月城総合病院――白い外壁とガラス張りのエントランスが、どこか非日常の入口みたいに見えた。
タクシーを降りて、自動ドアをくぐった瞬間、鼻をつく消毒液の匂いがふわっと押し寄せてくる。
受付で学校名とわたしの名前を告げると、「ああ、伊集院先生から聞いてます」とすぐに話が通って、案内係の人が病棟まで付き添ってくれた。
エレベーターで上がった先の廊下は、学校の廊下とは違う、やたらと静かな世界だった。
さっきまで聞いていたクラスメイトたちの雑談も、チャイムの音もなくて、あるのは機械の電子音と、遠くで誰かが咳をする小さな音だけ。
(……青見)
胸の内側を、また同じ名前がぐるぐる回る。
交通事故。
怪我。火傷。
命に別状はない――頭で反芻しても、不安はちっとも薄まらない。
「こちらです」
案内の人が足を止めた先、プレートには「305号室」とだけ書かれている。
名前札のところに「青見」の二文字を見つけて、喉がぎゅっと詰まる。
「じゃあ、あとはご家族の方が中にいますから」
そう言って、案内の人は軽く会釈して立ち去った。
残されたわたしは、しばらくドアの前で固まってしまう。
(家族……)
その単語から、頭の中で自動的に浮かぶのは、葬式の記憶だった。
線香の匂い、押し殺した泣き声、噂話。
あの時、何もできなかった自分。
心臓がいやな音を立てて跳ねる。
ドアをノックしようと手を持ち上げた、その時。
「あら、もしかして安達さん?」
先に、向こう側からドアが開いた。
思わず一歩下がったわたしの視線の先に立っていたのは――
肩口で切りそろえた柔らかそうな髪に、淡い色のカーディガン。
白いブラウスに膝丈スカートという、いかにも「きちんとしたお母さん」という格好なのに、全体の雰囲気は驚くほど若々しい。
ぱっと花が咲いたみたいな、清楚系の笑顔。
この人に高校生の娘がいるなんて、一瞬信じられない。
「あ、あの……」
状況に追いつけず固まっているわたしに、その人はふんわりと微笑んで会釈した。
「初めまして。松坂理恵子といいます。松坂愛香の母です。貴也さんに頼まれて、少し青見くんのそばについていてね」
(……松坂、愛香)
名前を聞いて、やっと繋がる。
同じ学校の同級生で見かける、可愛らしい惣一郎の幼馴染――そのお母さん。
「お友達が心配するから、愛香から惣一郎くんに伝えてくれるように頼んだのだけど?」
理恵子さんは、まるで「コンビニ寄るけど何かいる?」くらいの自然さで言った。
「聞いてない、です」
条件反射みたいに答えてしまってから、ハッとする。
(……惣一郎、聞き流したな。あとで、しめる)
頭の中でだけ、ぐっと目を細めて拳を握る。
こんな時じゃなかったら、本気で小一時間説教コースだ。
「あら、そうだったの」
理恵子さんは、困ったように、それでもどこか楽しんでいるみたいに目を細めた。
惣一郎のいい加減さに慣れている人の笑い方だ。
「でも、来てくれて良かったわ。安達さん、だったわね?」
「は、はい。安達彩女です」
「彩女さん。素敵なお名前ね」
何でもない一言なのに、その言い方がとても柔らかくて、少しだけ肩の力が抜ける。
この人がここにいるという事実が、病室の前の空気を、ほんの少しだけ優しくしてくれている気がした。
「青見くんなら、ちょうど起きたところよ」
そう言って、理恵子さんはドアの方に体を向ける。
「中へどうぞ。……きっと、あなたの顔を見た方が、青見くんも安心するわ」
ドアの向こうからは、機械の規則正しい電子音と、かすかな人の気配が漏れてくる。
わたしはごくりと唾を飲み込んで、小さく頷いた。
「……お邪魔します」
震えそうになる手で、わたしはそっと病室の中へ足を踏み入れた。
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病室の中は、外の廊下よりさらに静かだった。
窓際のカーテン越しに差し込む光が、白いシーツの上をぼんやりと照らしている。
ベッドがひとつきり。
他に患者はいない。
個室だ――と気づいた瞬間、伊集院貴也の顔が頭をよぎる。
(……さすが理事長パワー)
そんな場違いな感想で、ぎりぎり正気を保っている自分がいる。
ベッドの上、青見は上体を少し起こしていた。
右腕には包帯、鎖骨あたりにも固定用のベルト。
頬に薄く擦り傷と、火傷のあとみたいな赤みが残っているけれど、説明に聞いて想像していたほど「ボロボロ」ではなかった。
(……思ってたより、元気そう……)
胸の奥で、ほっとする感情と、今さらになってこみ上げてくる怒りが、ぐしゃっと混ざる。
「あ。……来たんだ、彩女」
視線に気づいた青見が、いつもの調子で、少しだけ照れくさそうに口角を上げた。
か細いけれど、ちゃんと声が出ている。その事実だけで、膝ががくっと抜けそうになる。
「……‘あ’、じゃない」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
怒っている。
怒っているのに、その理由が「無事でよかった」に限りなく近くて、余計に腹が立つ。
「あらあら、やっぱり来てくれて良かったわね」
後ろから理恵子さんがくすっと笑う。
「じゃあ、わたしは一度、飲み物でも買ってくるわ。彩女さん、ゆっくりお話してあげて」
そう言って、空気を読むというレベルを軽々と飛び越えた気遣いで、そっとドアの方へ向かう。
「え、あ、すみません……」
「いいのよ。若い子同士の方が、きっと本音で話せるでしょう?」
意味ありげにウインクなんかしてから、理恵子さんは病室を出て行った。
ドアが閉まる音が、妙に大きく響く。
残されたのは、わたしと青見――二人きり。
しばしの沈黙。
電子音だけが、一定のリズムで刻まれている。
「……酷い顔だよ」
先に口を開いたのは青見だった。
「どんな顔よ」
「半分泣きそうで、半分、殺意こもってる」
「殺意はあるわよ」
即答した。
青見の肩が、ビクリと跳ねる。
「あー、……うん?」
「……一日中、どれだけ心配してたと思ってんのよ、バカ」
最後の「バカ」で、声が少し揺れた。
喉の奥が熱くなって、視界の端がじんわり滲む。
泣くな。ここで泣いたら負けだ。
そう思うのに、涙腺は容赦なく決壊の準備を始めている。
「いや、その……悪かった」
さすがに気まずそうに視線を逸らしながらも、青見はいつもの調子で言葉を繋ごうとする。
けれど、すぐにふっと真顔になった。
「……理事長から、聞いた?」
「交通事故、ってやつ?」
「うん」
短く頷いた青見は、ほんの少しだけ、言葉を選ぶ間を置いた。
その仕草が、伊集院貴也と重なる。似ているわけじゃないのに、同じ「嘘をつかなきゃいけない大人」の空気を帯びていた。
「昨日さ。墓参りの帰りだったんだよ」
「……墓参り?」
思わず聞き返す。
昨日、自分も墓地に行った。
そこにはいなかった――その事実が、じわりと胸にしみる。
「ああ。父さんと母さんの」
青見は天井を見上げるようにして、淡々と続けた。
「命日ってわけじゃないんだけど。ちょっと、行っとこうかなって。……で、その帰り道」
淡々としているのに、一言一言がひっかかる。
わたしが足を踏み入れた、あの静かな墓地。
もしかしたら、ほんの少し時間がずれていたら――どこかですれ違っていたのかもしれない。
「車が来たのは覚えてる。ライトが近づいてきて……で、次に気づいたら、ここ」
「……ひき逃げ、ってやつ?」
「らしいよ。警察がそう言ってた」
「らしいな」と言いつつ、その言い方には微妙な距離感があった。
本当のところは別にある――そんな匂いが、彩女の勘にだけ、かすかに引っかかる。
「覚えてないところも、結構あるんだ。墓からの帰り道の途中から、記憶が途切れててさ。……まあ、頭も軽く打ったらしいし」
それは本当なのか、嘘なのか。
きっと半分は本当で、半分は意図的に曖昧にしている。
もちろん、実際にはそんな単純な事故ではなく――
三森玲子を巡る怪異との戦闘の末、フォーマルハウトの彼方まで行って帰ってきた結果なのだが、
そんなことを口が裂けても言えるはずがない。
「見た目ほど酷くはないよ、これ」
青見は、軽く包帯の巻かれた腕を持ち上げて見せた。
「先生が言うには、若いから治りが早いってさ。……一週間もあれば退院できるって」
「一週間……」
「学校サボれるって思ったろ?」
「思ってない」
即答すると同時に、なぜか自分でおかしくなって、ふっと笑いが漏れた。
笑ってしまった自分に気づいて、急いで表情を引き締める。
(……なに笑ってんのよ、わたし)
でも、その一瞬で、胸を締めつけていた何かがほんの少しだけ緩んだのも事実だった。
「私立だからな。こういう時、理事長特権ってやつで、個室に突っ込まれたらしい」
青見が小さく肩をすくめる。
「ほら、うるさい相部屋より、そっちの方がいいだろって。……おかげで、ひとりで考え事する時間はたっぷりあった」
「何よ、それ。……貴也さん、相変わらず、そういうところ抜け目ないわね」
彩女の口から「貴也さん」という呼び方がするりと出てくる。
さっき理事長室で向き合ったばかりの姿が、ここでも影を落としている。
「スマホは?」
「ああ、そっちは完全にアウトだったって。車に弾き飛ばされたか、踏まれたかで、粉々。……中身戻ってくるかどうかも怪しいって」
「だから、連絡もつかなかったってわけ」
「うん、そーいうこと」
また、少し沈黙が落ちた。
さっきまでみたいな重苦しい沈黙じゃなくて、どこに言葉を置けばいいか探している、ぎこちない沈黙。
「……怒っていいかどうか、迷うのよね」
ぽつりと、口が勝手に動いた。
「え?」
「心配かけたって意味では、全力で怒りたいし。
でも、こうして生きてるからには、怒る前に‘よかった’って言うべきなんだろうなって思うし。
でも、‘よかった’って言ったら、多分わたし泣くし」
言いながら、もう涙声になっていた。
視界の中の青見の輪郭が、ぼやけていく。
「……悪かった」
青見は、それだけ言った。
いつもの皮肉も、軽口もない、ただ真っ直ぐな謝罪だった。
「次からは、ちゃんと連絡ぐらいしろ。……って言いたいけど」
「次からは、ひき逃げに遭わないように気をつけるよ」
「そういう意味じゃない」
呆れ混じりに吐き捨てると、青見がふっと笑った。
その笑いが、病室の空気から「死」の匂いを一気に追い払っていく。
――交通事故というカバーストーリー。
魔術によって既にかなり癒やされている傷。
一週間で退院できるという医師の診断と、理事長の計らいによる個室。
その全部が、綺麗にまとめられた「表向き」の真実だった。
それでも、彩女にとって一番大事なのは、その裏にどんな怪異と星々の名が隠れていようと――
いま、この瞬間。
青見が、生きていて、ここで冗談を言っているという、その事実だけだった。