩女が、ごくりと息を飲んだのが横でわかった。
数秒後。
伊集院の背中は、あっという間に向こう側のカーブに消え、
次に見えたときには、もうバックストレートに乗っていた。
「……は?」
オレは思わず声を漏らした。
速い、というより、おかしい。
スーツで、革靴で、準備運動もろくにしていなかったはずなのに、
田村たち陸上部の全力疾走と遜色ない――いや、それ以上に見える。
それなのに、腕の振りも、肩も、まったく力んでいない。
一定のリズムで、ただ、“地面の方が後ろへ流されていく”。
そんな走り方だった。
半周を走り終えるころ、ようやく伊集院は、ゆっくりと上体を起こして減速した。
呼吸は少し弾んでいるが、乱れてはいない。
スタート地点まで、歩いて戻ってくる。
「……まあ、今のは“だいぶ抑えた”方だが」
「いまので抑えてるんですか」
彩女が目を丸くして言う。
「普通に、田村レベルはあったと思うんだけど」
「田村くんに見られると面倒だから、このくらいでやめておくのさ」
伊集院は、さらっと恐ろしいことを言った。
オレは、さっきのフォームを頭の中で再生する。
(前傾の角度……足の着地……跳んでない。全部“押し出す”方向に力かけてる)
人間がやるには、関節にも筋肉にも負担がかかりすぎるフォームだ。
でも――“鬼”なら。
「今のが、“鬼仕様”ってことですか?」
彩女の問いに、伊集院は軽く指を振った。
「正確には、“鬼でもできる走り方”だね。
人間が真似すると、腰か膝を壊す」
「やるなってことじゃん、それ」
「だから、君にしか教えないのさ」
真顔で言われて、彩女は黙った。
伊集院は、土をつま先で軽く掻く。
「人はね、“立って歩く”ための生き物だ。
だから走るときも、無意識に“上体を起こしたがる”」
手で、まっすぐ立った人のシルエットを描く。
「でも、鬼は違う。
“獲物を追う”ための身体だ」
今度は、前傾した姿勢を指でなぞった。
「頭を下げて、重心を落として、地面に近づくほど、
“世界が横に流れて見える”ようになる。
――それを怖がらないこと」
彩女が、口を引き結ぶ。
「……怖がらない、ね」
「君は、器械体操で“空を支配する”方法はもう知っている。
今度は、“地面を支配する”方法を覚える番だ」
「言い方が物騒なんだよなぁ」
オレが口を出すと、伊集院は軽く笑った。
「青見くんは、見ておきなさい。
君は人間のまま、人間の極致を目指す方が似合っている」
「……はぁ」
よく分からない褒められ方をされた気がする。
「彩女くん」
伊集院が、スタート位置を指さす。
「さっきの私の走りを、そのまま真似ようとしてはいけない。
まずは、“上体を起こさずに三歩だけ走る”ところからだ」
「三歩?」
「そう。全力で前傾をキープして、たった三歩。
それ以上は、まだ今の君の身体には過負荷だ」
「……分かった」
彩女は、深く息を吸ってトラックに立つ。
スターティングブロックこそないが、クラウチングの姿勢は完全に陸上部のそれだ。
「肩、上がってる」
オレが小さく声をかける。
「うるさい」
言い返しながらも、彩女の肩がすっと落ちた。
伊集院が、彼女の背中越しに言う。
「“前に進もう”とするな。“地面を噛め”」
「……?」
「足で地を蹴るんじゃない。
爪を立てるつもりで、地面ごと後ろに引きずるイメージだ」
彩女は、目を閉じて一度だけ頷き――
パン、と自分で空気を叩いて合図にした。
低い姿勢から、一歩目。
さっきまでと違う音がした。
ドン、ではなく、ズッ。
靴底がトラックに吸い付くような、奇妙な感触。
二歩目、三歩目――
そこまで。
「止まれ」
伊集院の声で、彩女は慌ててブレーキをかけた。
体勢が崩れかけて、一瞬ふらつく。
オレは思わず駆け寄ったが、理事長の方が早かった。
「危ない」
長い腕が彩女の肩を支える。
「そこから先は人間の走りに戻していい。
いきなり“全部鬼”にしようとすると、すぐ身体を壊す」
「……今の、どうでした?」
彩女は、肩で息をしながら聞いた。
伊集院は少しだけ考え込んでから、素直に答える。
「悪くない。
ちゃんと“怖がって”いたのが、特にね」
「褒めてます?」
「褒めているとも」
静かな笑み。
「鬼の力は、恐怖とセットで目覚める。
その恐怖を無視せず、ちゃんと覚えておくこと。
それが、“人間として戻ってこられる”条件だ」
彩女は、ゆっくりと息を整えながら、トラックを見下ろした。
「……あたしさ」
ぽつりと呟く。
「本当は、“鬼として強くなりたい”とか、全然思ってないんだよね。
人間として、青見と一緒に走れればそれで良かったんだけど」
「彩女」
名前を呼ぶと、彼女は苦笑いした。
「でも、巻き込まれるのはもう分かってるし。
だったら、“何も出来ないまま怖がってるだけ”なのは一番嫌だからさ」
その言葉に、伊集院はわずかに目を細めた。
「――それでいい」
低い声が、夜気の中に溶けていく。
「君は、“鬼として強くなりたい”必要はない。
“人間として、鬼の力をどう扱うか”を学べば、それで十分だ」
オレは黙って、その背中を見ていた。
伊集院が、ふとこちらに視線を向ける。
「青見くん」
「はい」
「君は、人間として、彼女の“戻ってくる場所”になりなさい」
あまりにも当然のように言われて、言葉に詰まる。
でも、否定する理由もなかった。
「……元々、そのつもりです」
そう返すと、伊集院は満足げに頷いた。
「よろしい」
月は少し高く昇り、グラウンドの影が短くなる。
「では、今日はここまで。
安達くんは、しばらく“三歩だけ鬼の走り”を練習しなさい。
そのうち、四歩、五歩と伸ばせるようになる」
「はーい……」
彩女は、まだ足元の感覚を確かめるように、スパイクのつま先でトラックを軽く蹴った。
地面が、さっきまでとは違う感触で返してくる。
(鬼の走り、ね……)
人間の限界を超えるためのフォームなのか。
怪異と渡り合うための武器なのか。
その答えが出るのは、きっともう少し先のことだ。
ただ一つだけはっきりしているのは――
この夜のグラウンドで学んだ“三歩”が、
後でとんでもなく大きな意味を持つのだろう、という嫌な予感だった。