夕飯前のキッチンには、野菜を刻むリズムと、だしの匂いが漂っていた。
「ねえ、お母さん」
彩女は冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、なんとなく気になっていたことを口にする。
「んー?」
まな板の上の人参をトントン切りながら、母が生返事をよこす。
「そういえばさ、青見と勉強する時とか、いつもこっち呼ぶじゃん。うちで。
向こうでも良くない? あっちの方が静かだし」
言ってから、少し後悔した。
こういう話題を振ると、大体ろくでもない方向に転がるのを、彩女は知っている。
案の定。
「ああ、その話ね」
包丁の音が止まり、母がにやりと口の端を上げた。
「あっちは青見くんだけしかいないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「いい雰囲気になったら、あんたたち、最後までやっちゃうでしょ? だからよ」
「――――」
握っていた麦茶のボトルが、手の中でカクンと傾いた。
ごとん、と冷蔵庫のドアが半分閉まりかけて、慌てて手で押さえる。
「さ、最後まで……って、なにを」
自分で言っていて、耳まで熱くなる。
声が裏返ったのが、余計に恥ずかしい。
「ほら、そうやって取り乱すところが怪しいのよ」
「怪しくないから!? 前提がもうおかしいんだけど!?」
顔が熱くてたまらず、彩女は冷蔵庫の冷気に頬を押しつけたくなる衝動に駆られた。
そんな娘の挙動を楽しむように、母はタオルで手を拭きながら続ける。
「あんたさ、自分で分かってないだけで、だいぶ青見くんのこと好きでしょ」
「……っ」
心臓のあたりが、面白いくらい素直にドクンと跳ねた。
図星だと認めるのも腹立たしいし、かといって否定したらしたで、さらに突っ込まれるのは目に見えている。
何も言えず、麦茶のボトルをテーブルに置くことで精一杯だった。
「でね、青見くんは青見くんで、あんたのこと大事にしてるの、こっちから見てても分かるし」
さも当然、といった口調。
「そんな二人をさ、夜、大人の目が一切ない場所に放っといて、『若い者同士でごゆっくり?』なんてやったらね」
ひらひらと手を振る。
「そりゃもう、“最後まで”行くわよねぇ。青春だもの」
「行かないから!!」
椅子の背もたれを掴んだまま、反射的に叫んでいた。
「即答で否定するから!! なんで勝手にBGMまで用意してんの!?」
「頭ではそう思ってても、雰囲気ってあるのよ、雰囲気って」
「やめて! 娘の青春を勝手に演出するなぁぁぁ!!」
全身から血が上っていく気がした。
顔だけじゃなく、首筋まで熱い。きっと今、自分は茹でダコみたいな色をしている。
そのやり取りを、ダイニングの椅子で新聞を読んでいた父が、ちらりと見やる。
「あながち間違いじゃないな」
「お父さんも乗ってこないで!?!」
彩女が慌てて振り返ると、父は新聞をたたみながら、淡々とした声で言った。
「青見くんの家は、見張り役がいないからな」
「見張りって言うな! あたしたちを何だと思ってるの!?」
「高校二年生だろう」
「それはそうだけどぉ!」
冷静すぎる答えに、思わずテーブルの角に額をこすりつけたくなる。
母はそんな娘を横目に、また口元をゆるめる。
「だから、こっちで一緒に勉強したり、ご飯食べたり、ソファでゴロゴロしたりするの」
味見用のスプーンを軽く振りながら、やわらかい声で続けた。
「“家族の目があるところでの距離感”を、まずちゃんと覚えなさいってこと」
言い方はからかっているようでいて、目だけは少し真面目だった。
その視線から逃げるみたいに、彩女は視線を床に落とす。
「……別に、変なことするつもりなんて、ないけど」
小さく呟いた自分の声が、思ったより素直で、さらに恥ずかしくなる。
「知ってるわよ」
母はあっさり頷いた。
「青見くん、真面目だし。あんたのこと、大事にしてるのも分かるしね」
「……」
「だからこそ、こっちに呼ぶの。
“大事にしてくれる子”と、“うちのバカ娘”が、どう距離取ってくのか見守る権利は、親にあるでしょ?」
「誰がバカ娘よ!」
即座に噛みつきながらも、“見守る権利”って言葉に、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
父も、コーヒーカップを持ち上げながら、ぽつりと付け加えた。
「一人暮らしの家よりはな。こっちの方が安心だ」
「……」
「何かあれば、止めに入れる」
「“何か”前提で話すのやめてよほんとに!」
また耳まで熱くなる。
テーブルの上の箸立てを、意味もなく並べ替えながら、彩女はほとんど自分に言い聞かせるように呟いた。
「……そんな、簡単に、最後までとか……しないし」
「“今は”ね」
母の一言に、勢いよく顔を上げる。
「“今は”ってつけ足すなぁぁぁ!!」
悲鳴に近い声がリビングに響き、父が新聞越しに苦笑した。
母はそんな二人を眺めてから、くるりと彩女の方へ向き直る。
「まあ、心配しなくていいわよ」
今度は少しだけ、いつもより柔らかい声だった。
「いざって時、一番ブレーキ踏みそうなの、あの子の方だもの」
その瞬間、頭に青見の顔が浮かぶ。
真面目で、変なところで律儀で、妙に不器用な彼の顔。
(……たしかに)
勝手に納得してしまいそうになり、慌てて首を振る。
「な、なに勝手に納得してんの、あたし!」
「顔に書いてある」
「書いてない!!」
両手で頬を挟んだって、熱は引いてくれない。
母はくすくす笑いながら、人参を再び刻み始めた。
「つまり結論」
包丁の音にリズムを乗せるように、軽い調子で言う。
「青見くんちに行くのは、もうちょっと先の――お楽しみ、ってことね」
「お楽しみにすんなーーー!!」
彩女は椅子の背もたれに額を押しつけながら、半泣きで叫んだ。
そして、ふと何かを思い出して顔を上げる。
「……ちょっと待って。じゃあさ、ひとつ聞いていい?」
「なに?」
「そういえば、青見とのキャンプはどうして許可してくれたの?」
あれだって、男女混合で、テントでお泊まりだった。
今さらながら、その事実に気づいてしまったのだ。
母は「そこに来るか」と言いたげに目を細め、あっさり答えた。
「冬のキャンプでマイナス10℃にもなる時に、テントの中でそんな事できないでしょ」
「ちょっと待って!? 前提がおかしいってば!!」
耳の先まで一気に熱くなる。
「焚き火から離れたら凍えるし、寝袋から出たら負けよ、あれは」
「具体的なイメージ付けてこないで!! ていうか、そんな状況で何を想定してんのよ!!」
彩女がテーブルをばんばん叩く横で、父がうむ、と妙に納得した声を漏らした。
「たしかに、あの気温なら心配いらんな」
「お父さんまで真顔で納得しないで!? 娘のキャンプをなんだと思ってるの!?」
「防寒訓練だろ」
「ロマンもへったくれもない!!」
彩女は耳まで真っ赤にしながら、思いきりため息をついた。
母はそんな娘をおかしそうに眺めてから、肩をすくめる。
「だから、まあ。家で勉強するくらいは、まだ全然ぬるいのよ」
「何と比べての“ぬるい”なのよ……」
「人生いろいろ。気温もいろいろ」
よく分からないまとめ方をされて、彩女はもう何も言い返せなくなる。
再び包丁の音がトントンと鳴り始めた頃、ちょうど玄関のドアが開いた。
「お邪魔しましたー……」
リビングの戸の向こうを、帰ろうとしている青見の声が通り過ぎる。
どうやら、会話の半分くらいは聞かれていたらしい、という事実に気づくのは――
廊下で目が合ったとき、彼が妙に気まずそうに視線をそらした、その数分後のことだった。
彩女の顔は、さっきまでの比ではないくらい真っ赤になり、
そのまま自室に逃げ込むまで、母の笑い声に追いかけられることになる。