竹刀が鳴り止んだあと、しんと静まり返った逢瀬学園の剣道場に、二人分の荒い息だけが残った。
「……またシバかれたわけだが」
面を脱ぎながら、斎藤が天井を仰いだ。前髪が汗でぺたりと額にはりついている。
「そんなにボコボコにしてないだろ」
青見も面を外し、顎紐をほどきながら苦笑する。防具越しでも分かるくらい汗まみれだが、動きに大きな乱れはない。
「冗談きついわ。一本取られてから、立て続けに三本入れられたんですけど」
斎藤は胴着の前をぱたぱた仰ぎながら、ぐったりと正座した。
「道場でやってるの、剣道じゃないからな」
青見は竹刀を拭い、手近な壁にもたれかかる。
「時々こっち来て、剣道の感覚忘れないようにしとけって言われてるだけだし」
「それは知ってるよ。安生道場の方が、本職だろ」
斎藤は苦笑しながらも、ちらりと青見の腕に目を向けた。余計な力みのない、しなやかな筋肉。竹刀を握ったときの“芯”の太さが、そこからも分かる。
「それに、斎藤も強くなってるよ」
「……本当かよ。お世辞はやめろ」
「お世辞じゃないって。打ち込める隙がだいぶ減ってる」
青見は、さっきの立ち合いを思い出すみたいに、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「前は、構えた瞬間に“ここ”って見えるタイミングがあったけど、今のは待たされる。焦れるくらいには、守りが固くなってる」
「……」
「一年とやると分かるだろ」
そう続けると、斎藤は少しだけ目をそらした。
「一年とやるとさ……遠慮してんのか、見合いになっちまうんだよな」
打ちたがらない一年と、譲り癖のある自分。お互い様子見しているうちに、時間だけが過ぎていく。
「それが“打ち込めない”ってことだよ」
青見はあっさりと言う。
「怖がらせたくない、怪我させたくない、って気持ちは分かるけどさ。どっかで“それでも打つ時は打つ”って決めないと、いつまでも踏み込めない」
「……分かっちゃいるんだけどな」
斎藤は頭をかいた。
「どうしても、“そんなに勝ちたくねーな”って思うと、最後の最後でブレーキ踏んじまうんだよ。勝ちを譲るっていうか」
「斎藤らしいけどな、それ」
責めるでもなく、ただ事実として言う声だった。
「手嶋顧問に警察の道場連れてってもらうとさ」
斎藤は話題を変えるように、ぽつりと続けた。
「マジで“バシバシ打ち込まれる”ぞ。遠慮ゼロ。みんな“勝つ”とかじゃなくて、“ここで決める”って感じでくる」
「……あそこは別格じゃないか?」
青見は苦笑した。警察道場の空気を、少しだけ思い出す。
「そこでも無双した奴が、何を言うんだよ」
「してねぇよ。勝手に盛るな」
「いや、してたからな? 手嶋先生も、“あいつは化け物だ”って言ってたぞ」
斎藤は冗談めかしながらも、本気でそう思っている顔をしていた。
「そういう“化け物”と毎回やってると、そりゃ強くもなるわ。こっちの胃が持たねえけど」
「悪かったな」
「感謝してるよ。一応」
そう言って、斎藤は竹刀を手のひらでぽん、と叩く。
「少なくとも、前みたいに、防具の上から吐きそうになる回数は減ったし」
「それは手加減覚えたからな」
「安生道場行くようになってから、だいぶマイルドになった気がする」
「“人を壊さない打ち方覚えろ”って、ずっと言われてるからな」
青見の声が、少しだけ真面目になる。
「それは、オレにもありがたいわ」
斎藤はため息まじりに笑った。
「……でも、まあ」
竹刀を立てかけながら、天井の梁を見上げる。
「こうやって時々、ここでシバかれてるとさ。
“ああ、ちゃんと剣道やってるな、俺”って気にはなるんだよな」
「なら、続けとけよ。部長なんだから」
「それ言う?」
斎藤は顔をしかめた。
「ギラギラしてる奴らまとめるの、ほんと向いてないんだけどな、俺」
「向いてないな」
「即答やめろ」
そう言い合いながらも、どこか晴れた空気が剣道場に流れていた。
夕方の西日が、窓から差し込んで、吊るされた防具と竹刀の影を長く伸ばす。
その中で、二人の息だけが、まだ少し荒く続いていた。
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放課後の剣道場。
掃除を終えた一年たちが、竹刀を片づけながらひそひそと話していた。
「さーてと……あー腕いてぇ。今日も斎藤部長にボコられたわ」
「なあ、思うんだけどさ」
一人が、竹刀袋のひもを結びながらぼそっと言う。
「斎藤部長、弱い弱い言ってるけど、普通に強いよな?」
「それな。あの人、いつも“俺は試合向いてない”とか言うけどさ」
もう一人が肩を回しながら、苦笑混じりに続ける。
「東先輩がおかしいだけだよなぁ。あれ基準にしたら、そりゃ自信なくすって」
「あー、それは分かる。東先輩とやった一年、みんな一回は心折れてるしな」
「ていうかさ」
さっきまで打ち合っていた一年が、自分の面を見つめてため息をついた。
「斎藤先輩に面喰らうと、普通に立てなくなるんだけどなぁ。
なんかこう、ガツンってきて、気づいたら視界ズレてる感じ」
「分かる。防具の中で一瞬“あ、今やられたわ”って悟るやつだろ」
「なのに本人は“まだまだだわー”って首かしげてんだもんなぁ……」
三人してそろってため息。
その少し離れたところで、防具を拭きながら斎藤がちらりと視線を向ける。
聞こえているのかいないのか、微妙な距離。
けれど、ふっと口元だけが緩んだ。
(……まあ、“東がおかしいだけ”ってのは、全力で同意だけどな)
そんなことを心の中でだけ呟いて、斎藤は何事もなかったように一年の方へ振り返る。
「おい、そこ。竹刀の手入れサボるなよ。弱い奴ほど道具だけはきっちりな」
「はーい!」
返事の声は元気よく、どこかちょっとだけ、斎藤という部長への信頼が混じっていた。
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稽古終わりの剣道場に、まだ熱気が残っていた。
一年たちがぞろぞろと竹刀を片づけはじめ、床には汗と防具の匂いがうっすら漂っている。
「おーい、お前ら」
更衣室に引っ込む前に、斎藤が一年組を呼び止めた。竹刀袋を肩に掛けたまま、片手で自分の竹刀をくるりと回して見せる。
「道具の手入れ、ちゃんとやっとけよ」
「してますよー、一応」
「“一応”とか言うな」
斎藤は溜息をひとつついて、ささくれ立っていないか自分の竹刀を指先でなぞる。
「道具の手入れはな、自分のためだけじゃない。相手もケガさせるからだ」
一年たちが、ちょっと真面目な顔になって竹刀に視線を落とす。
「今年の大会でさ」
斎藤は、思い出したように眉をひそめた。
「東の相手の竹刀がバラけて、あいつの眼に刺さるところだったんだよ」
「えっ」
すぐそばにいた一年が、ぎょっとして顔を上げる。
「それ……大丈夫だったんですか?」
「東は普通に避けた」
あまりにもあっさりした言い方に、一年がぽかんとする。
「普通に、って……」
「まあ、あいつ基準の“普通”だからな」
斎藤は肩をすくめた。
「けど、普通の人間ならマジで失明させるからな。
あれ見て、手嶋先生も相手側にめちゃくちゃ怒ってたろ。竹刀の点検ちゃんとしろって」
そこまで言うと、一年たちは慌てて自分の竹刀を持ち直し、節のあたりを指で押してみたり、ささくれを探し始めた。
「だから、ささくれたらちゃんと削る。ヒビ入ってたら張り替え。
面倒でも、それサボると、自分の目とか、相手の目を賭けることになるからな」
斎藤はそう締めくくると、少しだけ声を和らげた。
「弱い奴ほど、道具だけはきっちりな。強さは後からでもどうにかなる」
「……はい!」
今度の返事は、さっきよりずっと揃っていた。
その様子を見て、斎藤は小さく息を吐き、竹刀を肩に担いでから、ようやく更衣室へと向かった。